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縫い箱の下

 朝、幹夫が目を開けたとき、家の中はまだ半分眠っていた。 眠っているのに、動いている。湯の音が小さく鳴って、障子の向こうの白がゆっくり増えて、畳の冷たさだけが先に足の裏へ届く。

 座敷の隅で、母が縫い箱を抱えていた。 抱えているというより、守っている抱え方だった。箱は木でできていて、角が丸い。丸いのに、壊れやすいものの顔をしている。

 幹夫は布団の中で、目だけを細くした。 起きた、と分かると母の時間が変わる気がして、起きないふりをした。

 母は縫い箱のふたを少しだけ開けた。 針でも糸でもなく、紙を一枚出した。紙は新聞紙の裏を小さく切ったもの。真っ白じゃない、疲れた白。

 次に、母は――幹夫の鉛筆を取り出した。 竹を継いだ、短い鉛筆。母が削ってくれた尖りが、朝の光の中で少しだけ黒い。

 母は鉛筆を持ち、紙に先を置いた。 置いた瞬間、母の肩がほんの少しだけ上がった。息を吸う肩だ。吸って、止めて、線を引く肩。

 鉛筆が紙をこする音がした。 しゅ、しゅ。 針の音より太い音。太いのに、恐ろしく小さい音。

 母は一文字書いて、止まった。 止まって、また書いた。 書いて、また止まった。

 止まるたび、母の指が紙の端を押さえ直す。飛ばないように。 飛ばないように押さえる指は、震えていない。震えていないのに、強い。

 幹夫は、その音を聞きながら、胸の中の警報がゆっくり丸く鳴るのを感じた。 丸い音は「何かしろ」じゃない。 「見ていろ」と言う音だ。

 母は最後に、しばらく紙を見つめた。 見つめて、口を少しだけ結んだ。結ぶ口は、声を外に出さない口だ。

 それから母は、紙を折った。 丁寧に。 折り目を爪で押さえ、折り目の上を指でなぞって、折り目を確かめる。 折り目は、声をしまう形だと幹夫は知っている。

 母はその紙を――縫い箱の下へ滑り込ませた。 下。 見えないところ。 見えないところに置く置き方は、捨てる置き方じゃない。預ける置き方だ。

 母が縫い箱を閉じたとき、幹夫は思わず目を閉じた。 閉じたまま、胸の奥だけで息をした。

 しばらくして、母の足音が台所へ遠ざかった。 鍋の音がして、祖母の咳払いがひとつ。 家が「朝」になる音。

 幹夫はゆっくり起きた。 布団の端を整えて、忍び足で座敷の隅へ行った。 縫い箱は、いつもの場所にある。 何事もなかった顔で。

 幹夫は箱を持ち上げるのが怖かった。 怖いのに、怖いから見たい。 見たいから、手が勝手に動く。

 幹夫は縫い箱を、ほんの少しだけずらした。 ずらすと、畳の上に小さな四角が見えた。 折り畳まれた紙。薄いのに、そこだけ空気が違う。

 幹夫はそれを両手でつまんだ。 つまむと紙がすぐ、指の体温を吸う。 紙は生き物じゃないのに、時々、生き物みたいに熱を受け取る。

 紙を開く音は、思ったより大きく聞こえた。 ぱら、という小さな擦れ。 擦れただけなのに、胸がどくんと鳴る。

 中に、字があった。

 ひらがな。 母の字は、幹夫の字よりまっすぐで、でも、少し硬かった。硬いのは、慣れていない硬さだ。

 幹夫は、一文字ずつ追った。 声に出さずに、口の中で読む。

 > みきおへ > ありがと > きのう こわかったね > でも かいたの えらかった

 最後に、小さな丸がひとつ描いてあった。 消印の丸みたいに強い丸じゃない。 幹夫が紙の隅に描いた丸みたいな、少し揺れた丸。 揺れているのに、消えない丸。

 幹夫は、紙を持ったまま動けなかった。 胸の奥が熱い。 熱いのに、息が浅い。 浅い息の中で、「ありがと」という二文字だけが何度も反射した。

 母の「ありがと」は、「ありがとう」じゃなかった。 最後の「う」がない。 ないのに、足りない感じがしなかった。 むしろ、最後の「う」がないぶん、母の口が結んだままの形が見えた。声を出さずに言った「ありがと」。

 幹夫は紙を胸に当てた。 当てると、紙が少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 台所から、母の声がした。

「幹夫、起きたか」

 幹夫は慌てて紙を折った。 折り目を、母の折り目どおりに。 丁寧に折ると、紙はまた「預かれる形」に戻る。

「うん」

 幹夫が返すと、母は「顔洗ってこい」と言った。 いつもの声。 いつもの声なのに、今朝は少しだけ違って聞こえた。紙の向こう側の声が、少し混ざっている。

 顔を洗って戻ってきても、幹夫は言えなかった。 「読んだよ」とも、「ありがとう」とも。 言ったら、紙が軽くなりそうで怖かった。 軽くなると、風に飛ばされる。飛ばされたら、もう戻らない。

 母はちゃぶ台の上で湯呑みを拭きながら、幹夫を一度だけ見た。 見る目が、探る目じゃない。 見つけた目でもない。

 ――ちゃんと届いたか。 そう確かめる目だった。

 幹夫は、頷いた。小さく。 頷き方で返した。声じゃなく、首の動きで返した。 母は何も言わずに、湯呑みを置いた。置き方が、少しだけ柔らかかった。

 朝飯のあと、幹夫は紙を自分の上着の内ポケットに入れた。 鉛筆と同じ場所。 胸の近く。 硬さと紙が並ぶと、胸の中の警報が静かになる。

 幹夫は浜まで歩いた。 波の音が一定で、気持ちを急がせない場所。 砂の上に座って、紙をもう一度開いた。 同じ字なのに、さっきよりよく読めた。読めたというより、意味が増えた。

 > きのう こわかったね

 母が「こわかった」と書いてくれたのが、不思議だった。 怖かったのは自分だけだと思っていた。 自分が怖いと、母はもっと怖いのだと思っていた。 でも母は「こわかったね」と書いた。 「ね」がつくと、怖さは一人の怖さじゃなくなる。

 幹夫は、紙の端の小さな丸を指でなぞった。 なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指に移った。 黒い粉は汚れじゃない。 届いた証拠だ。

 波が寄せて、砂の上の自分の足跡を少し崩した。 崩れる足跡を見て、幹夫は思った。 崩れるものもある。消えるものもある。返ってこないものもある。 でも、折り畳んで胸に入れたものは、すぐには消えない。

 幹夫は紙を丁寧に畳み直した。 丁寧に畳むと、今日という日の角が少し丸くなる。 丸くなると、胸の奥の音も丸くなる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、縫い箱の下から出てきた小さな返事は、ちゃんと届いた。 届いて、幹夫の中で、ひとつだけ確かな形になった。

 ――返事は、声だけじゃない。 折り目の中にも、丸の中にも、ちゃんといる。

 
 
 

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