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緑走る台地 ~踏み止まり~

第一章 父からの新しい手紙

 昭和八年(1933年)初夏の終わり。相変わらず晴れたり曇ったり落ち着かない空の下、幹夫は印刷所でいつものように機械を動かしていた。 昼休みに入り、彼が廃材置き場で一人佇んでいると、職人仲間が「おまえ宛に郵便が来ているぞ」と知らせに来る。急いで社長の机へ駆け寄ると、そこには静岡の実家からの手紙が届いていた。 封を開き読みはじめると、父・明義の文面には力強さが戻っているのが伝わってきた。 「体調ハ安定 町ノ人々モ協力ノ意アリ 飛行場拡張ニ対抗シ 茶畑ヲ守ル策アリ 幹夫 機会アレバ再ビ立チ会エ」 幹夫は思わず目を見開く。まだ詳細は書かれていないが、どうやら父が新たな協力者を得て、本格的に茶畑を取り戻すための行動を始めようとしているらしい。東京で悶々とした日々を送る幹夫の胸に、あたたかな希望の火がともった。

第二章 堀内の吐露

 その夕方、工場の作業を終えて控室へ戻ると、堀内が憔悴した表情で待っていた。 「幹夫、ちょっと話がある。最近、軍の検査が立て続けに来るが、どうにも針のむしろだ。社長も疲労が激しいみたいだし、職人の中にも“やめたい”とこぼす者が増えている……」 幹夫は父からの手紙で得た希望を胸に、堀内の渇いた目を見つめる。 「東京での軍拡の波はこれからさらに増すだろうし、印刷所もやがて限界が来るかもしれない。けれど、俺たちが辞めたら、この場所が全部軍の息のかかった連中に占拠されるだけかもしれない……」 堀内は苦しそうに続ける。 「なぁ、幹夫。おまえ、父さんの体調も落ち着いたんだろう? 本当にもう一度静岡へ帰る気はないのか? ここで踏み止まるだけが道じゃない……」 しかし幹夫は首を振る。 「父は『機会アレバ再ビ立チ会エ』と書いてくれた。でも、いま動けば印刷所を放り出す形になる。俺はまだ、ここでなすべきことがある気がしてるんだ……」

第三章 古い地図の先

 夜、下宿に戻った幹夫は、机の上に広げた古い東京の地図を見つめる。井上の走り書きが示す場所は、いまだ闇に包まれたままだ。 (父が静岡で茶畑を守ろうと動き出しているのなら、東京でも井上たちがやっている抵抗が再び大きなうねりになる可能性があるんじゃないか……) 風鈴が二つ、窓辺にぶら下がったまま。かすかな夜風に揺れそうで、揺れない。 「もう少し勇気を出せば、井上の手がかりを追えるのか。それとも、堀内さんが言うようにここから離れたほうがいいのか……」 結論の出ない問いを繰り返しながら、幹夫はそっと錆びた風鈴を指先で触れる。すると、**チリ……**と、小さな音がかすかに響いた気がした。

第四章 きしむ新聞

 翌朝、印刷所に出勤すると、社長が蒼白な顔で幹夫を呼んだ。机の上には新聞が開かれ、そこには**「反戦ビラ集団検挙」「数名の若者が警察に連行」**という見出しが躍っている。 「これ……井上の仲間かもしれない」 幹夫はつぶやき、堀内と顔を見合わせる。 「記事によれば“市内のある倉庫で大量のビラが印刷されていた”とあるな……」 「山岸……やはり追われていたのか……」 胸を締めつけられながら、幹夫はニュースを読み下す。組織の一部は今も逃亡中と書かれているが、その逃亡者の中に井上の名前らしきものは載っていない。 (検挙されていないとすれば、まだどこかで活動を続けているのか? 静岡の父と同じように諦めていないのか?) 生々しい記事に震えながらも、幹夫は自分まで警察に目をつけられる危険を感じる。

第五章 別れの季節

 昼休み、工場の一角で何やら荷物をまとめる職人がいるのを見かけた。顔見知りの木下という職人だ。彼が故郷へ帰るらしい。 「すまないな、幹夫。これ以上軍の仕事で自分を騙せない。俺は実家に戻って農作業でもするよ……」 木下は拳を震わせながら、それでも笑顔をつくって言う。幹夫は慰める言葉が見つからないまま、固く握手を交わす。 (堀内さんの言うとおり、軍の仕事で心をすり減らす仲間が増え、いつかは全員が去ってしまうかもしれない。俺は……どうすればいい) 風鈴のかすかな音が頭に浮かぶ。まだ、幹夫がここで踏み止まる意義はあるはずだ――そう信じたい。

第六章 薄闇の風鈴

 夜、下宿へ戻っても、古い風鈴は沈黙したままだ。東京の街はいつにも増して軍靴の足音が響き、遠くでデモのような叫びや警笛が混じっている。 幹夫は布団に横たわり、父からの手紙を再読する。「機会アレバ再ビ立チ会エ」――その言葉が脳裏に刻まれ、印刷所を離れられない現状に居心地の悪さが広がる。父が本格的に動き出すなら、そちらへ戻る日も近いのかもしれない。 しかし同時に、ここで“井上の仲間”を捜し出し、東京の反戦の火を絶やさないことも大事だ。――茶畑を守る父の道と、自分が背負う東京の道が、どこかで交わると信じて……。 そんな思考に沈んでいると、不意に風が入り込み、二つの風鈴が短く触れ合う。**チリン……**と短い響き。 「鳴った……」 幹夫は胸を高鳴らせて微笑む。しかし、音はすぐに途切れ、部屋はまた静まりかえる。けれど、一度鳴り響いたその余韻は、彼の心を温かく染め上げるのだった。

エピローグ

 薄明が近づく頃、窓の外では相変わらず曇天が広がり、昭和の不穏な空気が路地を包む。 「井上や山岸がいる街、父さんが立ち上がる茶畑――それらを繋ぐこの小さな鈴の音が、いつか大きな響きになるだろうか……」 幹夫は目を閉じ、やがて訪れる次の日を迎える。印刷所がもはや限界なのか、あるいはまだ綱渡りを続けられるか、それは誰にもわからない。けれど、遠い静岡からの声は確かに届き、東京の地下でくすぶる仲間の存在も消えてはいない。 かすかな音を聞き分けるように、二つの風鈴は夜風に揺れそうで揺れず、未だ薄闇のなかで明日を見守っている――これが昭和の深い夜に立ち向かう、幹夫の**「踏み止まり」**の物語の途上なのである。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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