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緑走る台地 ~軍の足音~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 5分

第一章 乾いた風と軍の足音

 昭和八年(1933年)四月下旬。 いつまでも冷たく感じられた風が、少しだけ乾いた春の空気を帯び始めていた。だが、幹夫の心に渦巻く不安は消え去ることなく、どこか荒野をさまようような気持ちのまま、彼は印刷所の門をくぐる。 背後で風鈴の音がまた微かに鳴るような幻聴を感じながら、彼は「そうだ、昨夜の音は気のせいではない。まだ俺の中に希望がある」と言い聞かせた。 しかしその足取りは重い。軍の監視が近づいている今、井上や山岸がどう動くのかもわからない。父の嘆きが募る静岡の報せは刻一刻と暗い影を落としていく。まるで何か大きな嵐が来る前に、風だけが乾いていくようだった。

第二章 軍担当者の来訪

 朝の印刷所は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。社長もいつになく神経質に机上を片付け、周囲を見回している。 「今日だ、幹夫。例の“軍の担当者”が工場を見に来る。生産体制のチェックとか言ってたが、実際は俺たちを監視しに来るんだろう」 恐らくは軍の士官階級が現場を一瞥し、さらに余計な噂がないかを探るつもりなのだろう。もしここで一度でも怪しいところが見つかれば、ビラ事件の捜査に結びつくのは必至だ。

 幹夫が機械のオイルを手早く拭き取っていると、堀内が静かに囁く。 「気を張ってくれ。あら捜しされないように、いつも以上に気を配るしかない」 幹夫は唇をかみしめて頷いた。何事もなくやり過ごすことで、ほんの少しでも“安全”を延長するしかない——その延長が、井上や山岸を動かす時間になり得るかもしれない。

第三章 査察

 昼少し前、予告どおり軍の担当者がやってきた。二人組で、いずれも背筋を伸ばした軍服姿。片方は無表情に周囲を睨み、もう片方は書類を抱えメモを取っている。 社長が精一杯の笑みを浮かべて迎え、案内する。その背後に付き従うように、幹夫や堀内も工場内を回り、機械の状態や印刷物の進捗を説明するが、担当者の目はどこか険しい。 「ここで作っているものはすべて軍の命令通りか? 余分な在庫や怪しい印刷はないだろうな?」 軍人が鋭く問いかけると、社長はすかさず応じる。 「もちろんです。当方、命令に従い日夜作業を続けております。ご安心を……」 幹夫も腰を折りながら「はい、こちらが印刷中の“満洲国情勢報”です」と完成間近の冊子を差し出す。軍人はちらりと中身を見たあと、満足げに鼻を鳴らす。 (これで本当に満足してくれたのか……) 幹夫の心は休まらない。査察が続く間も、廃材置き場のことが頭から離れず、一瞬たりとも気を緩められなかった。

第四章 緊迫の廃材置き場

 査察が終わる頃、軍の担当者が廃材置き場へも目を向けた。 「この奥にも印刷の残りなど山ほどあるようだな。何か古い版や紙が紛れこんでいないか、簡単に見せてくれ」 社長が青ざめた顔で案内する。幹夫と堀内も同行し、冷や汗をかきながら案内するしかなかった。 幸い、大きな紙箱をいくつか開けられただけで、担当者の探索はそこまで徹底的ではなかった。 「まあ、こんなにクズ紙が出るのか。だが、軍の仕事を速やかにこなすには仕方ないか……」 軍人がぼそっと呟き、やがて引き上げていく。 見送ったあと、社長は汗を拭いながら「ふう、ひとまず助かった……」と苦笑いし、堀内は安堵と疲労でぐったりしていた。

 幹夫は脳裏で山岸の人影を思い出す。もしあの人物が中に潜んでいたら、一巻の終わりだっただろう。**「危ない……」**と改めて背筋に冷たいものを感じた。

第五章 恨みの朝刊

 翌朝、下宿で朝刊を開いた幹夫は、軍の大本営発表を大きく載せる記事に目を通して暗い気持ちになる。戦線拡大は止まらず、国中が“軍国ムード”に染まる様が、紙面の隅々から伝わってくる。 さらに「ビラ撲滅へ」などという小さな記事も目に入り、反戦ビラを撒いたとして複数の若者が検挙されたらしいと報じている。詳細は不明だが、幹夫はその記述が井上や山岸の活動に繋がるかもしれないと考え、胸が詰まる。 (どこまで耐えられるんだ、井上たち……。俺は何もできずに、ただ印刷所を守っているだけ……) 風鈴の音が頭の奥でリフレインする。心の中で「それでも行動を起こせ」と呼びかけられるような気がするが、現実は厳しく幹夫の足をすくんでいる。

第六章 かすかな報せ

 その晩、印刷所での残業を終え、夜の路地を下宿へ向かう幹夫。薄暗い道を折れたところで、見覚えのある男の影が視界に入った。 「……山岸……!」 声を潜めて駆け寄ろうとすると、彼はそっと手をあげて制する。 「今は話せない。けれど一つだけ言わせてくれ。廃材、助かったよ。仲間は無事に印刷を続けられている」 僅かに歪んだ笑みを浮かべた山岸は、それだけ伝えると辺りを警戒し、下を向いて消えていった。幹夫は一瞬、光が射すような感覚に身を震わせる。 (やはり廃材置き場から紙を手に入れたんだ……) しかし同時に恐怖が湧きあがる。このままビラ活動が続けば、いつか一網打尽にされる可能性は高い。それでもなお、彼らは戦いを止めないと決めているのだ。幹夫はぎゅっと拳を握りしめ、「俺も今の立場で踏ん張るしかない」と言い聞かせた。

エピローグ

 夜更けの下宿。風鈴は今宵も沈黙を守っている。だが幹夫には、その無音の鈴が「大丈夫、まだ間に合う」と静かに伝えているかのように感じられた。 「山岸たちが、どうか捕まらないように……。父さんが、どうか体を壊さないように……。俺はここで何ができるんだろう……」 懸念が次々と膨れあがる一方、ほんの少しだけ心が軽くなった気もする。山岸の一言が、ビラの火を消さずに済んだことを知らせてくれたのだから。 遠い夜空に隠れた月を思い浮かべながら、幹夫はそっと写真立てに触れる。牧之原の緑を思い描き、風鈴が鳴るような微かな風を心の中に感じ取っていく。嵐の気配は濃いままでも、まだ希望の光を手放すつもりはない——。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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