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緑走る台地 ~潮流~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月6日
  • 読了時間: 5分

第一章 父からの電報

 昭和八年(1933年)初夏、東京は短い晴れ間が訪れたかと思えば、すぐにどんよりとした灰色の雲に覆われる落ち着かない天候が続いていた。 幹夫は印刷所のいつもの作業を終え、夕刻に下宿へ戻ったところ、郵便受けに小さな電報が挟まっているのを見つけた。 「……静岡からだ」 心臓が高鳴る。父の容態が急変したのかと恐れ、震える手で封を切ると、文面は予想外に短く、そして穏やかだった。

 「体ハ少シ回復 茶畑守ル道 見エ始メル 連絡乞フ」

 幹夫は目を見張る。あの父が、茶畑を――軍の飛行場に奪われつつある土地を、まだ諦めていないのだ。少しだけ胸に希望が生まれ、「連絡が欲しい」という言葉に安堵する。彼はすぐに電信局へ向かい、返事を打とうと決めた。

第二章 微かな光

 印刷所の翌朝。いつものように軍向けの大量印刷が続き、社長は疲弊しきった表情で仕事を仕切っている。 幹夫が機械の調整をしていると、堀内がそっと寄ってきた。 「電報が来たんだって? 父さん、少し良くなったのか」 幹夫は笑みを浮かべ、静かに頷く。 「茶畑を守る道が見え始めた、と書いてあった。詳しいことは分からないけど、父が動けるようになったんだと思う」 堀内はふっと息を吐き、 「良かったじゃないか……静岡の地もまだ終わったわけじゃないんだな」 幹夫は胸に暖かいものが広がるのを感じる。自分が短い間とはいえ静岡へ帰り、父に会えたことが、何らかの形で力になったなら嬉しい――そう思わずにはいられなかった。

第三章 紙に宿る希望

 昼休み、幹夫は廃材置き場の裏手へ回り、もう紙を持ち出す必要がなくなったはずの場所を再び確かめた。山岸は現れない。 だが、そこに山積みされた紙端や余白の束を眺めるうちに、幹夫はまた小さな**“声”**を感じ取る。 (これだけの紙があれば、きっとビラだって幾らでも作れる。その可能性はまだある。たとえ山岸がいなくなったとしても、誰かが続けようとすれば、ここから先も紙は“声”を生むかもしれない……) 軍の監視が厳しくなり、取り締まりが激化していても、一度根づいた“抵抗”の火はそう簡単には消せないのかもしれない――幹夫はその思いを胸で温める。

第四章 古い地図の行方

 夜、下宿に戻った幹夫は、先日押し入れから見つけた古い東京地図を開いてみた。井上が走り書きしたと思しきマークや短い言葉が残っている。 「ここに来れば、いつか会える。市民の声は途絶えない」 (もしかすると、井上や山岸の仲間はまだこの辺りで動いているのでは……) かつて井上や山岸のようにビラを作り、配り、反戦を唱える者が拠点としていた場所かもしれない。もしビラ活動が続いているなら、そこを探してみる価値があるのか、と幹夫は考える。 しかし同時に、自分が積極的に動けば印刷所や堀内を危険に巻き込むかもしれない――その恐怖が心を縛る。 「父さん……もしあんたがここにいたら、なんて言うんだろう」 錆びた風鈴を指先で軽く揺らすと、かすかな金属音が鳴りそうで鳴らない。まるで父の代わりに沈黙するようだった。

第五章 薄暮の街へ

 翌日の残業後、幹夫は思い切って地図に示された場所に足を向けることを決めた。夕暮れ時、街頭には軍のポスターがこれでもかと貼られ、警官が巡回している姿がちらほら見える。 地図を頼りに路地を抜け、古い倉庫街のような場所に出る。そこはかつて井上と訪れたかもしれない――いや、記憶はあやふやだが、なんとも懐かしさと緊張が入り混じる雰囲気を持つ。 「ここに、誰かいるのか……?」 幹夫は恐る恐る雑居ビルの裏手を覗き込む。人気は感じられないが、どこかでかすかに人の気配がするような気がした。

第六章 かすかに響く音

 しばし雑居ビルの通用口を眺めていると、ふと背後で**チリン……**という微かな鈴の音が聞こえたように感じた。 (まさか……風鈴? こんな場所に……) 幹夫は胸がどきりと高鳴る。闇に溶け込むように耳をそばだてるが、すぐに音は止んでしまう。 「誰かいるんですか……?」 思わず声を潜めて呼びかけるが、路地の奥へ続く闇は答えず、わずかな風がビルの隙間を抜けるだけ。幹夫は肩を落としつつも、井上や山岸の幻影を追うかのように、その奥に進もうか迷う。 (もしここに踏み込めば、仲間と繋がれるかもしれない。でも、危険を呼び込むかもしれない……) ついに意を決して一歩を踏み出しかけるが、遠くで警官の笛の音がかすかに響き、幹夫は慌てて身を引いた。 「今はまだ……無理か……」

エピローグ

 下宿へ戻った幹夫は、また二つの風鈴を眺めて物思いに沈む。静岡の父は、少しずつ茶畑再建の糸口を見出そうとしている。東京では、山岸たちがビラを撒いているのか、その動きは沈黙に包まれつつある。井上の行方は依然として霧の中だが、仲間の誰かがあの古い地図の場所に潜んでいるのかもしれない。 「いつか、この二つの鈴が同時に響く日が来るのだろうか……東京と静岡が繋がって、戦争の流れを変えられるなら……」 そんな夢のような考えを抱きつつ、幹夫は布団に横たわる。虚しいようでいて、かすかな可能性を捨てきれない――それが彼の夜の心境だ。 闇夜の中、二つの鈴は相変わらず黙り込んだままだ。だが、幹夫は信じたい。ほんの少しの風でも、その音を鳴らすことができるという事実を。昭和の暗雲をかき分けるように、小さな音がどこかで生まれ続けていることを……。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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