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茶の丘の星めぐり


 茶の丘に夜が降りると、畑の緑は、もう緑だけではなくなった。

 昼のあいだ、陽を浴びて明るく光っていた茶の畝は、夕闇の中で少しずつ深い色へ沈んでいく。丸く整えられた葉の波は、丘の斜面に沿って幾筋も連なり、風が渡るたびに、さわ、さわ、と低く鳴った。

 幹夫少年は、その音を聞きながら農道を歩いていた。

 町の灯りは、丘の下に小さく集まっていた。家々の窓、遠くの車のライト、信号機の赤。人間の暮らしの灯は、夜になると星に似て見える。けれど幹夫には、それが本当の星よりも少し寂しく感じられた。

 そこには、誰かの眠れない夜がある。 誰かの食卓がある。 誰かの言えなかった言葉がある。

 そう思うと、ひとつひとつの灯りが、ただの明かりではなくなってしまう。

 幹夫は、いつもそうだった。

 見なくてもいいものまで見る。 聞かなくてもいいものまで聞く。 忘れれば楽になるものを、忘れられずに胸の中へしまってしまう。

 その日も、幹夫の胸には小さな重さがあった。

 同じ組の小野くんが、転校することになったのだ。

 小野くんは、特別に仲のよい友だちというわけではなかった。けれど、図書室で同じ本を手に取ったことがある。雨の日に、二人だけで昇降口に残って、傘を待ったことがある。給食の時、小野くんが苦手なにんじんを少しだけ残して、幹夫がそれを見なかったふりをしたこともあった。

 そんな小さな出来事ばかりだった。

 でも、幹夫にとっては小さくなかった。

 帰りの会のあと、みんなが「元気でね」「また会おう」と言った。幹夫も言った。

 「元気で」

 それだけだった。

 本当は、もっと言いたかった。

 雨の日の昇降口のことを覚えているよ。 図書室で同じ本を選んだことが、少しうれしかったよ。 にんじんを残したことは、誰にも言わないよ。 行ってしまうのが、寂しいよ。

 けれど言えなかった。

 言えば、小野くんを困らせる気がした。自分だけがそんなに覚えていることを知られるのが怖かった。だから幹夫は、誰でも言える短い言葉だけを渡してしまった。

 その「元気で」は、悪い言葉ではない。

 でも、幹夫の胸の中では、言えなかった言葉たちが、畳まれたまま重なっていた。

 夜になっても眠れず、幹夫は茶の丘へ来た。

 空には、星が出ていた。

 細かな星たちは、黒い空の奥で静かに瞬いている。けれどその夜、幹夫はすぐに気づいた。

 星が、動いている。

 流れ星のように落ちるのではない。雲に隠れて見え方が変わるのでもない。星たちは、ゆっくりと円を描くように、茶の丘の上をめぐっていた。

 空だけではなかった。

 茶畑にも、星があった。

 茶葉の先に宿った露が、ひとつ、またひとつと光りはじめる。露の光は空の星と呼応するように揺れ、茶の畝に沿って細い輪を作っていった。

 幹夫は息を止めた。

 丘全体が、大きな星の輪になっていた。

 茶畑の星と、空の星が、ゆっくりめぐっている。

 「今夜は、星めぐりの夜だよ」

 声がした。

 幹夫は振り返った。

 農道の脇に、一人の老人が立っていた。

 老人と言っても、顔ははっきり年を取っているように見えるのに、背筋はまっすぐで、目は少年のように澄んでいた。白い手ぬぐいを首にかけ、手には古い急須を持っている。急須の口からは湯気ではなく、小さな星の光が細く立ちのぼっていた。

 「星めぐり?」

 幹夫が聞くと、老人はうなずいた。

 「茶の丘に一年ぶんの記憶が満ちる夜、星は空から丘へ降り、丘の記憶は星へ上る。そうして、忘れられかけた小さなことが、次の季節へめぐっていく」

 老人は、茶畑を見渡した。

 「人間の言葉で言えば、祭りに近いかもしれないね。けれど、太鼓も笛もない。茶葉と星が、ただ静かにめぐるだけの祭りだ」

 幹夫は、茶の畝の光を見つめた。

 露の星は、畑の上で円を描いていた。強い光ではない。けれど、目をそらすと消えてしまいそうで、だからこそ見つめていたくなる光だった。

 「あなたは、誰ですか」

 幹夫がたずねると、老人は少し笑った。

 「めぐり番」

 「めぐり番?」

 「星が迷わぬように、茶の丘の記憶がこぼれぬように、夜のあいだ見ている者だよ」

 幹夫は、老人の急須を見た。

 中から立つ星の光が、空の星と茶葉の露をつないでいるようだった。

 「星は、何をめぐるんですか」

 幹夫が聞くと、老人は農道に腰を下ろした。

 幹夫も隣に座った。

 茶畑は、二人の前で静かに光っていた。

 「星はね、見えなくなったものをめぐる」

 老人は言った。

 「終わった一日。言えなかった言葉。誰かの手の温もり。葉の上で消えた露。湯呑みから上った湯気。そういうものは、消えたように見える。けれど本当に消えるわけではない。めぐる場所を探しているんだ」

 幹夫の胸が、少し痛んだ。

 言えなかった言葉。

 小野くんへ渡せなかった言葉たちが、胸の中で小さく動いた。

 老人は、幹夫の顔を見た。

 「君も、めぐらせたいものを持っているね」

 幹夫は、すぐには答えられなかった。

 でも、嘘をつく気にはなれなかった。

 「友だちが、転校しました」

 幹夫は言った。

 「言いたいことがあったのに、言えませんでした」

 「どんなことを」

 「小さいことです」

 幹夫はうつむいた。

 「一緒にいた時のこと。図書室のこと。雨の日のこと。そういう、誰にでもあるようなことです。でも、ぼくには残っていて」

 老人は黙って聞いていた。

 幹夫は続けた。

 「言ったら変かなと思いました。そんなことまで覚えているのかって、思われるかもしれないから。だから、元気で、しか言えませんでした」

 言葉にしてみると、胸の奥の重さが少し形を持った。

 大きな悲しみではない。

 けれど、小さいからといって軽くはなかった。

 老人は、茶の葉の露を見た。

 「言えなかった言葉は、胸に置いたままだと、時々重くなる」

 幹夫はうなずいた。

 「でも、言葉を全部相手に渡せばよいわけでもない。相手がもう遠くへ行っている時もある。渡すと重くなる言葉もある」

 幹夫は、老人を見た。

 「じゃあ、どうすればいいんですか」

 老人は、急須を幹夫の前に差し出した。

 「茶の丘に預ける」

 「預ける?」

 「言えなかった言葉を、星めぐりに乗せるんだ。すると、その言葉はそのまま相手へ届くとは限らない。けれど、香りになり、風になり、どこかの朝の光になって、めぐっていく」

 幹夫は、急須の中をのぞいた。

 そこにはお茶が入っているようで、星空が入っているようでもあった。深い緑の水面に、無数の小さな光が巡っている。

 「どうやって預けるの?」

 「一枚の茶葉を選びなさい」

 老人は言った。

 「君の言葉を受け止めてくれそうな葉を」

 幹夫は立ち上がった。

 茶畑の畝の間へ、そっと入る。夜露を落とさないように、茶葉を傷つけないように歩いた。

 茶葉はどれも光っていた。

 若い葉は明るく、古い葉は深く、傷のある葉はその傷の縁に星を抱いていた。幹夫は迷った。

 どの葉も、誰かの言葉を受け止めてきたように見えた。

 やがて、畝の端にある一枚の小さな葉が目に留まった。

 その葉は、ほかの葉より少し低いところにあった。目立たない。けれど、葉の上の露は、空の星をとても静かに映していた。

 幹夫は、その葉の前にしゃがんだ。

 「この葉でいいですか」

 老人はうなずいた。

 「その葉は、聞き役の葉だね」

 幹夫は、葉の上の露を見つめた。

 露の中に、小野くんの横顔が映った気がした。図書室で本を見ていた時の横顔。雨の日、昇降口の外を見ていた時の横顔。にんじんを残して、少し困ったように笑っていた顔。

 幹夫の胸が熱くなった。

 「小野くん」

 幹夫は、小さな声で言った。

 「ぼく、図書室のことを覚えているよ」

 露が、かすかに光った。

 「雨の日、二人で傘を待ったことも覚えている」

 茶葉が、さわ、と小さく揺れた。

 「にんじんを残したことは、誰にも言わないよ」

 幹夫は少しだけ笑った。

 でも、その笑いには涙が混じっていた。

 「元気で、だけじゃ足りなかった。本当は、寂しいって言いたかった」

 その言葉を言った瞬間、胸の中にあった重さが、一気にこぼれそうになった。

 幹夫は、泣くまいとした。

 けれど、涙が一粒、茶葉の上へ落ちた。

 露の隣に、もうひとつ小さなしずくができた。

 その涙は、星の光を受けて淡く光った。

 老人が静かに言った。

 「よいしずくだ」

 「泣いてしまいました」

 「泣いた言葉は、よくめぐる」

 幹夫は涙を拭いた。

 茶葉の上の露と涙が、ゆっくり近づき、ひとつになった。すると、そのしずくの中で、小さな星が生まれた。

 弱い星だった。

 けれど、確かに光っていた。

 老人は急須のふたを開けた。

 「そのしずくを、急須へ」

 幹夫は、どうすればいいかわからなかった。

 すると茶葉が、そっと傾いた。

 しずくは葉の縁を伝い、幹夫の差し出した両手の上へ落ちた。熱くも冷たくもなかった。ただ、胸の中の一部が手のひらに移ったような重さがあった。

 幹夫は、それを老人の急須へ落とした。

 ぽつん。

 小さな音がした。

 急須の中の星たちが、一瞬だけ強く巡った。

 茶畑全体の光も、それに合わせてゆっくり回りはじめた。露の星が畝から畝へ、丘の上から空へ、空からまた茶葉へと、円を描いてめぐっている。

 「見てごらん」

 老人が言った。

 幹夫は空を見上げた。

 茶畑から一本の細い光が立ちのぼっていた。幹夫の言えなかった言葉を含んだしずくが、星めぐりの輪に乗って、空へ向かっていく。

 空の星たちは、それを受け取り、少しだけ位置を変えた。

 ほんのわずかな変化だった。

 でも幹夫にはわかった。

 自分の小さな言葉が、夜空のどこかに場所をもらったのだ。

 「小野くんに届くのかな」

 幹夫は聞いた。

 老人はすぐには答えなかった。

 「そのままの言葉として届くとは限らない」

 「そうですか」

 少し寂しかった。

 老人は続けた。

 「でも、遠くの町で小野くんが、ふとお茶を飲んだ時、理由もなく図書室の匂いを思い出すかもしれない。雨の日の昇降口を思い出すかもしれない。誰かに小さく優しくされたことを、急に懐かしく思うかもしれない」

 幹夫は、星の輪を見つめた。

 「それが、届くということですか」

 「まっすぐ届くものだけが、届くものではないよ」

 老人は言った。

 「人の気持ちは、時々めぐって届く。遠回りして、香りになって、光になって、別のやさしさになって」

 幹夫は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 言えなかった言葉は、完全には消えない。

 まっすぐ相手に渡せなかったとしても、めぐる道がある。

 茶の丘の星めぐりが、その道を作ってくれる。

 星たちのめぐりは、ますます美しくなった。

 茶葉の露が光る。 空の星が巡る。 急須の中で、言葉のしずくが香りへ変わる。

 その輪の中に、幹夫の涙も、小野くんとの小さな記憶も、茶畑の夜風も入っていた。

 老人は言った。

 「星めぐりには、もうひとつ大切なことがある」

 「何ですか」

 「めぐらせた言葉を、もう一度自分の胸へ戻すこと」

 幹夫は驚いた。

 「戻すんですか」

 「そう。預けっぱなしでは、自分の言葉ではなくなってしまう。めぐったあと、軽くなった言葉を少しだけ受け取る。そうすると、その記憶は重荷ではなく、灯になる」

 老人は急須から、小さな湯呑みにお茶を注いだ。

 湯呑みには、深い緑のお茶が入った。

 湯気が立ちのぼる。

 その湯気の中に、小さな星がひとつ混じっていた。

 老人は湯呑みを幹夫に差し出した。

 幹夫は両手で受け取った。

 温かかった。

 「飲んでごらん」

 幹夫は、ゆっくりお茶を口に含んだ。

 最初に苦みが来た。

 別れの苦みだった。

 言えなかった言葉の苦み。 もう同じ教室にいないことの苦み。 何気ない時間が、あとから大切だったとわかる苦み。

 幹夫は、その苦みから逃げなかった。

 次に、香りが広がった。

 図書室の紙の匂い。 雨の日の湿った昇降口。 給食の湯気。 小野くんの少し困った笑い。

 そして最後に、かすかな甘みが残った。

 覚えていることは、痛いだけではない。

 それは、胸の中に灯る小さな星にもなる。

 幹夫は、湯呑みを下ろした。

 目に涙がにじんでいたが、さっきよりも静かな涙だった。

 「少し、軽くなりました」

 老人はうなずいた。

 「よくめぐったね」

 茶畑の星めぐりは、ゆっくり終わりに近づいていた。

 東の空が白みはじめ、星たちは少しずつ薄くなっていく。茶葉の露も、夜の深い光から朝の透明な光へ変わりはじめていた。

 老人の姿も、少し淡くなっていた。

 「もう行くんですか」

 幹夫が聞くと、老人は急須を胸に抱えた。

 「星めぐりの夜だけ、わたしははっきり見える」

 「また会えますか」

 「言えなかった言葉が重くなり、茶の丘へ来た時には」

 幹夫は、老人を見た。

 「その時も、言葉はめぐりますか」

 「めぐるよ。ただし、急がず、丁寧に。言葉にも、茶葉にも、星にも、それぞれの速さがあるから」

 老人は、朝の光に透けていった。

 最後に声だけが残った。

 「小さな記憶を、大切にしなさい。大きな別れは、小さな記憶で支えられる」

 幹夫がまばたきをすると、老人はいなかった。

 茶畑には朝が来ていた。

 空の星は見えない。 茶葉の露は、ただの露に戻っている。 急須も湯呑みもない。

 けれど幹夫の胸には、ひとつの小さな星があった。

 それは小野くんとの記憶だった。

 もう重すぎるしずくではなく、めぐって戻ってきた灯だった。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 いつもの湯呑み。 いつもの湯気。 いつもの朝の音。

 けれど幹夫には、その湯気の中に茶の丘の星めぐりが少しだけ残っているように見えた。

 母が聞いた。

 「早起きしたのね」

 幹夫はうなずいた。

 「茶畑に行ってた」

 「また?」

 母は笑った。

 幹夫も少し笑った。

 そして、ふと思いついて言った。

 「友だちが転校したんだ」

 母の手が止まった。

 「そうだったの」

 「うん。ちゃんと言えなかったことがあった」

 「今、言える?」

 幹夫は、湯呑みの湯気を見た。

 言葉はまだ少し震えていた。けれど、もう胸の中で閉じ込められてはいなかった。

 「雨の日に、一緒に傘を待ったことを覚えてるって言いたかった」

 母は、静かに聞いていた。

 「それから、図書室で同じ本を選んだことも。そういう小さいことを、覚えてるって」

 母は微笑んだ。

 「小さいことほど、あとで大切になることがあるね」

 幹夫は、胸の星が少し光るのを感じた。

 その日、学校で小野くんの席は空いていた。

 机はきれいに拭かれ、椅子が中に入っている。

 幹夫は、その席を見て胸が少し痛んだ。

 でも、ただ痛いだけではなかった。

 そこには、星めぐりを終えた記憶の灯があった。

 幹夫は、自分のノートの端に小さく書いた。

 言えなかった言葉も、めぐることがある。

 その下に、もう一行書いた。

 小さな記憶を、大切にする。

 窓の外には、昼の空が広がっていた。

 星は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 見えない星も、空の深さを作っている。 言えなかった言葉も、めぐれば香りになる。 そして茶の丘では、次の星めぐりの夜まで、露が静かに朝を待っている。

 
 
 

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