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茶の葉の上の星祭り

五月の茶畑には、星祭りがある。

 そう言ったら、村の子どもたちはきっと笑うだろう。星祭りといえば七月で、笹竹で、短冊で、天の川である。茶の葉の上で祭りが開かれるなど、誰も本気にはしないに違いない。

 けれど幹夫は知っていた。

 新茶の香りがまだ村じゅうに残っている五月の夜、空気がよく澄み、夜露が茶の若葉に降りるころ、茶畑では小さな星祭りが始まるのだ。

 それは人の目には、ただ露が光っているようにしか見えない。

 けれど、よく耳を澄ますと、葉の上で星たちが小さく鈴を鳴らしている音がする。よく目を凝らすと、露の粒の中に、空の星よりも近く、蛍よりも静かな灯が宿っているのが分かる。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、胸の内側が薄い少年だった。風が吹けば心も揺れ、誰かの言葉が少し沈めば、その沈み方まで感じてしまう。教室の隅に置き忘れられた傘を見るだけで、持ち主が雨の中をどう帰ったのか気になった。草むらに落ちた鳥の羽を拾うと、その鳥がどこへ飛んでいったのか、いつまでも考えた。

 父はよく言った。

「幹夫は、何でも胸に入れすぎる」

 それは叱る声ではなかった。父は幹夫を心配しているのだった。けれど幹夫には、胸へ入ってくるものをどうやって止めればいいのか分からなかった。

 茶の若葉だって、露を拒まない。 星明かりを拒まない。 風に触れられれば揺れる。 朝日を受ければ透ける。

 幹夫の心も、それに似ていた。

 母が生きていたころ、幹夫はそのことを恥ずかしいと思わずにいられた。母は幹夫の感じ方を笑わない人だった。

「茶の葉はね、幹夫」

 母はよく畑で言った。

「薄いから光を通すの。心も同じよ。薄い心には、星が入りやすいの」

「星が入ると、痛いよ」

 幼い幹夫がそう言うと、母は若葉の先の露を指で示した。

「そうね。でも、その痛みがあるから、誰かの小さな光に気づけるのよ」

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ寒いだけの日だった。病院の白い部屋で、母の手は驚くほど軽かった。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。

 ありがとう。 行かないで。 星祭りの夜を、また一緒に見たい。

 言葉は喉の奥で小さく凍り、声にならなかった。

 母がいなくなってから、五月の新茶の香りは少し痛いものになった。懐かしいのに、胸が苦しくなる。嬉しいのに、泣きたくなる。茶畑が明るくなるほど、そこに母がいないことも明るみに出てしまう。

 その年の五月、学校で「願いごと」を書く時間があった。

 七夕にはまだ早かったが、村の公民館で新茶祭りをすることになり、子どもたちも飾りを作ることになったのだ。先生は色紙を配り、言った。

「新茶祭りに飾る短冊です。かなえたいことを書いてください」

 教室はすぐにざわめいた。

「サッカーがうまくなりますように」

「新しい自転車がほしい」

「テストで百点」

「町へ遊びに行けますように」

 みんな笑いながら書いていた。

 幹夫は、緑色の短冊を前にして黙っていた。

 願いごと。

 その言葉は、幹夫の胸には少し重かった。願えばかなうなら、母に戻ってきてほしい。でもそれはかなわない。かなわないことを書いてしまえば、短冊がかわいそうな気がした。

 幹夫は鉛筆を持ったまま、長いあいだ考えた。

 そして、小さな字で書いた。

 ――お母さんの声を、忘れすぎませんように。

 書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 忘れませんように、とは書けなかった。

 人は忘れる。母の声も、手の温かさも、笑い方も、少しずつ薄れていく日がある。思い出そうとするほど、かえって輪郭がぼやけることもある。だから幹夫は、忘れませんようにとは書けなかった。

 忘れすぎませんように。

 それが、幹夫に書ける精いっぱいの願いだった。

 けれど隣の席の健太が、短冊をのぞき込んだ。

「何それ。変な願いごと」

 声に悪気はなかった。

 けれど、幹夫の胸は小さく裂けた。

「忘れすぎませんようにって、どういうことだよ」

 ほかの子も少し笑った。

 幹夫は短冊を裏返した。顔が熱くなった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。自分のいちばん柔らかいところを、昼の光にさらしてしまったような恥ずかしさだった。

 先生が気づいて、健太をたしなめた。

 けれど幹夫の胸に残った痛みは、すぐには消えなかった。

 家へ帰る道、幹夫は茶畑の横を通った。

 畑は夕方の光の中で静かに揺れていた。摘まれたあとの畝にも、また新しい芽が出ている。若葉は西日を受け、金色の縁を持っていた。

 風が吹く。

 茶の葉がさわさわと鳴る。

 幹夫には、その音が何かを慰めようとしてくれているように聞こえた。

 家に帰ると、祖母が縁側で茶葉を選っていた。

 幹夫の顔を見るなり、祖母は手を止めた。

「胸に雨が降った顔をしているね」

 幹夫は黙って祖母の隣に座った。

 ランドセルから緑の短冊を取り出す。裏返したまま、祖母に渡した。

 祖母は短冊をそっと開いた。

 ――お母さんの声を、忘れすぎませんように。

 祖母は長いあいだ、その文字を見ていた。

 そして静かに言った。

「いい願いだね」

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

「変じゃない?」

「変じゃないよ」

「でも、忘れませんようにって書けなかった」

「それでいいんだよ」

 祖母は短冊を膝の上に置いた。

「人はね、忘れないようにするだけでは生きていけないこともある。全部を昨日のまま抱えていたら、胸が重くて歩けなくなる。だから少し忘れる。けれど、忘れすぎないように、香りや光や声のかけらを残しておく」

 幹夫は祖母を見た。

「それって、悪いことじゃないの?」

「悪いことじゃない」

 祖母は茶葉を一つまみ掌にのせた。

「新茶だって、若葉の形を忘れるでしょう。蒸されて、揉まれて、乾かされて、細い茶葉になる。でも、春を忘れすぎない。だから香るんだよ」

 幹夫は茶葉を見つめた。

 畑にいたころの若葉の姿は、もうそこにはない。けれど香りはある。むしろ姿を変えたからこそ、遠くへ届く香りになった。

「おばあちゃん」

「なんだい」

「茶の葉の上の星祭りって、本当にある?」

 祖母は目を細めた。

「母さんから聞いたのかい」

「うん」

「あるよ」

 祖母は当たり前のように言った。

「新茶のころ、星がよく見える夜にね。茶の葉の露が、空の星を招くんだ。人間の願いごとも、短冊の代わりに露へ映してくれる」

「願いごとも?」

「そう。声にできない願いほど、小さな露に映りやすい」

 幹夫は短冊を握った。

「じゃあ、僕の願いも?」

「今夜、茶畑へ持っておいで」

 祖母は言った。

「ただし、星祭りは人に見せるものじゃない。見せてもらうものだよ」

 その夜、幹夫は短冊を胸にしまって眠ろうとした。

 けれど眠れなかった。

 窓の外には星が出ていた。山の上には、淡い銀河が流れている。茶畑からは新茶の香りがかすかに入ってくる。昼間に笑われた言葉がまだ胸に残っていたが、祖母の「いい願いだね」という声が、その痛みのそばに座ってくれていた。

 幹夫はそっと起き上がった。

 家の中は静かだった。父はもう寝ている。祖母の部屋からは、かすかな寝息が聞こえる。幹夫は短冊を持ち、玄関を出た。

 夜の道は冷えていた。

 草には露が降りはじめ、靴の先が湿った。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くの製茶場は眠っているように静かだった。

 茶畑に近づくにつれて、新茶の香りが濃くなった。

 夜の新茶の香りは、昼とは違う。昼の香りは明るく、若々しい。けれど夜の香りは、青さの奥に静かな苦みを持っている。まるで、誰にも言えなかった言葉が葉の中でほどけているようだった。

 茶畑に着いた。

 幹夫は息をのんだ。

 茶の葉の上で、星祭りが始まっていた。

 畝の一つ一つが、夜空の川のように光っていた。若葉の先の露が、星を映しているだけではなかった。露そのものが小さな灯になり、葉の上に無数の祭り提灯のように並んでいる。風が吹くたび、その灯は消えそうに揺れ、けれどまた静かに光を取り戻す。

 空の銀河が、地上の茶畑へ降りてきたようだった。

 幹夫は畝の端にしゃがんだ。

 すると、葉の上から小さな声が聞こえた。

「今夜の願いは、どんな願い?」

 幹夫は驚いて周りを見た。

 茶の葉の上に、小さな星たちが座っていた。

 星といっても、空で見る硬い光ではない。露の帽子をかぶった、小さな子どものような星たちだった。体は淡い銀色で、足元は茶の葉に触れるか触れないかのところに浮かんでいる。手には、細い葉脈でできた笹の枝のようなものを持っていた。

 一番小さな星が、幹夫を見上げた。

「短冊を持ってきた?」

 幹夫は胸の中の短冊を取り出した。

 星の子たちは、いっせいに近づいた。

「緑の短冊だ」

「新茶色だ」

「これは、よく香る願いだね」

 幹夫は戸惑った。

「香る願い?」

「願いには匂いがあるんだよ」

 小さな星が言った。

「欲しいものの願いは、少し甘い匂い。勝ちたい願いは、熱い匂い。会いたい願いは、露の匂い。忘れたくない願いは、新茶みたいに、苦くて甘い匂いがする」

 幹夫の胸が震えた。

 忘れたくない願いは、新茶の匂い。

 それなら自分の願いは、茶畑に似ているのかもしれない。

 星の子の一人が、短冊を受け取った。

「読んでいい?」

 幹夫は少し迷った。

 学校で笑われたことを思い出した。けれど、この星たちは笑わないような気がした。

「いいよ」

 星の子は短冊を両手で持ち、ゆっくり読んだ。

「お母さんの声を、忘れすぎませんように」

 星たちは黙った。

 茶畑の風も、少しだけ静かになった。

 やがて、星の子が言った。

「これは、大事な願いだね」

 幹夫の目が熱くなった。

「変じゃない?」

「変じゃないよ」

「でも、忘れないって書けなかった」

「忘れすぎない、の方がむずかしい願いだよ」

 別の星の子が言った。

「忘れないようにするだけなら、ぎゅっと握ればいい。でも、握りしめすぎると、手が痛くなる。忘れすぎないようにするには、手を少し開いて、風を通さなくちゃいけない」

 幹夫は自分の手を見た。

 いつも母の記憶を握りしめているような気がしていた。握れば痛む。けれど放せば失う気がした。

「手を開いたら」

 幹夫は小さく聞いた。

「落としてしまわない?」

 星の子は、葉の上の露を指さした。

「露を見て」

 幹夫は露を見た。

 小さな水の粒が、若葉の先に乗っている。強く握ることもできず、閉じ込めることもできない。けれど露は、しばらくそこに留まり、星を映している。

「露は、星を握っていない」

 星の子は言った。

「でも、映している」

 幹夫は息を止めた。

 握らなくても、映せる。

 母の声も、そうなのだろうか。

 全部を昨日のまま握りしめなくても、心が澄んでいれば、ときどき映るのだろうか。新茶の香りの中に、湯気の白さの中に、父の黙った横顔の中に。

 星の子たちは、幹夫の短冊を茶の若葉の上へ置いた。

 すると、不思議なことが起きた。

 短冊は紙のままではなくなり、淡い緑の光となってほどけた。文字は小さな星の粒になり、葉の上の露へ一つずつ入っていく。

 ――お ――母 ――さ ――ん ――の ――声

 文字たちは露の中で光り、茶畑全体へ静かに広がった。

 幹夫は胸を押さえた。

「僕の願いが」

「茶の葉が預かったよ」

 星の子が言った。

「これから、香りにしてくれる」

「香りに?」

「うん。明日の朝、新茶の香りが少し深くなる。その中に、君の願いが入る」

 幹夫は泣きそうになった。

「お母さんに届く?」

 星の子たちは顔を見合わせた。

 一番小さな星が答えた。

「遠くのお母さんにも、少し届くかもしれない。でも、いちばん届くのは、幹夫の中にいるお母さん」

「僕の中に?」

「うん。忘れすぎないようにしたいなら、そこへも届けなくちゃ」

 幹夫は胸に手を当てた。

 そこには痛みがあった。

 母がいない痛み。 母を忘れていく怖さ。 短冊を笑われた恥ずかしさ。 でもその奥に、母がいたことの温かさもあった。

 星の子は言った。

「願いは、かなうというより、育つことがある」

「育つ?」

「茶の若葉みたいに。最初は小さくて、震えていて、露を落としそうで。でも夜を越えると、少し香りになる」

 幹夫は茶畑を見渡した。

 星祭りの灯が葉の上で揺れている。そこには幹夫の願いだけではなく、たくさんの願いがあるようだった。近所のおばあさんの亡くなった夫への願い。父が言えないまましまっている母への言葉。祖母が毎晩仏壇の前で祈っていること。茶の木自身の願い。霜が降りませんように。よい香りになりますように。誰かの疲れた胸へ届きますように。

 茶の葉の上の星祭りは、そういう願いを小さな露に映していた。

 そのとき、坂道の下から足音がした。

「幹夫」

 父の声だった。

 幹夫は振り返った。

 父が作業着の上に上着を羽織り、こちらへ歩いてきた。少し息を切らしている。心配して探しに来たのだ。

 幹夫が茶畑へ戻ると、星の子たちは葉の上へ隠れるように小さくなった。父には見えていないのかもしれない。

「こんな夜に、何をしている」

 父は言った。

 怒っているようで、けれどその奥には心配があった。

「ごめんなさい」

 幹夫は素直に言った。

「短冊を持ってきた」

「短冊?」

「新茶祭りの」

 父は少し眉を寄せた。

「学校で書いたのか」

「うん」

「何を書いた」

 幹夫は一瞬迷った。

 また笑われたらどうしようと思った。父にまで「変だ」と思われたら、胸の中の願いが小さく折れてしまう気がした。

 けれど葉の上の星たちが、露の中でかすかに光っていた。

 願いは、育つことがある。

 幹夫は深く息を吸った。

「お母さんの声を、忘れすぎませんようにって書いた」

 父は何も言わなかった。

 夜風が二人の間を通った。

 幹夫は続けた。

「忘れたくない。でも、全部をそのまま覚えているのも苦しくて。忘れすぎないくらいに、香りみたいに残ってほしいと思った」

 父は茶畑を見た。

 葉の上の露が星明かりを受けて光っている。父にも、その光は見えているはずだった。

「俺も」

 父は低い声で言った。

「母さんの声が遠くなることがある」

 幹夫は父を見上げた。

「お父さんも?」

「ああ」

 父は短く答えた。

「思い出そうとすると、うまく思い出せない。だが、ふいに戻ることもある。茶を蒸す匂いがした時とか、夜に風が変わった時とか、お前が母さんみたいなことを言った時とか」

 幹夫の胸が熱くなった。

「僕が?」

「そうだ」

 父は少しだけ困ったように笑った。

「今日みたいにな」

 幹夫は泣きそうになった。

 父の中にも母がいる。幹夫とは違う形で。父の沈黙の中に、父の畑を見る目の中に、母の声が時々戻っている。

 茶の葉の上の星祭りは、父の願いも照らしていたのだ。

「お父さん」

「なんだ」

「お母さんの声、今度戻ってきたら、少し教えて」

 父は黙った。

 それから、ゆっくり頷いた。

「少しずつなら」

 それだけで十分だった。

 幹夫の胸の中で、さっき露に溶けた短冊の文字が、もう一度光った気がした。

 父は茶畑を見渡した。

「今夜は、やけに露が光るな」

 幹夫は小さく笑った。

「星祭りだから」

 父は眉を寄せた。

「星祭り?」

「茶の葉の上の」

 父は困ったような顔をした。

 けれど笑わなかった。

「そうか」

 その「そうか」は、幹夫の世界を否定しない声だった。

 葉の上の星たちが、小さく鈴を鳴らした。

 ちりん。

 父はふと耳を澄ませたようだった。

「今、何か鳴ったか」

 幹夫は父を見た。

「聞こえた?」

「気のせいかもしれん」

「うん」

 幹夫は嬉しくなった。

「でも、聞こえたなら、たぶん星祭りの鈴だよ」

 父は何も言わなかった。

 ただ、茶畑の露をしばらく見つめていた。

 やがて東の空がほんの少し白みはじめた。

 星祭りの灯は、少しずつ薄れていく。露の中の小さな星たちも、朝の光に溶けるように見えなくなった。けれど幹夫は寂しくなかった。

 見えなくなることと、消えることは違う。

 祖母の声のように、母の声のように、新茶の香りのように、星祭りもまた形を変えて残るのだと思えた。

 朝になると、祖母が茶畑へ上ってきた。

 手には急須と魔法瓶を持っている。

「星祭りは終わったかい」

 祖母はそう言って、畑の端の石に布を敷いた。

 父は少し驚いた顔をした。

「祖母さんも知っているのか」

「茶畑の夜に、知らないことなんてないよ」

 祖母は笑った。

 湯呑みを三つ並べる。

 それから、いつものようにもう一つ、小さな湯呑みを置く。

 母の分だった。

 新茶の葉が急須に入り、湯が注がれる。白い湯気が朝の光に立ちのぼった。幹夫はその湯気を見つめた。昨夜、露に溶けた短冊の文字が、湯気になって空へ戻っていくように見えた。

 祖母が幹夫に湯呑みを渡した。

 幹夫は両手で包んだ。

 一口飲む。

 最初に、淡い苦みがあった。

 忘れてしまう怖さの苦み。笑われた痛みの苦み。父に願いを言う前の震えの苦み。

 けれどそのあと、甘みが戻ってきた。

 それは、星祭りのあとに茶の葉が預けてくれた、やわらかな甘みだった。

「どんな味だい」

 祖母が尋ねた。

 幹夫は少し考えた。

「願いが香りになった味」

 祖母は嬉しそうに目を細めた。

「それは、いい新茶だね」

 父は湯呑みを見つめ、ぽつりと言った。

「少し、母さんの淹れた茶に似ている」

 幹夫は父を見た。

 父も幹夫を見た。

 そして二人は、何も言わずに少しだけ笑った。

 その日の新茶祭りで、幹夫は新しい短冊を書いた。

 昨日の短冊は、もう茶畑の露に溶けてしまった。けれど寂しくはなかった。願いは紙を離れ、茶の葉に預けられたのだ。

 新しい短冊には、こう書いた。

 ――大切な声が、香りになって戻ってきますように。

 健太がそれを見て、首をかしげた。

「また不思議なこと書いてるな」

 幹夫の胸は少しだけ緊張した。

 けれど、昨日ほど痛まなかった。

「うん」

 幹夫は答えた。

「不思議だけど、本当のこと」

 健太は「ふうん」と言って、今度は笑わなかった。

 夕方、祭りが終わったあと、幹夫は一人で茶畑へ行った。

 空はまだ明るく、星は見えない。葉の上にも露はない。茶の葉の上の星祭りは、夜のものだ。

 けれど幹夫には、そこに祭りの名残があるように思えた。

 若葉が風に揺れる音。 茶畑の青い香り。 畝の向こうへ消えていく夕日。 胸の奥でまだ光っている緑の短冊。

 幹夫は若葉にそっと触れた。

「ありがとう」

 小さく言った。

 返事はなかった。

 でも、風が吹いた。

 茶の葉がさわさわと鳴った。

 それは、昨夜の星たちが、昼の葉の奥から小さく鈴を鳴らしてくれた音のようだった。

 幹夫は空を見上げた。

 まだ星はない。

 けれど、夜になれば現れる。見えないだけで、そこにある。

 母の声も、きっとそうだ。

 毎日聞こえるわけではない。思い出そうとしても遠い日がある。それでも、新茶の香りの中に、父の話の中に、祖母の湯気の中に、茶の葉の上の星祭りの中に、ふいに戻ってくる。

 忘れすぎない、という願いは、もう少し育ち始めていた。

 幹夫は胸に手を当てた。

 そこにはまだ痛みがある。

 けれどその痛みの中に、小さな星が混じっている。

 茶の葉の上の星祭りで、露に映った願いの星だ。

 それは強く輝く星ではなかった。 すぐに消えそうな、震える星だった。 けれど幹夫には、その小さな光で十分だった。

 夜になれば、また茶畑の葉の上に露が降りるだろう。

 そしてその露は、空の星を映すだろう。

 幹夫は思った。

 僕の心も、そんな露でいい。

 握りしめなくても、大切なものを映せる心でありたい。

 茶畑の向こうで、日が沈んだ。

 風は新茶の香りを運び、まだ見えない星たちが、空のどこかで夜の祭りの支度を始めているようだった。


 
 
 

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