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若き茶の銀河列車

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月10日
  • 読了時間: 13分



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第一章 春の残像と古い家

夜明け前の静岡平野には、うすい霧が膜を張っていた。風がその膜をゆっくり払いのけると、茶畑がやわらかな緑色で目を覚ます。十三歳の伊藤幹夫は、士族としての名家を誇る旧家の末っ子で、朝の縁側に正座しながら、薄闇にうっすらと浮かび上がる丘の向こうをじっと見つめていた。

家の名は伊藤家。父の伊藤親房と母の伊藤雪江はともに厳格で、七人の兄姉が次々と起床する足音で、屋敷内はすぐに忙しない気配へと変わる。幹夫は朝稽古に向かう父の後ろ姿を横目で見送りながら、心のどこかが引き締まるような、またどこか落ち着かないような、そんな混ざり合った感覚を胸に抱いていた。

「幹夫、士族の家に生まれた以上、怠けることは許されんぞ」

父の声は低く響き、まるで屋敷の柱の一部のように感じられる。けれど、窓を開けば朝陽を浴びて茶畑の先が明るく染まり、鳥たちの声がその向こうの世界を呼び起こす。幹夫の心は、父の言葉に縛られつつも、茶葉の先に見える別の光へと惹かれていくのだった。

第二章 風の雑踏

幹夫が通う旧制中学は静岡の町中にあり、士族階級の子弟も商家の子息も一緒になって机を並べている。七つ年上の兄は陸軍士官学校を目指し、五つ上の姉は女学校を出て教員を志している。けれど幹夫自身は、まだ何をしてよいかわからない。ただ、教科書の地図を眺めるとそこに描かれた未知の国々が胸を高鳴らせ、漢文の素読をしながらも想像の中で鳥が飛び交う情景に浸ってしまう。

ある放課後、風変わりな少年が幹夫に声をかけてきた。その名を相馬藤太という。彼は背が高く、頬がほのかに赤い。

「ねえ、伊藤くん。きみは、茶畑の向こうに何があると思う?」

幹夫は驚いて相馬を見つめた。父母の言いつけでは、「行儀の悪い問いかけ」と言われかねない。しかし幹夫は迷わず答える。

「うーん……茶畑の向こう? ただの丘や山じゃないのかい」

相馬は大げさに首を振ると、まるで秘密を話すように目を輝かせた。

「ぼくにはね、あそこから何本も不思議な道が生えているように見えるんだ。夜になると、その道が銀色のレールになって、星の世界へつながるんだよ」

幹夫は思わず笑いそうになったが、なぜかその言葉が胸に深く響き、心臓が冷たい風に撫でられるような感覚を覚えた。そこで相馬は幹夫の腕をつかみ、茶畑の方へ駆け出した。まだ夕方の光が残る校庭を抜け、校門を飛び出して。

第三章 星あかりの茶畑

丘をのぼりきった先に、沈みかけの夕陽の名残が空を焦がしていた。茶畑の筋が等間隔に続き、そのすき間をさまよう風が葦笛のような音色を奏でる。相馬は畑のヘリに腰を下ろし、幹夫にも座るように促した。校舎から見れば遠く離れた場所なのに、なぜか懐かしいような静寂があたりを包んでいた。

しばらくして、日が落ちると星々が一つ、また一つと姿を現す。うっすらと茶畑の上に白いもやのような帯が見える。それは幹夫の目には、茶葉の霧が光を帯びているのか、あるいは空から銀の粉が振り注いでいるのか、区別がつかないほど神秘的なものに映った。

「ほら、あの白い帯が銀河のレールだよ」

相馬は指さすが、茶畑の先の空を指しているのか、それとも夜空そのものを指しているのかがわからない。ただ、その光景を見つめる幹夫の胸に、言いようもない切なさがこみ上げてくる。士族の家に生まれた自分が、こんなにもどかしくも美しい世界の片隅にいてよいものかと。

夜気が冷たくなり、幹夫は家へ帰り着くと父に厳しく叱られた。「どこをほっつき歩いていた?」弁解しようにも「茶畑で銀のレールを見ていました」などと言えば、父はさらに怒りをあらわすだろう。幹夫は黙ったまま、寒さと胸のざわめきを布団に潜り込んでやりすごした。

第四章 銀河の列車と夢の市

その晩、幹夫は奇妙な夢を見た。茶畑の真ん中から一本の線路が延び、そこへ青く光る蒸気機関車が到着する。窓からは星くずが舞い散り、車輪からは茶葉のような緑色の光が渦を巻いている。車内には誰もいない。いや、遠くの席に相馬が腰かけていて、窓の外を見つめていた。「おい、どこへ行くんだい?」幹夫が呼びかけると、相馬は振り返って微笑む。「世界の果てさ。この列車は茶葉の香りを積んで、銀河の市まで行くんだ。きみも乗っておいで」幹夫が踏み出そうとすると、列車はゆっくりと動き出した。急いで追いかけるが足がもつれ、転んでしまう。茶畑の土が思った以上に柔らかく、爪の中まで黒い土が入り込む感触がある。それでもどうにか体勢を起こし駆け寄ると、ようやく客車の扉に手が届きかけた……その瞬間、はっ、と目が覚める。布団の中、わずかに明け方の気配が差し込んでいた。

息が上がっている。まるで本当に茶畑の中を走ったあとのような、汗ばんだ感じが全身を包む。父と母、そして七人の兄姉が眠る古い屋敷はしんと静まり返っているが、幹夫の胸には夜の冒険の余韻が燃え残っていた。

第五章 家族の思惑

数日後、伊藤家では長兄が陸軍士官学校の試験に合格したという報せが届き、父はかつてないほどに声を上げて喜んだ。「これこそ士族の名にふさわしい道だ。さすがは長男だな」母も「幹夫にも見習わせなくては」と微笑んだ。幹夫は居間の隅で、その光景を眺める。家族一人ひとりが、それぞれ父に認められ、母から「立派だね」と褒められる道を探して生きている。それが伊藤家の伝統なのだろうか。

そういえば三姉・文江は女学校を卒業後も学問を続けたいと言い出し、母と対立を重ねていた。母は「娘が高等教育など余計なことを……」とため息をつき、父も無言のまま渋い顔をしている。文江はそれでも意志を曲げず、書斎で紙と鉛筆を握りしめて夜遅くまで勉強しているようだ。幹夫が廊下を通りがかるとき、「幹夫、あなたも自分の道をしっかり見つけなさい」とそっと囁き、扉を閉めた。

「自分の道?」

心のなかで呟いたとき、幹夫にはふたたびあの銀河の列車のイメージが広がっていった。家の中には触れられない何かが、茶畑の先の星空に輝いているのではないかと。そしてまた相馬は何か妙なことを幹夫に教えてくれるかもしれない。

第六章 米騒動の喧噪と父の背中

大正七年(1918年)の夏、静岡の町でも米価高騰に抗議する人々が暴徒化し、騒動が起こった。父・親房は県庁の官吏として緊迫した空気の中を奔走している。伊藤家にも「庶民の怒りが名家を襲うかもしれぬ」という噂が駆け巡り、母や姉たちは戸締まりを念入りにしていた。

ある夜、父がやつれた様子で帰宅し、居間でぽつりと口を開いた。「世が乱れるのは、ただ愚かな民衆の騒ぎかと思っていた……が、見れば見たで、彼らに言い分もあるらしいな……」母は心配げに夫をうかがう。けれど、父の視線は遠くに据えられているようだった。幹夫は黙ってその背中を眺める。自分が見てきた銀河や茶畑の景色とはまるで異なる「社会の現実」が、父を通じて今夜だけこちらへ流れ込んできたかのようだ。

幹夫はまたしても夜道を走り、丘へ向かってしまう。心配する母や姉の呼ぶ声を背中に受けながら、足音が茶畑の土を踏む。そこには暗闇が広がり、遠くの町では松明のような光が揺れている。風の雑踏の中で相馬の姿を探すが、どこにもいない。むしろ、遠くから汽笛のようにも聞こえる音が、この混乱を嘲笑うかのように幹夫の耳をかすめていく。

第七章 小さな衝突と大きな約束

次の日の放課後、相馬は校庭の片隅で幹夫を待ち受けていた。「昨夜、あそこへ行ったんだって? ぼくは行けなかった。家族が止めるから……」その言葉は少しうしろめたそうで、ふたりの間にわずかなすれ違いを生んだ。けれど相馬は短いため息とともに言う。

「茶畑の向こうの銀河は、誰にでも同じに見えるわけじゃない。きみの見た景色と、ぼくの見た景色は違うかもしれない。だけど、それでも一緒に探したいんだ、あの列車を」

幹夫は相馬のまっすぐな瞳に、怒りとも戸惑いともつかない感情をぶつけてしまう。「……何を言ってるんだよ。銀河の列車だなんて、実際にあるわけないだろ。ぼくたちはそんな夢みたいなことに迷ってる場合じゃないんだ。家を守らなきゃいけないし、父の期待にも応えなくちゃ」言い終えて、幹夫はすぐに後悔した。自分は何を言っているのだろう。あの夜空で銀色に光る線を見たのは確かに自分なのに。相馬は何も言わず、寂しそうに立ち去った。

しかし、家に戻る道すがら、幹夫は胸をかきむしるような痛みを感じた。夢を否定しながらも、夢を夢と呼んでしまう自分への嫌悪。それでも、夕焼けに染まる雲を見上げると、その雲がどこか列車の煙のように思えてならないのだ。

第八章 姉の告白と兄の旅立ち

ある夜、三姉・文江が幹夫を自室に呼び、そっと声をかける。「幹夫、あなたは何かに迷っているのね。お父様に怒られながら茶畑へ行ったり、あの相馬さんのことを気にしているようだけど」幹夫は顔を伏せる。文江は弱々しい笑みを浮かべながら続けた。「私もね、父や母の価値観に押しつぶされそうになるときがある。けれど自分の学びたいこと、やりたいことを見つけたから、たとえ家の反対があっても進みたいと思うの。あなたも、自分で道を選んでいいんじゃない?」まるで霧が晴れるような言葉だった。幹夫は姉の手のひらに暖かいものを感じる。そうだ、自分は夜の丘の上で、たしかに銀河の光を見ていた。それに理由をつけて否定するのは、ただの臆病ではないのか。

そこへふと廊下から声がした。長兄が陸軍士官学校へ旅立つ挨拶に来たのだ。そのしっかりした姿は、伊藤家の後継としての貫禄を示している。「幹夫、おまえもいずれ自分の道を見つけるさ。だが、家の名は忘れるな。そこだけはしっかり守るんだぞ」兄に言われると、幹夫は神妙に頷く。兄と姉、それぞれが家に対し別々の向き合い方をしているのを感じとり、幹夫は不思議な安心と震えを同時に味わった。

第九章 銀河鉄道の譜面

ある放課後、幹夫は相馬を捜したが見当たらない。代わりに、同級生の河合千之助が、音楽室の奥から呼ぶ声が聞こえる。河合は浜松の楽器工場に勤める父を手伝うのが夢だと言っていた。「伊藤くん、実は僕のところに変わった譜面が届いたんだ。どこの国の言葉かわからないけど、星の図がいっぱい書いてある。相馬くんが興味を示してたから、一緒に見ようかって話してたんだが……今日は来ないみたいで」河合の手にある譜面には、銀河を模したような曲線が描かれ、異国の詩のような記号が踊っている。幹夫は目を丸くしながら、その不思議な文字を指でなぞる。そして気がつくと、そこに描かれている「線」が、昨夜の夢で見た銀河のレールと重なっている気がして胸が熱くなる。「相馬がこれを見たら、どんなに喜ぶだろう……」その言葉を呟くと、河合がやや困ったような顔をして言った。「相馬くん、最近少し落ち込んでるみたいだよ。何かあったのかな?」

幹夫はぎゅっと譜面を握りしめる。そうだ、あの日、自分は相馬を突き放すような言葉を吐いてしまった。自分こそ銀河の列車を夢見ながら、それを否定してしまったのだ。口の奥がずきんと痛む。

第十章 夜の丘での再会

夜、幹夫は茶畑の丘へ走る。家では父母が「危ないからやめなさい」と止めるのも聞かず、姉が「いってらっしゃい」と小さく声をかけてくれた。丘の上はまばらな星明かり。沈黙のなかに、相馬がたたずんでいた。

「相馬……」

幹夫が声をかけると、相馬は一度だけ振り返って、また夜空を見上げる。「伊藤くん……。ぼくは、きみを責めたりはしないよ。ただ、銀河の列車を一緒に探したかった。ぼくがバカに見えたなら、それでもいい」幹夫は走り寄り、相馬の手をぎゅっと握った。「ごめん、ぼくは臆病だったんだ。家のことを考えると、夢を夢と割り切らなきゃいけないように思ってた。でも、本当は見たい。きみとあの銀河を。きみと一緒に列車に乗りたいんだ」相馬は幹夫を見つめ、静かに笑う。その笑みは、星明かりの中で溶け合うかのようだった。

すると、夜風の中からはっきりとした軽い衝撃が辺りを揺らす。まるで見えない車輪が土の上を通ったような、かすかな轟き。ふたりは思わず立ち上がり、その音の行方を目で追う。そして丘の斜面を回り込むように、微かな銀色の帯が揺らめき、向こうの暗闇へ続いていくのが見えた。

「あれ……あれだよ、幹夫。銀河のレールだ……」「うん、見える……!」

月の光が薄く差し込み、茶畑の緑と夜の闇を交錯させる。そのあいだをすり抜けるように、ふたりには星の列車が通り過ぎていく音がはっきりと聞こえた気がした。

第十一章 父と母、そして旅立ち

翌朝、家に戻った幹夫は父に対してきちんと頭を下げる。これまでになく毅然とした眼差しで向かい合うと、父はわずかに眉をひそめたが、そのまま何も言わずに聞き入った。

「父上、ぼくは将来、もっと外の世界を見たいんです。静岡や日本だけじゃなく、夢でも現実でも、いろいろな人々が生きる場所を知りたいと思います。家の誇りは重んじます。でも、ぼくにはぼくの道を歩みたいのです」

居間に張り詰める空気を、母の雪江が不安そうに見守る。父はしばらく黙したのち、低い声で言った。

「そうか。……よく考えたのだな。家の名を背負うことを忘れず、好きにするがいい」

幹夫はうるっと目が熱くなった。父が自分をどう思っているかは分からない。それでも、これが確かに父が自分に与えてくれたひとつの“許し”であり、門出でもあるのだと感じる。

やがて大正も末期に入り、兄は軍人の道を進み、姉は教員の資格を取ろうと精力的に動き始める。幹夫はもうすぐ東京の学校へと進み、さらに世界を見渡す機会を得ることになった。大正のデモクラシーや社会の動乱、それらが一挙に大きく変わっていく時代のうねりに、幹夫の心も浮き立つように揺れながら、しかし茶畑に漂うあの香りを胸の底で抱いている。

第十二章 銀河列車の発車

幹夫が旅立つ当日、相馬や河合千之助、そして文江が静岡駅のホームに集まった。真新しい学生服に袖を通した幹夫は、父と母に深く頭を下げる。列車の汽笛がひときわ高く響くと、相馬はそっと幹夫に何かを手渡す。

「これ、受け取って。河合くんの譜面に星のスケッチを足したんだ。空想かもしれない。でも、いつか本当の銀河列車が走るかもしれないって、信じてるから」

幹夫が紙を開くと、そこには夜の茶畑を走る銀色の線と、星明かりのプラットホームが彩色され、まるで物語の一頁のようだった。幹夫は胸をいっぱいにして「ありがとう」とつぶやく。友人たちの笑顔と見送る家族の姿の間で、幹夫はこれまでの日々が愛しくもあり、苦しくもあったことを全身で思い返す。

列車がゆっくりと動き出す。幹夫は窓を開け、遠ざかる町の景色と茶畑のほうを振り返る。昨夜、相馬と聞いたあの不思議な列車の轟きが耳元に甦る。きっと、この先どんなに遠くへ行っても、茶畑と銀河がつながるあの光景は幹夫の心から消えはしないだろう。

そして、幹夫が目を閉じた瞬間、星くずのようなきらめきが窓外を横切った。遠く山の端を滲ませるやわらかい朝の光に、まぎれもなく一本の銀色のレールが浮かび上がった気がする。幹夫はぐっと唇を結び、次の世界への第一歩を踏みしめる。茶の香る風は、まるで銀河へと続くトンネルの入口を教えてくれるように、優しく車窓をなでていた。

終章 茶の香り、星の光

列車の振動の中、幹夫はあの丘の夜を思い描く。茶畑の筋に沿って銀河の列車が走り抜けた、不思議な音と光。父の厳しさも、母の古い言い伝えも、兄や姉たちのそれぞれの道も、すべてがこの旅の出発を導いてくれたのだ。外の景色に目を遣れば、早朝の空気は白くけぶり、東方に微かに朝焼けが広がる。その穏やかな光の彼方に、確かにあの銀河の軌道が続いている。幹夫はもう迷わない。ぼくは行くのだ――茶葉の香りとともに、星の光が交わる世界へ。心の底から、銀河のレールの響きを聞きながら。

 
 
 

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