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緑走る台地 ~踏みとどまる~

第一章 夜明けの静寂

 翌朝の薄暗い空に、乾いた風がちらりと走る。 幹夫は下宿の戸をそっと開けて外へ出た。昨日の夜、風鈴が短く響き、決断を促すような音を残してから静まり返ったままだ。 (父さんの電報……堀内さんとの“最後の在庫一掃”……、どちらも時間がない) 胸の奥で焦りと恐怖がせめぎ合うなか、幹夫は思わず空を仰ぎ見る。遠い静岡の朝日と、東京の空を隔てる距離を恨めしく感じながら、彼はいつもよりも速い足取りで印刷所へ向かった。

第二章 動乱前の工場

 印刷所の門をくぐると、いつものように早番の職人たちが雑然と作業を始めている。だが、今朝は奇妙な緊張感が漂っていた。軍からの追加発注は膨大で、しかも管理強化の通達が今にも施行されるという状況だ。 「みんな目つきが険しいな……」 幹夫は奥へ向かう。そこには社長が蒼い顔で書類を読み、堀内が廃材置き場のほうにちらりと視線を送っている。見れば、通常よりも多めの紙束が作業場に積まれていた。 (これが“最後”の在庫一掃に用いる紙か……) 自分の意志を確かめるように奥歯をかみしめる幹夫。その時、社長が呼び止める。 「幹夫、悪いが今夜も残業だ。いや、今週はずっと深夜までかかるかもしれない。軍の要請がキツくてね……」 「わかりました」 父の看病に向かいたい気持ちを飲み込みつつ、幹夫は短く返事をするしかなかった。

第三章 紙束の先にあるもの

 昼休み。廃材置き場で片付けをするふりをしながら、幹夫は堀内と目を合わせる。すると堀内が低い声で話し始めた。 「今夜、社長の目を盗んで“在庫一掃”を行う。俺が倉庫の鍵を開けておく。警戒は厳しいが、もし軍の検査が入る前ならギリギリ大丈夫だろう……ただし、これが本当に最後だ」 幹夫は深く頷く。今ならまだ通達の施行日が決まっていない隙を突ける。山岸たちが廃材をまとめて持ち出せば、当面はビラの紙に困らないはずだ。 「……父さんは大丈夫だろうか」 思わずつぶやくと、堀内が困ったように笑みをこぼす。 「行きたいなら行くべきだが、今すぐじゃ無理だよな。少なくとも、今夜の作業が終わるまでは……」 幹夫はうなずく。「はい、最後までやり遂げたら、すぐにでも静岡へ向かいます。父さんには電報で『少し時間がかかる』と打っておきます……」

第四章 傍らの不安

 作業を再開して夕刻、幹夫は機械を動かしながら、ふと今朝の路地で見かけた警官の姿を思い出す。どうやら近隣の警察署で巡回ルートを変えたという噂も耳にした。 (軍の監視が増している以上、警官や憲兵が夜間に回ってくる可能性は高い。山岸たちはそのリスクを承知で、今夜動こうとしているのか……?) 紙を送る機械の音に混じって、幹夫の心臓の鼓動も高まっていく。下手をすれば自分もろとも全てが逮捕されるかもしれない。しかし行動を躊躇すれば、井上たちのビラは潰され、父を助ける機会も先送りになるだけ……。 (ここが踏ん張りどころだ。風鈴もそう言っていたんだ) 彼はミスなくパンフレットの印刷をこなしながらも、今夜の作戦のことが頭を離れない。

第五章 夜の一掃

 残業が終わり、職人たちが帰り支度をしているなか、社長がため息をつきつつ「廃材置き場の整理は頼んだぞ」と幹夫に声をかける。堀内はまだ何やら作業が残っているという名目で工場に残る段取りだ。 周囲が手薄になった頃、幹夫と堀内は暗い倉庫の隅で顔を合わせる。堀内が鍵を回し、廃材置き場への扉をそっと開けると、中には先日よりも多めの端材が山積みにされていた。 「これを全部処分する。社長の言う通り在庫一掃して廃棄業者を装う手はずだが、その業者が本物かはわからんよな……」 堀内が不穏な言い回しをするが、幹夫は察する。“業者”という名の山岸たちが、大量の紙を持ち出すのだ。 「見張りは僕が外から気をつけます。堀内さんは中で手助けを……」 それだけ言うと、幹夫は小走りで廃材置き場を離れ、通りの影へと潜む。もし警官が通りかかれば、その足音を誰よりも早く感知し、合図を送るのが彼の役目だ。

第六章 風鈴の鳴く理由

 夜の路地に立ち、幹夫はひやりとする風の音に耳を澄ます。闇に溶け込むように佇むと、印刷所の外壁の向こうで誰かが紙を抱える音が微かに聞こえる。山岸たちだろうか。 (父さん……ごめん、もう少し待ってくれ。これが終われば、俺は……) そう心の中で呟いた瞬間、ふと遠くから吹く風に乗って、**チリン……**というかすかな風鈴の音が頭に響いた――錯覚かもしれない。けれど、それはまるで「大丈夫だよ」と背中を押すような優しい響きだった。 幹夫はそれを合図に、静かに呼吸を整え、通りを見張る。今夜で最後。ここで成功すれば、自分は父のもとへ行けるかもしれない。もし失敗すれば――恐ろしい未来が待っているだろう。 闇の中で、自分と廃材を抱える仲間たちの接点は、まるで綱渡りのように細い。だが、風鈴の音が響く限り、断ち切れずに繋がっていると信じたい。

エピローグ

 夜明け前、廃材置き場の扉は静かに閉ざされ、幹夫も堀内もいつもと変わらぬように印刷所を後にした。山岸たちが全ての紙を持ち出せたのか、誰も見つからなかったのか――何も確かめられないまま、それぞれ帰路に就く。 印刷所を振り返れば、薄闇に沈む建物が厳粛に沈黙していた。まるで昭和の闇を象徴するかのように、音もなく、ただそこにある。 「この先、父のもとへ行けるのか。井上たちのビラは生き続けるのか。だけど、もう決意は固めた。俺が踏み止まるしかないんだ」 幹夫は心の中でそうつぶやく。空は仄かに白みはじめ、風鈴の音が聞こえるかもしれない下宿の窓を思い浮かべながら、重い一歩を踏み出していく。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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