緑走る台地 ~嵐の接近~
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 夜明けの兆し
昭和八年(1933年)三月初め。まだ薄暗い空気の残る早朝、幹夫はいつものように下宿の薄障子を開けた。わずかな朝日が路地の霜を照らし、白い息がかすかに流れ込む。 (こんなにも冷え込むのに、もう暦は春なのか……) 胸の内でつぶやいても、東京の情勢はまるで冬の氷のように固く、解ける気配すら感じられない。軍の力が広がり、ビラ配りの仲間たちの行方もつかめない。だが、そんな幹夫の耳に、一瞬だけ風鈴の音が微かに届いた。 「……春はきっと来る」 遠い静岡では、合併話が加速し、軍飛行場のために茶畑が削られようとしている。そんな中でも父は踏み止まっているのだ。幹夫はわずかな気力を奮い起こし、印刷所へ向かう支度を始める。
第二章 重なる催促
朝の印刷所では、社長が軍関係者と慌ただしく打ち合わせをしていた。大部数のパンフレットに加え、新たなポスターも追加発注されたらしい。スケジュール表には「早急」や「至急」の文字が乱雑に踊っている。 「おい、幹夫! 余計な時間はないぞ。機械の調整を頼む」 社長の声がこれまでにないほど急迫感を帯びている。陸軍の制服姿の男は腕組みのまま、冷たい視線を送っていた。 「よろしく頼むよ。この印刷所なら、納期に遅れることはないだろうな?」 問われた社長は微笑を装い、幹夫をちらりと睨むように見る。 「もちろんでございます。今回も全力で仕上げますので、どうかご心配なく」
(まるでこの仕事を落としたら終わりだ、と言わんばかりだな……) 幹夫は胸の奥で息苦しさを感じる。注文が増えれば会社は潤うかもしれないが、同時に軍拡路線に協力しているという重苦しさがのしかかる。堀内も遠巻きに見つめながら、肩を微かに震わせていた。
第三章 沈黙する仲間
昼休み、廃材置き場へ向かった幹夫は、いつものように黙って紙の切れ端をかき集める。だが、ここ数日ビラを求める仲間からの連絡は来ない。 (井上たちはどうしている……。まだ地下に潜って活動しているのか、それとも捕まってしまったのか……) 不安が募るが、動向を探ろうにも手立てがない。下手に知りたいと動けば自分まで疑われるだけだ。
「足元を見ろよ」 不意に声をかけられ、振り向くと堀内がいた。彼はいつものように低い声で言う。 「持ち出す量には気をつけろ。さっき軍の男が裏までうろついてたからな」 「ありがとう、堀内さん……」 幹夫は小さく息を吐き、そっと紙束を廃材置き場の奥に隠す。必要になれば持ち出すが、今は様子を見たほうがいいだろう。印刷所が怪しまれれば、一巻の終わりになる。 (俺も仲間も、いつまでこの綱渡りを続けられるのか……) 心の中で呟いても、答えはどこにもなかった。
第四章 届かぬ便り
夜になると、下宿で机に向かい、幹夫は久々に父へ手紙を書こうと便箋を広げた。静岡での状況は毎日のように悪化しているようだし、自分も報告したいことは山のようにある。だが、いざペンを握ると、言葉が出てこない。 「東京でも軍の圧力が増し、反戦の仲間は散り散りになり……」と書きかけるが、それ以上綴れば危険を呼ぶかもしれない。郵便物は検閲されるという話もある。
結局、無難な近況だけ記し、「父さんも無理をなさらないで」と添えるにとどめた。**「本当はもっと言いたいことがあるのに……」**と思いつつ封を閉じる。 (こうやって誰もが沈黙していくのか……) 胸にのしかかる絶望感が、そっと畳の上に滲む月光を重たく照らしていた。
第五章 静岡の茶を想う
翌朝、幹夫は仕事前にいつもの通り下宿で簡単な朝食を取っていると、同室の学生が買ってきた新聞の見出しが目に飛び込んだ。 「国策により、満洲移民促進」「地方から移民を募る」などと書かれている。ちらりと読み返すと「農村の再建策の一環」として紹介されていたが、実際は軍拡と軍用地拡張のための人員確保だろう。 (もしかすると、静岡の農家からも移民を希望する者が出るのか……。茶畑を諦め、満洲で新しい生計を立てようと考える人がいてもおかしくない) 朝から胸が軋む。あの広大な牧之原の緑が少しずつ削られ、人々の暮らしが散り散りになっていくのだろうか。父が守ろうとしているものは、いよいよ風前の灯なのかもしれない。
第六章 呼び出し
その日の夕刻、印刷所の作業を終えかけたころ、社長が青い顔で幹夫と堀内を呼んだ。 「おまえたち、明日の朝一で警察署へ行けと言われた。ちょっと話が聞きたいんだとさ。……参ったな。何かやらかしたか?」 幹夫と堀内は目を見交わし、背筋が凍る思いに駆られる。社長によれば、「反戦ビラの印刷所で働く者がいる」という情報が警察に届いているというのだ。 「別に俺たちが直接刷ったわけじゃないのに……」 堀内は苦々しく言う。社長は両手を挙げて首を振る。 「とにかく行かないわけにいかん。もしおまえたちが白なら、堂々と釈明してこい。俺も“店は無関係だ”と主張するからな」
外はすでに夜が降り始め、街灯の弱い光が印刷所の入り口を照らしていた。幹夫はその下で恐怖と戦慄を覚える。ここで取り調べを受ければ、井上や倉庫の仲間のことを問い詰められるかもしれない。 (言えない……でも、何か言わないと疑われる……) 背後では堀内が唇を噛みしめる音が聞こえた。
エピローグ
「どうする……」 そう呟きながら、幹夫は機械のスイッチを切り、冷えた金属が徐々に音をやめていくのを感じる。警察署へ行って何を訊かれるのか、どう答えればいいのか、全く分からない。 「俺のせいで、堀内さんや社長まで危険に巻き込んだのか……」 そんな罪悪感に苛まれながら、幹夫は天井を仰ぐ。遠い父のいる静岡の空と、この暗い工場の天井は、どれほど離れているのだろう。 外は凍てつく寒さが街を包む。明日、警察署で何が起きるのか——嵐の足音はすぐそこに迫り、幹夫の心の支えは僅かな士族の誇りと父の言葉だけだった。
——(続くかもしれない)





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