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若葉と銀河のあいだ

若葉は、空を知らないまま空へ伸びている。

 幹夫は、五月の茶畑を見るたび、そう思った。

 山裾に続く茶の畝は、朝の光を浴びて、やわらかな緑の波になっていた。摘まれたばかりの一番茶のあとから、また新しい芽が小さく顔を出している。葉はまだ薄く、指先でそっと触れなければ破れてしまいそうだった。けれど、その頼りなさの中に、空へ向かう力があった。

 若葉は土から生まれる。

 けれど土だけを見てはいない。

 光の方へ、風の方へ、まだ見たことのない高みの方へ、静かに伸びていく。

 幹夫は十二歳だった。

 茶畑の村に生まれ、茶の香りの中で育った。朝は若葉の露を見て学校へ行き、夕方は製茶場から流れる蒸気の匂いを胸に吸って家へ帰った。畳にも、柱にも、父の作業着にも、祖母の手にも、五月になると新茶の青い香りがしみこんだ。

 けれど幹夫の心は、いつも茶畑だけに留まってはいなかった。

 夕暮れの空に一番星を見つけると、胸の奥がすうっと遠くなった。夜、山の上に銀河が淡く流れているのを見ると、自分の体の中にも細い光の川が流れているような気がした。茶畑の若葉の匂いを嗅ぎながら星を見上げると、地上と空が別々のものではなく、どこかでひそかにつながっているように思えた。

 そんなことを、幹夫は誰にもあまり話さなかった。

 話せば、言葉はすぐに頼りなくなる。

 若葉の薄さも、星の遠さも、胸に満ちる寂しさも、言葉にすると小さくなってしまう。手のひらにのせようとした露が、すぐ指の間からこぼれるように。

 その日、学校で作文の宿題が出た。

 題は、「将来のわたし」。

 先生が黒板にそう書いた瞬間、教室の中が少しざわめいた。健太は「サッカー選手」と言い、真紀は「本屋さん」と言った。誰かは「都会で働く」と言い、誰かは「まだ分からない」と笑った。

 幹夫は、白い原稿用紙を見つめていた。

 将来。

 その言葉は、銀河より遠く感じられた。

 自分が何になるのか、幹夫には分からなかった。父のように茶畑を継ぐのだろうか。祖母のように湯の温度だけで茶の味を知る人になるのだろうか。それとも、夜空を見上げているときの胸の震えを、どこか別の場所へ持っていくのだろうか。

 幹夫には、茶畑が好きだった。

 けれど、好きというだけでは足りない気がした。

 茶畑には暮らしがある。朝早く起き、土を見て、虫を見て、天気を心配し、霜を恐れ、摘み時を逃さず、売り先のことまで考えなければならない。父の肩の重さを、幹夫は知っていた。茶畑は美しいだけの場所ではなかった。

 けれど、銀河だけを見て生きることもできない。

 星は遠すぎる。美しいけれど、手は届かない。腹を満たすことも、家の屋根を直すことも、祖母の薬代を払うこともできない。

 若葉と銀河。

 そのあいだで、幹夫の心は小さく揺れた。

 帰り道、幹夫はいつもの茶畑の坂を上った。

 空は薄く曇っていた。雲の向こうに日があり、茶畑全体が白い光に包まれている。若葉は強く輝くのではなく、内側から淡く明るんでいた。まるで、誰にも見せない手紙を胸にしまっているようだった。

 幹夫は畝の端にしゃがんだ。

 指先で若葉に触れる。葉は少し湿っていた。昼の熱と、夕方の冷気のあいだで、まだ迷っているような温度だった。

「君は、何になりたいの」

 幹夫は小さく言った。

 若葉は答えない。

 ただ風に揺れた。

 けれど幹夫には、その揺れが答えのようにも思えた。若葉は何になりたいかなど考えていないのかもしれない。ただ、光を受け、雨を受け、風に揺れながら、少しずつ葉になっていく。いつか摘まれ、茶になり、香りになって、誰かの湯呑みに届く。

 それは、決めた将来ではなく、重ねていく時間だった。

 家に戻ると、祖母が納戸の整理をしていた。

 古い木箱を開け、黄ばんだ手紙や布切れ、使わなくなった茶道具を畳の上に並べている。幹夫が覗くと、祖母は顔を上げた。

「ちょうどよかった。幹夫、これを見てごらん」

 祖母が差し出したのは、古い帳面だった。

 表紙は紺色で、角がすり切れていた。開くと、ところどころに茶の葉が押し花のように挟まれている。葉はすっかり色を変えて、薄い褐色になっていた。それでも形は残っていた。葉脈が細く浮き出て、知らない地図のようだった。

「これは?」

「母さんの帳面だよ」

 幹夫の胸が、ふいに止まったようになった。

 母。

 その言葉は、いつも静かな水に落ちる小石のようだった。小さくても、波紋が胸いっぱいに広がってしまう。

 母は去年の冬に亡くなった。

 もうすぐ一年半になる。けれど幹夫の中で、母は時々とても近く、時々ひどく遠かった。台所の戸口に立っている気がする日もあれば、銀河の向こうへ行ってしまったように感じる夜もある。

 幹夫は帳面を両手で受け取った。

 母の字があった。

 細く、少し丸く、ところどころに小さな癖のある字。幹夫はそれだけで、母の指先を思い出した。茶葉を摘むときの指。幹夫の髪を撫でるときの指。熱を測るとき、額にそっと置かれた指。

 帳面には、茶畑のことが書かれていた。

 何月何日に雨が降ったか。どの畑の芽が早かったか。霜の心配をした夜のこと。祖母と一緒に新茶を淹れた日のこと。

 けれどその合間に、母らしい言葉が混じっていた。

 ――若葉は、地上の星。 ――茶畑は、昼の銀河。 ――摘む手は、星を傷つけないように祈る手。

 幹夫は息をつめて読んだ。

 頁をめくると、一枚の若葉が挟まれていた。今では茶色く乾いているが、押された形はきれいに残っている。その横に、母の字でこう書かれていた。

 ――幹夫がいつか迷ったら、若葉と銀河のあいだに立つといい。 ――そこには、土から来たものと空から来たものが、両方届いている。

 幹夫は、その文字から目を離せなかった。

 祖母は何も言わなかった。

 部屋の外では、夕方の風が茶畑の方から吹いてきた。畳の上に並んだ古い紙が、かすかにめくれた。その音が、母が帳面を閉じる音のように聞こえた。

「おばあちゃん」

 幹夫はやっと声を出した。

「お母さんは、僕が迷うって知ってたのかな」

 祖母は少し考えた。

「知っていたというより、願っていたのかもしれないね」

「願っていた?」

「迷える子でいてほしい、と」

 幹夫は驚いた。

「迷わない方がいいんじゃないの」

「迷わない人は、まっすぐ進める。でも、道の脇に咲く小さな花を見落とすこともある」

 祖母は母の帳面を見つめた。

「幹夫の母さんはね、よく迷う人だったよ。茶畑を守りたい気持ちと、遠くへ行ってみたい気持ち。家族を大事にしたい気持ちと、自分だけの夢を持ちたい気持ち。その間で、何度も立ち止まっていた」

「お母さんも?」

「そうだよ」

 幹夫は胸の奥が少し熱くなった。

 母はいつも、幹夫よりずっと分かっている人のように見えた。やさしく、明るく、春の言葉を持っていて、若葉にも星にも同じように話しかけられる人。けれど母も迷っていたのだ。

 迷いながら、茶畑に立っていた。

 迷いながら、幹夫を抱きしめていた。

「迷うのは、悪いことじゃない」

 祖母は言った。

「心が二つの方角を感じている証拠だからね」

 その夜、幹夫は作文を書こうとした。

 机の上に原稿用紙を置く。題を書き、名前を書く。けれど本文はなかなか始まらなかった。

 将来のわたし。

 幹夫は鉛筆を握ったまま、窓の外を見た。

 夜になっていた。

 茶畑は見えない。けれど香りがある。新茶の青く澄んだ匂いが、家の隙間から静かに入り込んでくる。空には雲が少なく、星が出ていた。山の上に、うっすらと銀河が流れている。

 幹夫は母の帳面を開いた。

 ――若葉と銀河のあいだに立つといい。

 その言葉を、何度も読んだ。

 若葉と銀河のあいだ。

 そこは、どこだろう。

 茶畑の中だろうか。夜空の下だろうか。それとも、自分の胸の中だろうか。

 幹夫は上着を羽織り、帳面を胸に抱えて外へ出た。

 父は製茶場からまだ戻っていなかった。祖母は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。玄関を出ると、夜気が頬に触れた。少し冷たいが、冬の冷たさではない。春の終わりと初夏の入口が混じったような、やわらかな冷たさだった。

 幹夫は茶畑へ向かった。

 坂道の草は夜露で濡れていた。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くで犬が一度吠えた。製茶場の方からは、まだ機械の低い音が響いていた。その音は、地上が眠りながら働いている鼓動のようだった。

 茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。

 空には銀河があった。

 はっきりした白い帯ではなかった。けれど山の上の夜が、そこだけ少し薄くなり、星の粉を流したように光っていた。幹夫はしばらく、それを見上げた。

 それから足元の若葉を見た。

 葉先には露がついていた。星明かりを受け、ほんの少しだけ光っている。空の銀河の遠い光と、足元の露の小さな光が、幹夫の目の中で重なった。

 若葉は近い。

 手を伸ばせば触れられる。匂いもある。湿り気もある。葉脈も見える。

 銀河は遠い。

 どんなに手を伸ばしても触れられない。匂いも温度もない。けれど見上げるだけで、胸の奥に広い風が吹く。

 その近いものと遠いもののあいだに、幹夫は立っていた。

 幹夫は母の帳面を開いた。

 星明かりだけでは字はよく読めなかった。けれど、母の言葉はもう胸の中に入っていた。

「お母さん」

 幹夫は小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど新茶の香りが、風に乗ってふわりと近づいた。幹夫は目を閉じた。母が畑で白い手ぬぐいを結び、若葉に触れている姿が浮かんだ。膝を折って、幹夫と同じ高さで葉を見てくれた母。夜、星を見上げて、「遠いものは、遠いまま心に入ってくるのね」と言った母。

「僕、何になればいいか分からない」

 幹夫は夜に向かって言った。

「茶畑も好き。星も好き。ここにいたい気もするし、遠くへ行きたい気もする」

 言葉にすると、胸の中で絡まっていたものが少しほどけた。

 幹夫は続けた。

「どっちかを選ばないといけないのかな」

 風が吹いた。

 若葉が一斉に揺れた。露が小さく震え、星の光が細かく割れた。幹夫には、それが小さな拍手のようにも、誰かのため息のようにも聞こえた。

 そのとき、背後で草を踏む音がした。

「幹夫」

 父だった。

 作業着のまま、肩に薄い上着をかけている。製茶場から戻って、幹夫がいないことに気づいたのだろう。以前なら叱られたかもしれない。けれど父の顔は、怒っているというより、少し疲れ、少し心配しているようだった。

「またここか」

「ごめんなさい」

 幹夫は帳面を胸に抱いた。

 父は畑の端まで来て、幹夫の隣に立った。しばらく二人は黙っていた。新茶の香りが、二人の沈黙の間をゆっくり流れていく。

「それは?」

 父が帳面を見た。

「お母さんの帳面」

 父の表情が少し変わった。

「祖母さんが出したのか」

「うん」

 幹夫は迷ったが、帳面を開いて父に見せた。星明かりでは読みにくかったので、幹夫は母の言葉を声に出した。

「若葉と銀河のあいだに立つといい。そこには、土から来たものと空から来たものが、両方届いている」

 父は黙って聞いていた。

 その顔は、闇の中でよく見えなかった。けれど幹夫には、父の胸のどこかに古い扉が開いたような気がした。

「母さんらしいな」

 父は低く言った。

「お父さんは、分かる?」

「全部は分からん」

 父は正直に言った。

「でも、母さんがそういうことを考えていたのは知っている」

 幹夫は父を見上げた。

「お母さんも迷ってたって、おばあちゃんが言ってた」

「ああ」

「本当?」

「本当だ」

 父は茶畑を見た。

「母さんは若いころ、町へ出たかったらしい。絵を描きたかったとも言っていた。星のことを勉強してみたいと言ったこともある」

「知らなかった」

「俺も、結婚してから少しずつ知った」

 父は少し笑った。

「人は一緒に暮らしていても、全部は分からんものだ」

 幹夫は胸が静かに痛んだ。

 母には、幹夫の知らない母がいた。茶畑で笑っていた母だけではない。町へ出たかった母。絵を描きたかった母。星を学びたかった母。その母が、ここで幹夫を産み、茶を摘み、帳面に言葉を残した。

 それは諦めだったのだろうか。

 それとも、別の形で夢を生きたということなのだろうか。

「お母さんは、かわいそうだった?」

 幹夫は思わず尋ねた。

 父はすぐには答えなかった。

 長い沈黙のあと、言った。

「かわいそう、とだけ言うと、母さんに怒られる気がする」

「どうして」

「母さんは、自分で選んだことも多かったからだ。選べなかったこともあっただろうが、選んだこともあった」

 父は足元の茶畑に目を落とした。

「茶畑に残ることも、お前を育てることも、星を見続けることも」

 幹夫は黙った。

 選ぶということは、何か一つを捨てることだと思っていた。けれど母は、捨てたものの光を完全には消さなかったのかもしれない。町へ行かなかったとしても、星を見ることをやめなかった。絵描きにならなかったとしても、帳面に若葉と銀河を書いた。

 夢は、形を変えることがある。

 茶の葉が摘まれて茶になるように。

 若葉が香りになるように。

「僕も、分からない」

 幹夫は言った。

「茶畑に残りたいのか、遠くへ行きたいのか。星のことも知りたい。でもここを捨てたいわけじゃない」

 父は幹夫の言葉を遮らなかった。

 幹夫はそれだけで、少し勇気が出た。

「作文で、将来のことを書かなきゃいけない。でも、何も決められない」

 父は空を見上げた。

 銀河は淡く、遠かった。

「決めなくていい」

 父は言った。

 幹夫は驚いた。

「いいの?」

「十二で全部決められたら、逆に怖い」

 父の声には少しだけ笑いが混じっていた。

「でも、作文」

「今分かっていることを書けばいい」

「分かっていること?」

「何が好きか。何が怖いか。何を見ているか」

 父は幹夫を見た。

「将来のことは、まだ芽みたいなものだろう。無理に摘むな」

 幹夫の胸に、その言葉が静かに染みた。

 まだ芽みたいなもの。

 無理に摘むな。

 父の言葉は、いつも土と茶の匂いがする。けれど今夜のその言葉は、星の光も少し含んでいるように思えた。

「お父さんは、将来を決めてた?」

「俺か」

 父は少し困った顔をした。

「俺は、決めたというより、気づいたらここにいた」

「嫌じゃなかった?」

「嫌な日もあった」

 父は正直に言った。

「逃げたい日もあった。けれど、朝に芽を見ると、もう少しやるかと思った」

 幹夫は父の横顔を見た。

 父もまた、若葉と銀河のあいだにいたのかもしれない。

 父の銀河は、夜空ではなかったかもしれない。遠くの町、別の仕事、言えなかった夢、母と過ごした若い日の時間。そうした遠い光を胸のどこかに持ちながら、父は茶畑に立ち続けてきた。

「お父さんにも、銀河があるんだね」

 幹夫が言うと、父は眉を寄せた。

「何だ、それは」

「遠くにあるもの」

 父はしばらく黙った。

 それから、小さく言った。

「あるかもしれん」

 その声は、夜露のように控えめだった。

 二人は並んで空を見上げた。

 銀河は静かだった。無数の星が集まっているのに、音はしない。茶畑も静かだった。無数の若葉が風に揺れているのに、その音はとても小さい。

 たくさんのものが集まっている場所ほど、かえって静かなのかもしれない。

 幹夫はそう思った。

 人の心も同じだ。

 悲しみ、憧れ、迷い、愛しさ、恐れ。たくさんのものが胸の中にあるのに、外から見るとただ黙っているだけに見えることがある。父の沈黙も、母の微笑みも、自分の言えなかった言葉も、みんなその静けさの中にあった。

 そのとき、茶畑の下の方で、小さな光がひとつ揺れた。

 蛍だった。

 まだ早い気もしたが、湿った草の間から、淡い光が浮かび上がった。ひとつ、またひとつ。多くはなかった。けれどその小さな光は、茶畑の闇と銀河の光のあいだを、ゆっくり漂った。

 幹夫は息をのんだ。

 蛍は、若葉でも星でもなかった。

 地上に近いのに、空へ向かって浮かぶ。星ほど遠くなく、若葉ほど根を持たない。短い命の中で、自分の光を点けたり消したりしながら、夜のあいだを漂っている。

「きれいだな」

 父が言った。

 父が自分からそんな言葉を口にするのは珍しかった。

 幹夫は頷いた。

「若葉と銀河のあいだにいるみたい」

 父は、今度は笑わなかった。

「ああ」

 ただ、そう言った。

 その「ああ」は、幹夫の見ているものを少しだけ一緒に見てくれる声だった。

 幹夫は胸がいっぱいになった。

 いっぱいになったけれど、苦しくなかった。祖母が言ったように、空っぽでは香らない。胸がいっぱいになるから、香るものもあるのだろう。

 家に戻ると、祖母が新茶を淹れて待っていた。

「二人で星見かい」

 祖母が笑うと、父は「蛍もいた」とだけ言った。

「まあ、早いねえ」

 祖母は小さな湯呑みを三つ並べた。仏壇の前にも、母の分の湯呑みを置いた。湯気が白く立つ。新茶の香りが部屋に広がる。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 一口飲むと、若い苦みが舌に触れ、そのあとで甘みがゆっくり戻ってきた。

 その味の中に、夜の茶畑があった。 母の帳面があった。 父の「無理に摘むな」があった。 蛍の小さな光があった。 遠い銀河があった。

 幹夫は湯呑みを見つめながら、作文に何を書くか、少しだけ分かった気がした。

 翌朝、学校へ行く前に、幹夫は机に向かった。

 原稿用紙の一行目に、題を書いた。

 将来のわたし。

 少し考えてから、書き始めた。

 ――ぼくは、まだ将来のことがはっきり分かりません。 ――茶畑の仕事をする人になるのか、星のことを勉強する人になるのか、それとも別の何かになるのか、今は決められません。 ――でも、ぼくには好きな場所があります。 ――それは、若葉と銀河のあいだです。

 幹夫は鉛筆を止めた。

 窓の外では、朝の茶畑が光っていた。夜の銀河はもう見えない。蛍もいない。けれど若葉の露が、昨夜の光を少し覚えているように輝いていた。

 幹夫は続けた。

 ――若葉は近くにあります。触れることができます。においもあります。 ――銀河は遠くにあります。触れることはできません。でも、見上げると胸の中が広くなります。 ――ぼくは、近いものも遠いものも、どちらも大切にしたいです。 ――土のことを忘れずに、空のことも見上げたいです。

 字は少し震えていた。

 けれど幹夫は、その震えを消さなかった。

 昨夜の風が入っている字だった。母の帳面を読んだときの胸の震え、父が隣で空を見てくれたときの安堵、蛍を見た瞬間の息の止まるような驚き。それらが、鉛筆の線に少しだけ残っている気がした。

 ――将来のぼくは、まだ芽です。 ――だから無理に摘まなくていいと、父が言いました。 ――ぼくはその芽を、すぐに決めつけないで育てたいです。 ――いつか茶の香りと星の光を、誰かに届けられる人になりたいです。

 書き終えると、幹夫は原稿用紙を読み返した。

 立派な作文かどうかは分からなかった。先生がどう思うかも、友だちが笑うかどうかも分からなかった。けれど、そこには今の幹夫がいた。

 まだ何者でもない幹夫。

 茶畑の子であり、星を見上げる子であり、母を恋しがり、父の言葉に救われ、祖母のお茶で胸を温める子。

 若葉と銀河のあいだに立つ子。

 その日の放課後、幹夫は作文を提出したあと、少しだけ胸が軽くなっていた。

 帰り道、茶畑の坂を上る。

 夕方の光が若葉に降りていた。風が吹くと、畝全体がやわらかく揺れた。幹夫は畑の端に立ち、昨日触れたあたりの若葉を見た。

 もちろん、どれが昨日の葉なのか分からない。

 けれどそれでよかった。

 一枚一枚の葉は小さくても、畑全体で緑の波になる。ひとつひとつの星は遠くても、集まれば銀河になる。幹夫の迷いも、涙も、小さな嬉しさも、いつか集まればひとつの道になるのかもしれない。

 幹夫は若葉にそっと触れた。

 葉は光を透かしていた。

 薄いからこそ、光が通る。

 幹夫はそのことを、前より少し深く分かった気がした。

 夜になると、幹夫はもう一度外へ出た。

 空には雲があって、銀河は見えなかった。蛍も出なかった。茶畑も闇に沈んでいる。

 けれど、新茶の香りがあった。

 見えない茶畑から立ちのぼる、青く、甘く、少し苦い香り。その香りを吸い込むと、幹夫の胸の中に昨夜の銀河が淡く戻ってきた。

 見えないものは、消えたものではない。

 夢も、将来も、母の言葉も、自分の中の芽も。

 幹夫は夜空を見上げた。

 雲の向こうに銀河がある。 足元の闇の中に若葉がある。 そのあいだに、自分がいる。

 小さく、迷いやすく、すぐに胸がいっぱいになる自分。

 けれど幹夫は、もうその場所を寂しいだけの場所だとは思わなかった。

 若葉と銀河のあいだには、風がある。 香りがある。 蛍のような短い光がある。 まだ名前のない未来がある。 そして、迷いながらも伸びていこうとする心がある。

 幹夫は目を閉じた。

 母の声が、遠く近く聞こえた気がした。

 ――若葉と銀河のあいだに立つといい。

 幹夫は小さく頷いた。

「ここにいるよ」

 そう言うと、茶畑の方から風が吹いた。

 若葉が見えない闇の中で、さわさわと揺れた。

 それは返事のようでもあり、まだ芽のままの幹夫の将来が、静かに息をしはじめる音のようでもあった。


 
 
 

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