緑走る台地 ~覚悟~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 6分
第一章 東神田の倉庫へ
昭和七年(1932年)の初冬、東京の夜はひときわ冷え込みを増していた。下宿を出て薄暗い路地を抜けた幹夫は、カバンを抱え込むようにして歩を進める。 手元には、差出人不明の紙片から指定された「東神田の倉庫」の住所が控えられていた。紙片には「声を上げるか、沈黙するか……」とあったが、それが何を意味し、誰が幹夫を呼び出すのかはわからない。 「行けば危険かもしれない……だが、行かなければ何も変わらない」 父が静岡で「ぎりぎりの抵抗」を示そうとしているのに、東京にいる自分が何もしないでいいのか。そう思うと足が勝手に前へ進んだ。
倉庫街は人通りが少なく、トタン屋根が月明かりに薄白く浮かび上がっている。奥まった一角に、古びた木造の建物があった。入り口にかけられた錠は外されており、扉を少し押すと、軋む音を立ててわずかに開いた。
第二章 再会の衝撃
暗い内部に踏み込むと、すぐに鼻をつく埃の匂いが幹夫を迎えた。ほとんど人気がないように思えたが、奥へと進むとロウソクの明かりが見え、幾人かの人影が動いているのがわかる。 すると、その中の一人が幹夫を振り返り、驚きの声を上げた。 「……幹夫、なのか?」 聞き覚えのある声。それは、行方不明だった友人・井上その人だった。痩せこけた顔に深い隈があり、かつての活気は陰を潜めているが、紛れもなく井上だ。 「井上……! 本当に生きてたんだな……!」 胸が詰まる思いで幹夫が駆け寄ると、井上は弱々しく笑う。 「悪かった。急に身を隠さなきゃならなくなったんだ。警察に捕まる寸前だったから……」
他にも数名の男女がいるようだが、みな薄暗いライトに照らされ、警戒したような面持ちをしている。「誰だ?」という囁きが飛び交い、倉庫全体に張り詰めた空気が流れる。 その場で井上が小声で彼らに説明する。 「大丈夫だ。幹夫は昔からの仲間で、俺たちの活動を敵視するやつじゃない」
第三章 集まった同志
倉庫の一角には古い机が置かれ、そこに散らばる紙や原稿用紙の束が見えた。よく見ると、それは“反戦”や“軍拡批判”の文言が綴られたチラシの原案らしく、井上や仲間たちが作成中なのかもしれない。 「これが、今出回っている反戦ビラの正体なんだな……」 幹夫は圧倒されつつ、周囲を見回す。若い労働者服の男、学生のような風貌の女、そして教養のある紳士然とした中年男性——彼らは軍事国家化を懸念する“地下の同志”らしい。声を潜めながら、密かにビラを刷り、配布を続けているのだという。 「日本は満洲事変で浮かれているが、その裏で多くの庶民が苦しい生活を強いられている。戦争が進めば、さらに状況は悪化する」 低い声で語る中年男性に、井上が賛同するように続ける。 「それでも新聞やラジオは軍を称えるニュースばかり。警察も言論弾圧に必死だ。だからこそ俺たちは地下に潜ってでもビラを出す必要があるんだよ」
第四章 迷いと決断
その夜、井上たちが話す計画を聞いた幹夫は、胸が騒ぐのを抑えきれなかった。 「反戦ビラをどうやって刷るのか?」 印刷所で働く幹夫にとって、その方法は痛いほどよくわかる。だが、下手に社長の目を盗んで刷れば、自分も社長も危険に晒されることになる。 「……俺たちは古いガリ版機を手に入れたんだ。ここでガリ版を起こして印刷するつもりだが、紙やインクが十分じゃない。幹夫が通ってる印刷所からこっそり余りの用紙やインクを持ち出せないか?」 井上の問いに、幹夫は戸惑う。父や祖母、印刷所の社長を裏切るような行為になるかもしれない。一方で、これを断れば井上や仲間たちの活動は厳しくなるだろう。 「そりゃ……やってみる価値はあるが、俺だけの判断で動ける話じゃない。リスクが大きすぎる。どうすれば……」 うつむく幹夫に、中年男性が頭を下げて言う。 「君に強要するつもりはない。ただ、もしこのまま軍事路線が進めば、地方の茶畑も工場も軍需に奪われ、人々の生活が崩壊するかもしれないんだ。わずかな違反行為でも、時代を変える一石になるとわたしは信じている」
第五章 心の中の士族の誇り
倉庫を出る頃には深夜に近く、幹夫は急ぎ足で下宿へ向かった。外の空気は厳しく冷え、吐く息が白く夜道に浮かぶ。道中、幹夫の脳裏には父の言葉が何度も甦る。 「ぎりぎりの抵抗……父さんも静岡で軍の飛行場計画に反対を貫くつもりだ。俺はどうだ? ただ『危ない』と黙っているだけなのか?」
ふと、祖母の姿も浮かぶ。かつて士族の誇りを説いていた祖母は、これから軍が振るう“刀”を必ずしも歓迎していなかった。祖父から受け継いだ武士の魂は、“弱い立場の人を守る”という本質を含んでいると、幹夫は信じたい。 「もし“武士道”が、人を傷つけるための剣ではなく、人を守るための矜持を意味するのなら……」 そう考えると、何かが胸に熱くなる。仲間たちがやろうとしている地下活動に協力するのは危険だが、それこそがいま幹夫にできる“武士の道”かもしれない。
第六章 迷いの渦中
下宿に戻った幹夫は、机に向かい合ってノートを広げる。そこには父からの手紙が何通も挟まっていて、静岡の苦悩が克明に書き込まれている。軍事が優先されれば、地方の声は消される。そんな時代をどうやって変えればいいのか——答えはまだ見えない。 引き出しには、以前から溜め込んでいた印刷所の余り紙や試し刷り用のインクがある。ほんの少しだけだが、井上たちの地下活動を手伝うには十分かもしれない。 「自分が動けば、社長も堀内さんも危険に巻き込むことになる。でも、やらなければこの国は……。」 悩みは果てしなく深まる。だが、父と井上がそれぞれの場所で“抵抗”を貫いている事実が、幹夫の背を押していた。 「行動するか、沈黙するか——このままではいられない。」
ふいに窓の外から風が吹き込み、ノートのページがめくれる。屋根の上を擦る風の音が、何やら遠い昔に聞いた米騒動のざわめきに似ているような気がして、幹夫はハッと顔を上げた。
エピローグ
薄闇の中、東京の街にまた一日が終わろうとしていた。遠くから軍歌らしき音楽が微かに流れ、ラジオのアナウンスが時代の高揚を煽る。 幹夫はスタンドの灯りを消し、布団に潜りこみながら決意を固める。父が牧之原を守ろうとしているように、自分も守るべきもののために一歩を踏み出さねばならない。 「武器を取って戦うのではなく、言葉と行動で……たとえ小さくても、声を上げる。そうしなければ、きっと何も残らない。」
目を閉じると、茶畑の香りがかすかに鼻をくすぐるような錯覚を覚える。幹夫の胸には、過去に見たあの緑走る台地が息づいている。激動の昭和のただ中、士族の誇りと新時代の闘志を抱えた一人の青年が、今まさに静かなる決断を迎えようとしていた。
——(続くかもしれない)





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