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緑走る台地  ~軍靴~

第一章 深まる秋の軍靴

 昭和六年(1931年)秋、満洲事変の報が日本中を駆け巡るなか、東京の街角には軍人と国粋団体が颯爽と闊歩する姿が目立ち始めていた。 幹夫は下宿から大学までの道を歩くたび、貼り出される宣伝ポスターの内容がますます軍の功績を讃えるものへと変わっていくのを感じる。印刷所でも「満洲開拓」「国威発揚」を標榜するビラやパンフレットの注文が止まらない。 「このままじゃ、戦争へと突き進んでいくのか……」 夜の帳が降りる下宿の部屋で、幹夫は新聞を広げて苦い息を吐いた。静岡の父からの手紙には「県庁でも国策に逆らえない雰囲気が強まっている」と記されている。地方行政でさえ、軍事拡大に伴う物資の融通や予算の再配分に巻き込まれつつあるのだという。

第二章 父との再会

 そんな折、父・明義が東京出張のため上京するという報せが届いた。幹夫は待ち合わせ場所の新橋駅へ向かい、改札を出た父とほぼ一年ぶりに再会する。 「幹夫、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」 父は疲労の色が濃いが、それでも笑顔を見せる。周囲を見回し、「東京はますます物騒になっていないか?」と低い声で尋ねる。 「……少しでも反戦めいたことを口にすると睨まれる雰囲気です。大学の中にも軍の動きを支持する教授が増えてきました」 人目を気にするように言う幹夫に、父は静かにうなずきながら、鞄を抱え直す。 「県でもな、局面が変わりつつある。軍事が優先されると、地方の経済振興など二の次になる可能性が高い。わたしも上層部の意向を気にしながら仕事をせざるを得ないんだ」

 二人は小さな食堂に入り、久々に一緒の食事をとる。幹夫が自分の大学での学びや印刷所の仕事を語ると、父は真剣な表情で聞き入り、 「このままでは戦時体制が加速し、地方でも畑や工場が軍需に振り回される。そこでおまえの言うように“人の暮らしを守る知恵”があれば、少しでも歯止めをかけられるかもしれない」 とつぶやく。 幹夫は、父が苦悩している様子をまざまざと感じながら、あらためて「東京で学ぶ意味」を自問する。戦争に向かう日本で、何をすべきなのか、わからないまま何かに動かされているような息苦しさを感じずにはいられなかった。

第三章 井上の焦り

 父が一週間ほど滞在したのち静岡へ帰った頃、親友・井上の行動がさらに積極的かつ危ういものになってきた。大学での学業をこなしつつ、社会運動や反戦デモにも顔を出し、街頭でマイクを握って「満洲事変反対!」「軍拡で庶民は救われない!」と声を張り上げる場面も増えたのだ。 「井上、そんなに目立ったら、当局に睨まれないか?」 ある晩、下宿の薄暗い廊下で幹夫は井上を引き止める。井上の目は疲労と熱情の入り混じった光を帯びていた。 「わかってる。でも、今声を上げないでいつ上げる? 国が戦争に向かうのを黙って見過ごすなんて、俺にはできないよ」 いつか聞いた井上の言葉と同じ。しかし以前よりはるかに切迫感が強い。

 幹夫は胸が痛む。印刷所の先輩たちは「大っぴらに反戦を唱えれば即刻発禁だ」と嘆き、大学でも「デモはやりすぎるな」と助言する者が多い。現実がじわじわと学生たちの言論を閉ざしかけている。それでも井上は止まらない。 「幹夫。おまえも勉強しているんだろ? 経済や政治を学んで、軍拡がどんな影響をもたらすか理解してるんじゃないのか?」 問い詰めるような井上の眼差しに、幹夫は言葉を失う。 「……わかっている。だけど、どう行動すればいいのか迷っているんだ。下手をすれば、家族や父の仕事にまで影響が及ぶかもしれないし……」

 すると井上は肩を落とし、寂しげな表情で息を吐いた。 「わかるよ。おまえの家族思いも、地元を大切にする気持ちも。でも……日本が誤った方向に突き進めば、静岡だって無傷じゃいられないんだ。おまえが小さい頃に見た米騒動なんて比じゃないくらいの惨事が来るかもしれない」 幹夫は一層苦悶を深める。井上の言うことは正論だ。だからこそ苦しい――どう行動するのが正しいのか、どんな形で声を上げるのが最善なのか、視界が曇っているように感じられた。

第四章 父の電報

 そんな折、ある朝、幹夫の下宿に青い封筒の電報が届く。差出人は静岡の母だった。 「父、入院 容体安定せず 至急帰郷ヲ」 幹夫は電報を握りしめ、全身から血の気が引いていくのを感じた。驚きと不安が混ざり、すぐに家財をまとめて汽車に飛び乗った。

 道中、頭に浮かぶのは父の疲れた表情と、静岡の地で懸命に働いていた背中。金融恐慌の荒波や、軍拡の風潮に左右されながら、それでも地元経済を守ろうとしていた。その父が倒れた――しかも容体が安定しないという。 「どうして……」 車窓を通り過ぎる富士山の姿が胸に刺さる。井上の言葉、東京での学び、軍拡の空気。それらが頭をめぐり、幹夫は息を詰めたまま気持ちを落ち着けられないまま静岡を目指す。

第五章 帰郷

 夕刻、静岡の実家に駆け込むと、家の中は張り詰めた空気に包まれていた。台所で母が泣きはらした目をしながら「病院へ急いで行って」と告げ、祖母は静かに俯いている。 幹夫はその足で病院へ向かい、父の病室を探した。個室に入ると、真っ白なシーツの上に横たわる父がいた。顔色が悪く、点滴の管が腕に繋がっている。 「父さん……」 かすれた声で呼ぶと、父・明義は薄く目を開ける。 「……幹夫……来てくれたのか……すまない……」

 医師の説明によると、過労と精神的な疲労、さらに近ごろ流行っている風邪をこじらせたらしい。体が弱っていたため、大事をとって入院させている。容体は危険なほどではないが、完治には時間がかかりそうだと言う。 幹夫は安堵とともに、「父に無理をさせてきたのは国の情勢や、地方が抱える重荷ではないか」と思うと、後悔ともどかしさが込み上げた。

第六章 父と語らう夜

 病室の夜。母と祖母が帰宅した後、幹夫は父の枕元に座り、看護師の許可を得てしばし会話を交わした。 「父さん、東京でのことをあまり伝えていなかったけど……満洲事変の件で世論が二つに割れ、軍がますます力を強めているよ。井上はそれに反対して運動してるんだ」 幹夫がぽつぽつと話すと、父は疲れた呼吸の合間に微笑む。 「そうか……おまえは、どうするつもりだ」 「……わからない。戦争を広げてはならないと感じる。でも、それを表立って言えば身を危うくするかもしれない。それでも声を上げるべきか、迷っている」

 父は瞳を細め、しばし沈黙する。そしてゆっくり口を開いた。 「幹夫。昔、おまえがまだ幼いころ、米騒動に震えながらも、庶民の声を真剣に受け止めていたな。あの時も、誰かが声を上げねば米価の高騰は放置されたままだったかもしれない。おまえが東京で学んでいることを、生かせるときが来ると思うよ」

 幹夫は父の言葉に胸が詰まる。 「でも、父さんがこんなに苦しんでいるのに、俺は東京で……」 「静岡を守るのはわたしの仕事だ。もっと強くならなきゃいかんが……」 自嘲気味に笑みをこぼした父は、幹夫の手を握りしめた。 「時代が変わろうとしている。東京の若い人々が、どんな形でもいい、正しいと思うことを追い求めてほしい。わたしは信じてる。おまえたちの声が、やがては日本全体に響く日が来ると……」

 病室の淡い照明の下で、幹夫は父の手のひらの温もりを強く感じた。 “米騒動、青年団、労働争議、大正デモクラシー……” 脳裏には、これまで幹夫が見てきた無数の“声”が浮かんでくる。もしかしたら今こそ、その積み重ねが意味を持つ時なのかもしれない。

エピローグ

 翌朝、母と祖母が病室にやってくる頃には、父の顔色も少し和らいでいた。医師も「もう少し休めば快方に向かう」と言ってくれた。 幹夫は短い里帰りの間、父の回復を見届けたうえで再び東京へ戻るつもりである。まだはっきりした行動指針はないが、父の言葉が胸を支えてくれている。 「おまえたちの声が、やがて日本全体に響く日が来る——」 静岡と東京を繋ぐ汽車のレールは、この先どのような道を幹夫に描くのか。満洲事変をきっかけに突き進む国家の動き、苦境にあえぐ地方の暮らし……すべてが交錯する激動の昭和の真っ只中、少年の成長物語は、なおも続く。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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