茶の温度は嘘をつく
- 山崎行政書士事務所
- 8月25日
- 読了時間: 9分

序章 霧と線と、湯の縁
朝の丸子宿は、茶畑のうねりが薄い霧でやわらかく縁どられていた。等高線のように重なる畝(うね)を、鳥の鳴き声が横切る。幹夫は、摘み取りを終えたばかりの畝の端でしゃがみこみ、葉の縁に残る露を指先で転がした。冷たさは、まだ夜の名残を持っている。
「宇津ノ谷の茶会、行く?」圭太が背負ったリュックから、配布チラシを取り出す。明治トンネルの入口近く、古民家を使った**“丸子100%新茶フェア”**だという。「‘撮って出しの火入れLIVE’だって」理香が笑った。「温度ログがスクリーンに出るらしいよ。茶は温度の生き物だからって」
「線を見に行こう」朱音が言う。「温度曲線と等高線。山の線と、湯の線。どちらも嘘をつくと破綻する」
幹夫は、霧を割る日差しの角度を確かめ、うなずいた。今日の謎は、おそらく線の形に現れる。
第一章 “丸子100%”の幕
宇津ノ谷の古民家は、梁が太く、暗がりに冷んやりした空気が残っていた。白い布のスクリーンに、温度ログの折れ線グラフが投影される。火入れ機(焙煎釜)の棚温/排気温、蒸し上げから粗揉(そじゅう)、中揉、精揉を経て火入れにいたるまでの工程が、滑らかな線になって流れていく。
「本日は丸子宿の単一畑。丸子100%!」司会の青年、倉持翔太が明るく宣言する。丸子茶若手会の中心らしい。「温度は嘘をつかない。ログで透明性を見せるのが、ぼくらのやり方です」
蒼は拍手の間を縫って、土産コーナーを一瞥した。“丸子100%”の短冊が躍るティーバッグとリーフ。試飲の列に並ぶ。カップの中、茶は浅い翡翠色に澄む。香りは青く、口に含むと最初に甘み、あとから火の甘やかな余韻。——悪くない。けれど、幹夫は一瞬の違和感を拾った。カップの縁にわずかに残るミルい黄味。深蒸しに近い粉の細かさが、丸子の標高にしては少し重い。
「ブレンド感……ある?」朱音が声をひそめる。理香は温度ログを拡大した。火入れの棚温が90℃帯から105℃へ段上がりし、その後一定に横ばい。排気温の波(ノイズ)が不自然に小さい。「扉開閉の痕跡が薄い。人が触ってない線に見える」
「観光向けに機械任せで、単一畑って言ってるだけかも」圭太が肩をすくめる。幹夫は、スクリーンの右下に小さく出ているロガー名とサンプリング間隔に目を留めた。
Logger-AR01 / 60s interval / offset: −00:02:301分間隔。火入れ室の扉を開け閉めすれば、排気温にはギザが立つはずだ。呼吸のような揺れが、ここにはない。
第二章 等高線の茶と、平地の火
フェアの合間、倉持が笑顔で工房見学を案内した。古民家の裏手、簡易の火入れ室。小型の火入れ機が二台、換気フードに繋がっている。壁にはUSB温度ロガーが二つ。AR01とAR02。理香が訊ねる。「AR01がスクリーンの線?」「そうです。定点の棚温。排気温は機器から拾ってます」倉持は身振り軽く答える。「丸子は等高線で味が変わる。今日は標高220mの東向き。単一畑。ブレンドはしてません」
「味が揺れないね」朱音が静かに言った。「良い意味でも悪い意味でも。単一畑は天気に揺らぐのに」
倉持の笑顔が、少しだけ固くなった。「観光では安定も大事ですから」
幹夫は火入れ室の棚に目をやった。銀色の弁当用魔法瓶が横たわり、水滴の輪(リング)がうっすら残っている。魔法瓶の口の内側に、茶渋ではない薄い鉄の匂い。——温度を運ぶ容器。温度だけを、別の場所から持ってくることは、技術的には可能だ。
第三章 宇津ノ谷の風が教える
休憩がてら、明治トンネルのレンガの内側を歩く。ひんやりした空気が、首筋にやさしい。「宇津ノ谷の風は、山の曲線で冷たさが変わる」朱音が、トンネル出口から見える谷を指さした。「谷風が降りる時間、露点の近くで香りが立つ。温度ログも呼吸する時間があるはず」
理香はスマホで当日の気象を見て、ノートに式を書く。
露点 T_d ≈ T − (100 − RH)/5工房の湿度計は58%、外気は68%。火入れの棚温と排気温の差に、湿度の揺れが反映されるはず——。「線が滑らかすぎる。生き物の線じゃない」
圭太が肩をすくめた。「偽装って、どうやって?」幹夫は、トンネル壁のレンガの目地を指でなぞる。「温度ロガーは場所と時間を教える。でも場所を移せるし、時間は合わせられる。魔法瓶の湯にロガーを沈める。前日のカーブをなぞるように温度を作る。扉の開閉のノイズが消える。線は美しいけど、嘘になる」
「なぞった線は呼吸しない」朱音が言う。蒼は小さくうなずいた。「フェアネスの話になる。“丸子100%”の言い方と数字の見せ方」
第四章 味の正体は色に出る
古民家に戻ると、土産のリーフを3袋、表示違いで買った。
A:丸子100%(シングル)
B:丸子100%(深蒸し)
C:丸子ブレンド(と注記あり)
充電式ポットで70℃/80℃の二段抽出。理香は透明カップを並べ、ライトで透過を見る。Aは淡緑、縁にごく微細な粉がリング状に残る。Bは濃緑、濁りは自然。Cは黄色味が少し強く、後口に強めの火。
「Aの粉の粒度分布、深蒸しの粉が混じってる」理香がスマホ顕微鏡を覗きながら言う。「シングルなら粉率はもう少し低い。ブレンド起源の微粉が混入してる可能性」「火も深い。丸子の標高で今日の湿度なら、ここまで火を入れると香りが飛ぶ。でも飛んでない。均されてる」朱音は湯の縁を見た。「味を均すのは悪じゃない。でも表示は正直であってほしい」
幹夫は、A袋の封の熱圧痕を指でなぞった。工房のシーラーと形が違う。「外で詰めた?」
そのとき、裏口の軒先で台車の音。段ボールが一箱、そっと置かれ、誰かがすぐ去った。圭太が駆け足で外を見ると、白い軽バンが坂を下りていく。車体の後扉の角に、静かな藍色のステッカー——**“湾岸物流・岡部”**の文字。
第五章 温度だけ運ぶ方法
夕方、倉持に話を持ちかけると、彼は観念したように火入れ室に通した。蒼が正面から切り込む。「‘丸子100%’の言い方、フェアじゃない。温度ログも、呼吸がない。魔法瓶、使いましたね」
倉持はしばし沈黙し、魔法瓶に触れた。「焙煎曲線は美学だ。均すと売れる。観光は待たない。雨でも風でも同じ味を求める。曲線が波打つと、クレームが来る」彼は奥から予備のロガーを取り出す。AR03。「昨日、機械の都合もあった。排気ファンが一台止まりかけて、曲線が崩れた。前日のカーブをなぞって****AR01に流した。魔法瓶に湯を注いで、30分かけて**“前日曲線”の温度をつくった**。罪は分かってる」「ブレンドは?」蒼。倉持は、目を伏せた。「“丸子100%”を掲げた。足りなかった。岡部の仲間が**‘静岡県内の深蒸し荒茶’を緊急で回してくれた。同じ市内だ。悪いと思いたくなかった。均せば誰も気づかないと思った**」
幹夫は、スクリーンの線を見上げる。「気づくのは人じゃなくて、線だよ。息を止めた線は、見れば分かる」
第六章 線の合意
丸子茶若手会、物流の岡部の代表、観光課の担当、地元の茶商、そして幹夫たちが、古民家の座敷に集まった。蒼がペンを握り、三つの欄を作る。
1) 止めること
“丸子100%”の表記は単一畑・単一ロットのみ。不足時は即“丸子ブレンド(県内◯%)”に切替。
温度ログの偽装禁止。ロガーは二重化(棚温と外気)、サンプリング30秒。扉開閉のイベントログを別トラックで記録。
魔法瓶の使用禁止(ロガー保管は鍵付き箱)。
2) 見せること
“線の公開”:火入れ曲線を当日貼り出し、前日と重ねたグラフを並べる。ノイズは呼吸として説明。
ブレンド時の味わい表:丸子比率、火の深さ、粉率を簡易ピクトで。「均す=悪」ではなく、**「均す=選べる」**に。
詰め場所表示:袋の熱圧痕が工房シーラーのものと一致するよう統一。外詰め時は朱印で表示。
3) 残すこと
温度ログはQRでアーカイブに紐づけ。工程写真(扉開閉・攪拌)のサムネイルを1枚添える。
不足時の協力ルール:“市内ブレンド”・“県内ブレンド”の優先順位と割合上限を覚書化。観光土産のフェアネスを制度で支える。
観光課の担当が言う。「‘均す’こと自体を否定しません。表示と説明で選択を返す。“丸子の線”を好きになってもらう」
倉持が深く頭を下げた。「線に嘘をつかない。そういう商売に戻ります」
第七章 再現と告白
日が傾く前、再現実験をした。AR01を魔法瓶に沈め、“前日曲線”を再現する湯温を作る。扉開閉のノイズは出ない。次に、扉を二分に一度少し開け閉めしながら実際の火入れ。排気温に細いギザが立つ。外気ロガーの線も呼応する。スクリーンに二つの線を重ねると、呼吸する線と息を止めた線の違いは明らかだった。
倉持は、来場者の前で告白し、謝罪した。「均すための嘘を、線に強いた。不足を不足と言う勇気がなかった。これからは**“丸子ブレンド”をはっきり示す**。線も味も見せます」
拍手は、はじめは小さく、次第に温度を帯びていった。岡部の代表が一歩前に出る。「足りない時に助け合うのは悪じゃない。名前を正直に書くだけだ」
終章 観察のノート
線:温度ログは呼吸する。棚温/排気温に扉開閉ノイズが自然に入る。滑らかすぎる線は要注意。物:魔法瓶の水滴リングと鉄臭=温度だけ運ぶ痕跡。袋の熱圧痕=詰め場の指紋。気:露点と湿度差が香りと線に出る。宇津ノ谷の谷風は曲線を揺らすはず。味:粉率と火の深さは透過光で見る。丸子の**“軽い甘香”が均されすぎると黄色味と火の尾**が残る。制度: “◯◯100%”は単一畑・単一ロット。不足時はブレンド名を明示。 ログ二重化+イベント記録で偽装抑止。QR公開でファンを巻き込む。倫理:均す技術は悪ではない。均すなら均すと言う。線に呼吸を返す。暗号:温度曲線と等高線。この巻のキーワード**「線」は、山にも湯**にも引かれている。
幹夫は、湯の表面に揺れる細い縁を見た。線は、境界ではない。生き物の息づかいだ。嘘をつけば止まり、正直に向き合えば揺れる。その揺れの中で、人は味を覚える。土地の名前を、ゆっくり好きになる。
夜風が宇津ノ谷の谷を抜け、古民家の障子を軽く震わせた。温かい茶をひと口。丸子の軽い甘香が、喉の奥で静かにひらいていった。





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