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胸の奥で、何かが揺れた

夕飯の匂いは、いつも先に帰ってくる。玄関の戸を開ける前から、味噌の温度と、煮物の甘さと、湯気の湿り気が、家の中にある時間を知らせてくる。幹夫はその匂いを吸い込んだ瞬間、身体だけが「いつも通り」をやろうとするのを感じた。靴を揃える角度、カバンを置く場所、声を出す前の一拍。

でも今日は、その“一拍”が、少し長い。

台所では祖母が、茶を淹れる支度をしていた。やかんの底がコンロに触れる音。湯飲みを棚から出す音。ふたつの音のあいだに、誰も言わない言葉が挟まっている気がする。幹夫はそれを、長いこと「家の音」だと思ってきた。音のすき間に、言い切れないものが住んでいる。

居間の方から、テレビの人の笑い声が聞こえる。父はソファに座っているはずだ。背中が少し丸まって、肘を膝に置いて、画面を見ている顔。見ているのに、見ていない顔。幹夫はその背中を思い浮かべるだけで、喉の奥が乾いた。

リュックの中に、川根で買った茶の袋がある。袋の紙は少しざらついていて、触ると、山影の町の冷たい風まで一緒に思い出せる気がする。母に渡すために買った。そう言い切れるほど、幹夫の心はまだ真っ直ぐじゃない。渡したい。渡したくない。会いたい。会いたくない。むかつく。心配。どれも嘘じゃないから、どれも重い。

祖母が言った。

「幹夫。手ぇ洗ってきな」

「うん」

返事は出た。出たけれど、声が自分のものじゃないみたいに軽くて、幹夫は少しだけ怖くなった。軽い声のまま、大事なことを言ってしまったら、壊れてしまいそうで。

手を洗いながら、幹夫は鏡を見た。鏡の中の自分は、前髪が少し汗でくっついていて、目の下に薄い影がある。その影は、静岡の午後四時の影に似ている。はっきりしているのに、どこか青い。影が青いと、痛みが少しだけ上品に見える。上品に見えると、痛みがあることを許される気がする。

居間に戻ると、父は案の定、前を向いたままだった。幹夫が畳を踏む音に気づいているのに、振り返らない。振り返ったら、何かを言わなきゃいけないからだ。幹夫はその「言わなきゃいけない」を、父の中にずっと見てきた。見てきたのに、どうしても腹が立つときがある。腹が立つのは、父を責めたいからじゃない。父が怖がっているのが分かってしまうからだ。怖がっているのに、それを言わない。言わないことが、幹夫には“置いていく”みたいに感じる。

祖母が茶を運んできた。湯飲みから湯気が立ち上り、ふわっと香りが広がる。家の茶。牧之原の匂い。幹夫は湯飲みに手を添えた。温かい。温かさは、逃げ道を塞がない。じっとしていても、身体に入ってくる。

父が、急にテレビの音を少し下げた。その動作が、何かの合図みたいに見えた。父が自分で音を下げるときは、話すつもりがあるときだ。話すつもりがあるのに、話し方が分からないときの、あの合図。

父は咳払いをひとつして、それから言った。

「……週末、だったな」

幹夫は、湯飲みの縁を見たまま頷いた。

「うん」

「……茶、持ってくって」

父の声は低くて、硬い。硬い声は、割れ物を包むための紙みたいだ。包んでくれるのに、触れると手が荒れる。

幹夫はリュックから、川根の茶の袋を出して机の上に置いた。袋の角が机に当たって、かすかな音がした。その音が妙に大きく感じた。父の視線が、袋に落ちる。落ちる、という言い方がいちばん近い。視線は“向ける”というより“落ちる”。重いものを避けられなくなったときの動きだ。

父は袋を手に取らなかった。取らないまま、袋を見ている。

「……川根のか」

「うん。店の人が、香りが立つって言ってた」

幹夫がそう言うと、祖母が小さく「ほう」と頷いた。祖母はいつも、幹夫が言葉を出したときにだけ、目の奥が少し動く。言葉が出る瞬間を、祖母は見逃さない。見逃さないのに、捕まえもしない。その距離が、ありがたくて痛い。

父が、やっと袋に手を伸ばした。伸ばした指は、茶摘みの指だ。土と葉と汗の記憶が染みた指。その指が、ざらついた紙をそっと撫でる。撫でた瞬間、紙の中の茶葉の匂いが、ほんのわずか漏れた気がした。実際に漏れたわけじゃない。漏れたように感じただけだ。でも、香りって、そういうものだ。実際より先に、心が嗅いでしまう。

父は小さく言った。

「……これ、いい匂いだな」

その一言は、褒め言葉なのに、幹夫の胸の奥をきゅっとさせた。父が「いい」と言うのは、珍しい。珍しいから、言葉が重い。重い言葉は、嬉しいと同じ速さで怖さも連れてくる。嬉しいほど、失うのが怖い。

幹夫は、息を吸い直した。

「母さんに、渡す」

言った瞬間、部屋の空気が一段静かになった。静かになった、というより、音が少し遠のいた。テレビの人の笑い声も、やかんの湯の残り香も、祖母の衣擦れも、全部が薄い布の向こう側へ行く。その布のこちら側に残ったのは、幹夫の声の余韻だけだった。

父は黙っていた。黙っているのに、逃げなかった。逃げなかったことが、幹夫には大きかった。

祖母が湯飲みに湯を足しながら言った。

「会うなら、茶ぁ持ってきゃあええ」

言い方は淡々としている。淡々としているのに、その淡々が、まるで背中を押す手みたいだった。押すのではなく、倒れないように添える手。

父が、また咳払いをした。それから、ひどく不器用に言った。

「……俺も、一緒に行く。前に言った通りだ」

「うん」

幹夫は頷いた。頷いたのに、心が追いつかない。“うん”は便利だ。うん、と言えば会話が進む。進むから安心する。でも、進む会話に心が置いていかれると、後から苦しくなる。幹夫はその苦しさを知っているから、今日は少しだけ、言葉を足した。

「……怖い?」

自分でも驚いた。質問の形にしてしまったのは、責めたくないからだ。責めたくないのに、知りたい。知りたいのに、近づくのが怖い。だから質問にして、距離を作る。幹夫のずるさだ。

父は一瞬だけ目を伏せた。伏せた目のまま、言った。

「……怖いよ」

あまりに短い言葉だった。短いのに、父の喉の奥から出てきた音だった。父が“怖い”と言ったのを、幹夫は初めて聞いた気がした。初めて聞いたから、胸の奥の固まりが、思っていたより柔らかかったことに気づいてしまう。

その瞬間。

胸の奥で、何かが揺れた。

揺れは大きくない。地震みたいな揺れじゃない。茶畑の葉が、風の通り道にだけさわっと動くような揺れ。駿河湾の水面が、船の引いた波で一瞬だけ模様を変えるような揺れ。その揺れが、幹夫の内側で起きた。

揺れたからといって、何かが解決したわけじゃない。母を許せるわけでもない。父が急に優しくなるわけでもない。自分が強くなるわけでもない。でも、揺れた。揺れたという事実だけが、幹夫には必要だった。固まっていたものは、揺れない。揺れるなら、まだ動ける。

幹夫は湯飲みを持ち上げ、ひとくち飲んだ。熱さが舌を刺し、苦味が広がり、遅れて甘みが来る。その順番が、今日の会話と同じだと思った。痛いのが先で、ほっとするのが後から来る。後から来るものは信じにくい。けれど、来たことを否定しなくていい気がした。

父が、袋を机に戻した。戻すとき、紙がまた小さく鳴った。その音が今度は、怖くなかった。

祖母が言った。

「幹夫。茶ぁ、今夜少し淹れてみるか。味、見とけ」

幹夫は「うん」と言った。今度の“うん”は、少しだけ重みがあった。

父はテレビを消した。消す音がして、部屋が静かになる。静かになっても、さっきとは違う。静かさが、押しつぶしてこない。静かさが、ただそこにある。

幹夫は、机の上の茶袋を見た。紙の中に、香りが眠っている。眠っている香りは、湯を注げば立ち上がる。立ち上がった香りは、誰かの胸の奥まで届いてしまう。届いてしまうのが怖い。でも、届かないまま終わるのは、もっと怖い。

幹夫は、自分の胸の揺れがまだ残っているのを確かめるように、そっと息をした。息は、ちゃんと通った。

それだけで今日は、十分だと思えた。

 
 
 

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