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緑走る台地 ~特高~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 6分

第一章 決意の印刷

 昭和八年(1933年)を迎える頃、東京は厳しい寒波に包まれていた。夜の冷気がビルとビルの狭間を吹き抜け、しんしんと底冷えする。 下宿を出て裏通りを抜けた幹夫は、暗闇の中にたたずむ東神田の倉庫へ足を運ぶ。扉を軋ませて入ると、僅かなロウソクの明かりのもと、井上や仲間たちが黙々とガリ版刷りに精を出していた。 彼らの机には「反戦」「軍拡反対」「庶民を救え」といった言葉が並ぶ原稿用紙が広がっている。すでに警察の追及は厳しく、「反国策」とみなされれば逮捕も免れない時代。それでも彼らは少しでも事実を訴えたいのだと、懸命に文章を綴っていた。

 幹夫は印刷所からかき集めた廃材紙をそっと机に置いた。 「これ、また余り紙だけど……多少は使えると思う」 井上が顔を上げ、安堵の笑みを浮かべる。 「幹夫、ありがとう。おまえの助けがなかったら、きっと俺たちはとっくに行き詰まっていた。あとは、どれだけ多くの人の手にこのビラを渡せるかだな……」

 ビラの内容は一段と過激になりつつあった。満洲事変以降、軍の勢力はさらに強まっており、新聞やラジオは“国威発揚”一色。そこに異を唱える行為は、もはや「国家反逆」と見なされてもおかしくない。それでも、井上や幹夫たちには引き下がれない理由があった。

第二章 堀内の忠告

 数日後、幹夫が印刷所で機械を動かしていると、同僚の堀内が無言で近づいてきた。堀内は元軍人という経歴を持ち、常に冷静沈着な態度を崩さない男だが、このところ幹夫に対しては気遣わしげな眼差しを向けてくる。 「……幹夫。最近、警察や憲兵がこの辺りをうろついてるらしい。反戦ビラの出どころを嗅ぎ回ってると聞いた。おまえ、気をつけろよ」 機械のリズムが一瞬乱れ、幹夫は心臓を大きく揺さぶられる。やはり井上たちの活動が察知され始めたのかもしれない。 「ありがとう。堀内さんこそ、俺が変な動きをしているせいで疑われてないか……」 堀内は微かに笑う。 「俺は軍にいた頃、上官に反抗することはなかったが、心のどこかで“このままじゃ国は破滅する”と感じていたよ。もし俺も疑われるなら仕方ない。だが、おまえの仲間たちは、周到に動かないといずれ捕まるだろう。できるだけ気をつけろ」

 堀内のまなざしには複雑な思いがこもっているようだった。幹夫は彼が何かしら後ろ盾になるような存在かもしれない、とさえ感じた。しかし、それを言葉にすることは憚られる。時代がそれを許さない。

第三章 雪降る静岡

 その晩、下宿に戻ると、また静岡の父・明義からの手紙が投函されていた。珍しく封が分厚い。開封すると、小さな写真が一枚落ちる。そこには牧之原台地の風景が写っていた。かつて果てしなく広がっていた茶畑の一角に、重機らしき姿が見える。軍用飛行場の整備が本格化し始めたのだろう。 手紙には父の嘆きが綴られていた。 「多くの農家が軍への用地譲渡を了承した。この不況下、補償金や雇用が生まれると期待する人もいる。わたしも反対の立場を貫くが、“時代の流れに逆らう愚か者”と見られているよ。だが、おまえが東京で得た知恵や声をいつか戻してくれれば、この地の人々が再び自力で立ち上がる日が来ると信じている。写真は変わり果てる前の茶畑の記憶として送る。どうか忘れないでほしい。」

 幹夫は写真を握りしめ、心に誓う。「父さんは最後まで静岡を守ろうとしている。俺はどうだ? ただビラを運び、印刷所で機械を回すだけで終わっていないか……」 時代に呑まれながらも、自分の手で変えられるものは何か。父の苦悩が痛いほど胸に伝わり、幹夫は布団の中でその問いに翻弄され続けた。

第四章 ビラ配りの夜

 再び東神田の倉庫に足を運んだ幹夫を、井上たちは夜の街頭に誘った。できあがったビラの一部を直接配布し、残りを郵便箱に投函したり、人目につきやすい場所へ貼るという。 「ここまで来たら、一気にやるしかない。今ならまだ警察は大規模な捜索を仕掛ける段階にないはずだ」 井上の声には悲壮な決意が宿っている。幹夫もリュックに詰め込んだ大量のビラを手にしながら、下宿へ帰るルートを頭に思い描く。

 深夜の路地裏、誰もいない電柱や掲示板に素早くビラを貼り、通りがかる郵便受けに忍ばせる。幹夫は胸が高鳴り、指先が震えるのを感じた。いつ捕まってもおかしくない行為。しかし、父の写真に映る茶畑を思えば、踏みとどまるわけにはいかなかった。 ビラには、**「戦争を拡大すれば日本の農村はさらに困窮する」「満洲の実態を直視せよ」**という文言が躍り、静岡の名も小さく添えられている。“静岡の茶畑も軍に奪われつつある”——それが人々の目に留まることを幹夫は願っていた。

第五章 追われる足音

 仲間たちと手分けしてビラ配りを終え、夜明け近い頃、幹夫は疲れた足取りで下宿へ向かっていた。すると、背後でどこか重い足音が聞こえる。ふと振り向くと、警官らしき姿がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。 「そこの若いの、待て!」 幹夫は驚きと恐怖で心臓を掴まれたようになるが、とっさに裏路地へ逃げ込んだ。下宿とは逆の方向だが、捕まるわけにはいかない。朝焼けに染まる空を背に、必死に走る。 警官の声が近づいたり遠のいたりするなか、いくつもの曲がり角を縫うように駆け抜ける。薄暗い格子戸の外で足を止め、息を潜めると、巡回の警官らしい足音が前方を通り過ぎていった。幹夫は荒い呼吸を整えながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。「危なかった……」

第六章 堀内の援護

 警官の気配が去り、道端に蹲っていた幹夫がようやく体を起こすと、すぐ近くで低く囁く声がした。 「……こっちへ来い」 顔を上げると、見慣れた人影——そう、印刷所の堀内が路地の奥から手招きしていた。 「堀内さん……どうしてここに?」 堀内は眉をひそめ、辺りを警戒しながら言う。 「おまえらがビラ配ってるって噂を聞いて、念のため様子を見に来たんだ。俺の元軍仲間から、警察の動きが活発化しているって情報が入ったもんでな」

 幹夫は疲れ切った体をなんとか引きずりながら、堀内についていく。路地を回り込んで辿り着いたのは古い長屋で、どうやら堀内の下宿先らしい。土間に匂う畳の湿気が、わずかに安堵感を呼び起こす。 「しばらくここで隠れてろ。朝方になれば警官の巡回も落ち着くだろう」 堀内は簡素な布団を差し出し、幹夫を促した。夜通し走り回った疲労と安心感が相まって、幹夫は思わず布団に沈み込む。ここで一眠りすれば、警官の網を避けられる。 目を閉じると、父の静岡弁混じりの語り口が遠くで聞こえるような気がした——「最後まで諦めるな。おまえが学んだものは必ず無駄にはならん」

エピローグ

 翌朝、曇天の空に薄日が差し始めた頃、幹夫は堀内の部屋を出て下宿へ戻った。姿を消した井上たちの行方はわからないが、無事に逃げおおせていてほしいと願うしかない。 踏みしめる石畳の凍てついた冷気に、戦慄にも似た時代の息遣いを感じる。どれほど声を上げても、軍拡の流れは止まりそうにない。それでも**“人の暮らしを守る”**という父の矜持を、幹夫は自らの中に刻み続けていた。 「俺も、ぎりぎりまで抗うんだ——井上や堀内さん、そして父さんに恥じないように」

 冬の厚い雲はまだ空を覆い尽くしている。だがその奥には、いつかは晴れ渡る日の光が潜んでいると幹夫は信じる。激動の昭和の真只中、緑走る台地を思い浮かべながら、青年は小さな一歩を踏み出し続けるしかないのだ。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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