若葉と銀河のあいだ
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 16分

若葉は、空を知らないまま空へ伸びている。
幹夫は、五月の茶畑を見るたび、そう思った。
山裾に続く茶の畝は、朝の光を浴びて、やわらかな緑の波になっていた。摘まれたばかりの一番茶のあとから、また新しい芽が小さく顔を出している。葉はまだ薄く、指先でそっと触れなければ破れてしまいそうだった。けれど、その頼りなさの中に、空へ向かう力があった。
若葉は土から生まれる。
けれど土だけを見てはいない。
光の方へ、風の方へ、まだ見たことのない高みの方へ、静かに伸びていく。
幹夫は十二歳だった。
茶畑の村に生まれ、茶の香りの中で育った。朝は若葉の露を見て学校へ行き、夕方は製茶場から流れる蒸気の匂いを胸に吸って家へ帰った。畳にも、柱にも、父の作業着にも、祖母の手にも、五月になると新茶の青い香りがしみこんだ。
けれど幹夫の心は、いつも茶畑だけに留まってはいなかった。
夕暮れの空に一番星を見つけると、胸の奥がすうっと遠くなった。夜、山の上に銀河が淡く流れているのを見ると、自分の体の中にも細い光の川が流れているような気がした。茶畑の若葉の匂いを嗅ぎながら星を見上げると、地上と空が別々のものではなく、どこかでひそかにつながっているように思えた。
そんなことを、幹夫は誰にもあまり話さなかった。
話せば、言葉はすぐに頼りなくなる。
若葉の薄さも、星の遠さも、胸に満ちる寂しさも、言葉にすると小さくなってしまう。手のひらにのせようとした露が、すぐ指の間からこぼれるように。
その日、学校で作文の宿題が出た。
題は、「将来のわたし」。
先生が黒板にそう書いた瞬間、教室の中が少しざわめいた。健太は「サッカー選手」と言い、真紀は「本屋さん」と言った。誰かは「都会で働く」と言い、誰かは「まだ分からない」と笑った。
幹夫は、白い原稿用紙を見つめていた。
将来。
その言葉は、銀河より遠く感じられた。
自分が何になるのか、幹夫には分からなかった。父のように茶畑を継ぐのだろうか。祖母のように湯の温度だけで茶の味を知る人になるのだろうか。それとも、夜空を見上げているときの胸の震えを、どこか別の場所へ持っていくのだろうか。
幹夫には、茶畑が好きだった。
けれど、好きというだけでは足りない気がした。
茶畑には暮らしがある。朝早く起き、土を見て、虫を見て、天気を心配し、霜を恐れ、摘み時を逃さず、売り先のことまで考えなければならない。父の肩の重さを、幹夫は知っていた。茶畑は美しいだけの場所ではなかった。
けれど、銀河だけを見て生きることもできない。
星は遠すぎる。美しいけれど、手は届かない。腹を満たすことも、家の屋根を直すことも、祖母の薬代を払うこともできない。
若葉と銀河。
そのあいだで、幹夫の心は小さく揺れた。
帰り道、幹夫はいつもの茶畑の坂を上った。
空は薄く曇っていた。雲の向こうに日があり、茶畑全体が白い光に包まれている。若葉は強く輝くのではなく、内側から淡く明るんでいた。まるで、誰にも見せない手紙を胸にしまっているようだった。
幹夫は畝の端にしゃがんだ。
指先で若葉に触れる。葉は少し湿っていた。昼の熱と、夕方の冷気のあいだで、まだ迷っているような温度だった。
「君は、何になりたいの」
幹夫は小さく言った。
若葉は答えない。
ただ風に揺れた。
けれど幹夫には、その揺れが答えのようにも思えた。若葉は何になりたいかなど考えていないのかもしれない。ただ、光を受け、雨を受け、風に揺れながら、少しずつ葉になっていく。いつか摘まれ、茶になり、香りになって、誰かの湯呑みに届く。
それは、決めた将来ではなく、重ねていく時間だった。
家に戻ると、祖母が納戸の整理をしていた。
古い木箱を開け、黄ばんだ手紙や布切れ、使わなくなった茶道具を畳の上に並べている。幹夫が覗くと、祖母は顔を上げた。
「ちょうどよかった。幹夫、これを見てごらん」
祖母が差し出したのは、古い帳面だった。
表紙は紺色で、角がすり切れていた。開くと、ところどころに茶の葉が押し花のように挟まれている。葉はすっかり色を変えて、薄い褐色になっていた。それでも形は残っていた。葉脈が細く浮き出て、知らない地図のようだった。
「これは?」
「母さんの帳面だよ」
幹夫の胸が、ふいに止まったようになった。
母。
その言葉は、いつも静かな水に落ちる小石のようだった。小さくても、波紋が胸いっぱいに広がってしまう。
母は去年の冬に亡くなった。
もうすぐ一年半になる。けれど幹夫の中で、母は時々とても近く、時々ひどく遠かった。台所の戸口に立っている気がする日もあれば、銀河の向こうへ行ってしまったように感じる夜もある。
幹夫は帳面を両手で受け取った。
母の字があった。
細く、少し丸く、ところどころに小さな癖のある字。幹夫はそれだけで、母の指先を思い出した。茶葉を摘むときの指。幹夫の髪を撫でるときの指。熱を測るとき、額にそっと置かれた指。
帳面には、茶畑のことが書かれていた。
何月何日に雨が降ったか。どの畑の芽が早かったか。霜の心配をした夜のこと。祖母と一緒に新茶を淹れた日のこと。
けれどその合間に、母らしい言葉が混じっていた。
――若葉は、地上の星。 ――茶畑は、昼の銀河。 ――摘む手は、星を傷つけないように祈る手。
幹夫は息をつめて読んだ。
頁をめくると、一枚の若葉が挟まれていた。今では茶色く乾いているが、押された形はきれいに残っている。その横に、母の字でこう書かれていた。
――幹夫がいつか迷ったら、若葉と銀河のあいだに立つといい。 ――そこには、土から来たものと空から来たものが、両方届いている。
幹夫は、その文字から目を離せなかった。
祖母は何も言わなかった。
部屋の外では、夕方の風が茶畑の方から吹いてきた。畳の上に並んだ古い紙が、かすかにめくれた。その音が、母が帳面を閉じる音のように聞こえた。
「おばあちゃん」
幹夫はやっと声を出した。
「お母さんは、僕が迷うって知ってたのかな」
祖母は少し考えた。
「知っていたというより、願っていたのかもしれないね」
「願っていた?」
「迷える子でいてほしい、と」
幹夫は驚いた。
「迷わない方がいいんじゃないの」
「迷わない人は、まっすぐ進める。でも、道の脇に咲く小さな花を見落とすこともある」
祖母は母の帳面を見つめた。
「幹夫の母さんはね、よく迷う人だったよ。茶畑を守りたい気持ちと、遠くへ行ってみたい気持ち。家族を大事にしたい気持ちと、自分だけの夢を持ちたい気持ち。その間で、何度も立ち止まっていた」
「お母さんも?」
「そうだよ」
幹夫は胸の奥が少し熱くなった。
母はいつも、幹夫よりずっと分かっている人のように見えた。やさしく、明るく、春の言葉を持っていて、若葉にも星にも同じように話しかけられる人。けれど母も迷っていたのだ。
迷いながら、茶畑に立っていた。
迷いながら、幹夫を抱きしめていた。
「迷うのは、悪いことじゃない」
祖母は言った。
「心が二つの方角を感じている証拠だからね」
その夜、幹夫は作文を書こうとした。
机の上に原稿用紙を置く。題を書き、名前を書く。けれど本文はなかなか始まらなかった。
将来のわたし。
幹夫は鉛筆を握ったまま、窓の外を見た。
夜になっていた。
茶畑は見えない。けれど香りがある。新茶の青く澄んだ匂いが、家の隙間から静かに入り込んでくる。空には雲が少なく、星が出ていた。山の上に、うっすらと銀河が流れている。
幹夫は母の帳面を開いた。
――若葉と銀河のあいだに立つといい。
その言葉を、何度も読んだ。
若葉と銀河のあいだ。
そこは、どこだろう。
茶畑の中だろうか。夜空の下だろうか。それとも、自分の胸の中だろうか。
幹夫は上着を羽織り、帳面を胸に抱えて外へ出た。
父は製茶場からまだ戻っていなかった。祖母は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。玄関を出ると、夜気が頬に触れた。少し冷たいが、冬の冷たさではない。春の終わりと初夏の入口が混じったような、やわらかな冷たさだった。
幹夫は茶畑へ向かった。
坂道の草は夜露で濡れていた。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くで犬が一度吠えた。製茶場の方からは、まだ機械の低い音が響いていた。その音は、地上が眠りながら働いている鼓動のようだった。
茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。
空には銀河があった。
はっきりした白い帯ではなかった。けれど山の上の夜が、そこだけ少し薄くなり、星の粉を流したように光っていた。幹夫はしばらく、それを見上げた。
それから足元の若葉を見た。
葉先には露がついていた。星明かりを受け、ほんの少しだけ光っている。空の銀河の遠い光と、足元の露の小さな光が、幹夫の目の中で重なった。
若葉は近い。
手を伸ばせば触れられる。匂いもある。湿り気もある。葉脈も見える。
銀河は遠い。
どんなに手を伸ばしても触れられない。匂いも温度もない。けれど見上げるだけで、胸の奥に広い風が吹く。
その近いものと遠いもののあいだに、幹夫は立っていた。
幹夫は母の帳面を開いた。
星明かりだけでは字はよく読めなかった。けれど、母の言葉はもう胸の中に入っていた。
「お母さん」
幹夫は小さく呼んだ。
返事はなかった。
けれど新茶の香りが、風に乗ってふわりと近づいた。幹夫は目を閉じた。母が畑で白い手ぬぐいを結び、若葉に触れている姿が浮かんだ。膝を折って、幹夫と同じ高さで葉を見てくれた母。夜、星を見上げて、「遠いものは、遠いまま心に入ってくるのね」と言った母。
「僕、何になればいいか分からない」
幹夫は夜に向かって言った。
「茶畑も好き。星も好き。ここにいたい気もするし、遠くへ行きたい気もする」
言葉にすると、胸の中で絡まっていたものが少しほどけた。
幹夫は続けた。
「どっちかを選ばないといけないのかな」
風が吹いた。
若葉が一斉に揺れた。露が小さく震え、星の光が細かく割れた。幹夫には、それが小さな拍手のようにも、誰かのため息のようにも聞こえた。
そのとき、背後で草を踏む音がした。
「幹夫」
父だった。
作業着のまま、肩に薄い上着をかけている。製茶場から戻って、幹夫がいないことに気づいたのだろう。以前なら叱られたかもしれない。けれど父の顔は、怒っているというより、少し疲れ、少し心配しているようだった。
「またここか」
「ごめんなさい」
幹夫は帳面を胸に抱いた。
父は畑の端まで来て、幹夫の隣に立った。しばらく二人は黙っていた。新茶の香りが、二人の沈黙の間をゆっくり流れていく。
「それは?」
父が帳面を見た。
「お母さんの帳面」
父の表情が少し変わった。
「祖母さんが出したのか」
「うん」
幹夫は迷ったが、帳面を開いて父に見せた。星明かりでは読みにくかったので、幹夫は母の言葉を声に出した。
「若葉と銀河のあいだに立つといい。そこには、土から来たものと空から来たものが、両方届いている」
父は黙って聞いていた。
その顔は、闇の中でよく見えなかった。けれど幹夫には、父の胸のどこかに古い扉が開いたような気がした。
「母さんらしいな」
父は低く言った。
「お父さんは、分かる?」
「全部は分からん」
父は正直に言った。
「でも、母さんがそういうことを考えていたのは知っている」
幹夫は父を見上げた。
「お母さんも迷ってたって、おばあちゃんが言ってた」
「ああ」
「本当?」
「本当だ」
父は茶畑を見た。
「母さんは若いころ、町へ出たかったらしい。絵を描きたかったとも言っていた。星のことを勉強してみたいと言ったこともある」
「知らなかった」
「俺も、結婚してから少しずつ知った」
父は少し笑った。
「人は一緒に暮らしていても、全部は分からんものだ」
幹夫は胸が静かに痛んだ。
母には、幹夫の知らない母がいた。茶畑で笑っていた母だけではない。町へ出たかった母。絵を描きたかった母。星を学びたかった母。その母が、ここで幹夫を産み、茶を摘み、帳面に言葉を残した。
それは諦めだったのだろうか。
それとも、別の形で夢を生きたということなのだろうか。
「お母さんは、かわいそうだった?」
幹夫は思わず尋ねた。
父はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、言った。
「かわいそう、とだけ言うと、母さんに怒られる気がする」
「どうして」
「母さんは、自分で選んだことも多かったからだ。選べなかったこともあっただろうが、選んだこともあった」
父は足元の茶畑に目を落とした。
「茶畑に残ることも、お前を育てることも、星を見続けることも」
幹夫は黙った。
選ぶということは、何か一つを捨てることだと思っていた。けれど母は、捨てたものの光を完全には消さなかったのかもしれない。町へ行かなかったとしても、星を見ることをやめなかった。絵描きにならなかったとしても、帳面に若葉と銀河を書いた。
夢は、形を変えることがある。
茶の葉が摘まれて茶になるように。
若葉が香りになるように。
「僕も、分からない」
幹夫は言った。
「茶畑に残りたいのか、遠くへ行きたいのか。星のことも知りたい。でもここを捨てたいわけじゃない」
父は幹夫の言葉を遮らなかった。
幹夫はそれだけで、少し勇気が出た。
「作文で、将来のことを書かなきゃいけない。でも、何も決められない」
父は空を見上げた。
銀河は淡く、遠かった。
「決めなくていい」
父は言った。
幹夫は驚いた。
「いいの?」
「十二で全部決められたら、逆に怖い」
父の声には少しだけ笑いが混じっていた。
「でも、作文」
「今分かっていることを書けばいい」
「分かっていること?」
「何が好きか。何が怖いか。何を見ているか」
父は幹夫を見た。
「将来のことは、まだ芽みたいなものだろう。無理に摘むな」
幹夫の胸に、その言葉が静かに染みた。
まだ芽みたいなもの。
無理に摘むな。
父の言葉は、いつも土と茶の匂いがする。けれど今夜のその言葉は、星の光も少し含んでいるように思えた。
「お父さんは、将来を決めてた?」
「俺か」
父は少し困った顔をした。
「俺は、決めたというより、気づいたらここにいた」
「嫌じゃなかった?」
「嫌な日もあった」
父は正直に言った。
「逃げたい日もあった。けれど、朝に芽を見ると、もう少しやるかと思った」
幹夫は父の横顔を見た。
父もまた、若葉と銀河のあいだにいたのかもしれない。
父の銀河は、夜空ではなかったかもしれない。遠くの町、別の仕事、言えなかった夢、母と過ごした若い日の時間。そうした遠い光を胸のどこかに持ちながら、父は茶畑に立ち続けてきた。
「お父さんにも、銀河があるんだね」
幹夫が言うと、父は眉を寄せた。
「何だ、それは」
「遠くにあるもの」
父はしばらく黙った。
それから、小さく言った。
「あるかもしれん」
その声は、夜露のように控えめだった。
二人は並んで空を見上げた。
銀河は静かだった。無数の星が集まっているのに、音はしない。茶畑も静かだった。無数の若葉が風に揺れているのに、その音はとても小さい。
たくさんのものが集まっている場所ほど、かえって静かなのかもしれない。
幹夫はそう思った。
人の心も同じだ。
悲しみ、憧れ、迷い、愛しさ、恐れ。たくさんのものが胸の中にあるのに、外から見るとただ黙っているだけに見えることがある。父の沈黙も、母の微笑みも、自分の言えなかった言葉も、みんなその静けさの中にあった。
そのとき、茶畑の下の方で、小さな光がひとつ揺れた。
蛍だった。
まだ早い気もしたが、湿った草の間から、淡い光が浮かび上がった。ひとつ、またひとつ。多くはなかった。けれどその小さな光は、茶畑の闇と銀河の光のあいだを、ゆっくり漂った。
幹夫は息をのんだ。
蛍は、若葉でも星でもなかった。
地上に近いのに、空へ向かって浮かぶ。星ほど遠くなく、若葉ほど根を持たない。短い命の中で、自分の光を点けたり消したりしながら、夜のあいだを漂っている。
「きれいだな」
父が言った。
父が自分からそんな言葉を口にするのは珍しかった。
幹夫は頷いた。
「若葉と銀河のあいだにいるみたい」
父は、今度は笑わなかった。
「ああ」
ただ、そう言った。
その「ああ」は、幹夫の見ているものを少しだけ一緒に見てくれる声だった。
幹夫は胸がいっぱいになった。
いっぱいになったけれど、苦しくなかった。祖母が言ったように、空っぽでは香らない。胸がいっぱいになるから、香るものもあるのだろう。
家に戻ると、祖母が新茶を淹れて待っていた。
「二人で星見かい」
祖母が笑うと、父は「蛍もいた」とだけ言った。
「まあ、早いねえ」
祖母は小さな湯呑みを三つ並べた。仏壇の前にも、母の分の湯呑みを置いた。湯気が白く立つ。新茶の香りが部屋に広がる。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
一口飲むと、若い苦みが舌に触れ、そのあとで甘みがゆっくり戻ってきた。
その味の中に、夜の茶畑があった。 母の帳面があった。 父の「無理に摘むな」があった。 蛍の小さな光があった。 遠い銀河があった。
幹夫は湯呑みを見つめながら、作文に何を書くか、少しだけ分かった気がした。
翌朝、学校へ行く前に、幹夫は机に向かった。
原稿用紙の一行目に、題を書いた。
将来のわたし。
少し考えてから、書き始めた。
――ぼくは、まだ将来のことがはっきり分かりません。 ――茶畑の仕事をする人になるのか、星のことを勉強する人になるのか、それとも別の何かになるのか、今は決められません。 ――でも、ぼくには好きな場所があります。 ――それは、若葉と銀河のあいだです。
幹夫は鉛筆を止めた。
窓の外では、朝の茶畑が光っていた。夜の銀河はもう見えない。蛍もいない。けれど若葉の露が、昨夜の光を少し覚えているように輝いていた。
幹夫は続けた。
――若葉は近くにあります。触れることができます。においもあります。 ――銀河は遠くにあります。触れることはできません。でも、見上げると胸の中が広くなります。 ――ぼくは、近いものも遠いものも、どちらも大切にしたいです。 ――土のことを忘れずに、空のことも見上げたいです。
字は少し震えていた。
けれど幹夫は、その震えを消さなかった。
昨夜の風が入っている字だった。母の帳面を読んだときの胸の震え、父が隣で空を見てくれたときの安堵、蛍を見た瞬間の息の止まるような驚き。それらが、鉛筆の線に少しだけ残っている気がした。
――将来のぼくは、まだ芽です。 ――だから無理に摘まなくていいと、父が言いました。 ――ぼくはその芽を、すぐに決めつけないで育てたいです。 ――いつか茶の香りと星の光を、誰かに届けられる人になりたいです。
書き終えると、幹夫は原稿用紙を読み返した。
立派な作文かどうかは分からなかった。先生がどう思うかも、友だちが笑うかどうかも分からなかった。けれど、そこには今の幹夫がいた。
まだ何者でもない幹夫。
茶畑の子であり、星を見上げる子であり、母を恋しがり、父の言葉に救われ、祖母のお茶で胸を温める子。
若葉と銀河のあいだに立つ子。
その日の放課後、幹夫は作文を提出したあと、少しだけ胸が軽くなっていた。
帰り道、茶畑の坂を上る。
夕方の光が若葉に降りていた。風が吹くと、畝全体がやわらかく揺れた。幹夫は畑の端に立ち、昨日触れたあたりの若葉を見た。
もちろん、どれが昨日の葉なのか分からない。
けれどそれでよかった。
一枚一枚の葉は小さくても、畑全体で緑の波になる。ひとつひとつの星は遠くても、集まれば銀河になる。幹夫の迷いも、涙も、小さな嬉しさも、いつか集まればひとつの道になるのかもしれない。
幹夫は若葉にそっと触れた。
葉は光を透かしていた。
薄いからこそ、光が通る。
幹夫はそのことを、前より少し深く分かった気がした。
夜になると、幹夫はもう一度外へ出た。
空には雲があって、銀河は見えなかった。蛍も出なかった。茶畑も闇に沈んでいる。
けれど、新茶の香りがあった。
見えない茶畑から立ちのぼる、青く、甘く、少し苦い香り。その香りを吸い込むと、幹夫の胸の中に昨夜の銀河が淡く戻ってきた。
見えないものは、消えたものではない。
夢も、将来も、母の言葉も、自分の中の芽も。
幹夫は夜空を見上げた。
雲の向こうに銀河がある。 足元の闇の中に若葉がある。 そのあいだに、自分がいる。
小さく、迷いやすく、すぐに胸がいっぱいになる自分。
けれど幹夫は、もうその場所を寂しいだけの場所だとは思わなかった。
若葉と銀河のあいだには、風がある。 香りがある。 蛍のような短い光がある。 まだ名前のない未来がある。 そして、迷いながらも伸びていこうとする心がある。
幹夫は目を閉じた。
母の声が、遠く近く聞こえた気がした。
――若葉と銀河のあいだに立つといい。
幹夫は小さく頷いた。
「ここにいるよ」
そう言うと、茶畑の方から風が吹いた。
若葉が見えない闇の中で、さわさわと揺れた。
それは返事のようでもあり、まだ芽のままの幹夫の将来が、静かに息をしはじめる音のようでもあった。





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