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茶の葉の声

 日本平の朝は、海からではなく、茶畑の葉先から明けるのだと、幹夫は思っていた。

 静岡市清水区の坂道を上りきると、そこには幾筋もの茶の畝が、まだ眠たげな空気の中にやわらかく横たわっている。夜露をふくんだ若い葉は、薄い光を受けるたびに、ひとつひとつ小さな目を開くようにきらめいた。遠くには駿河湾が青とも銀ともつかぬ色で広がり、その向こうに、富士山が雲の薄衣をまとって静かに立っていた。

 幹夫は十一歳だった。背は同じ年の子より少し低く、声も大きいほうではなかった。だが、風の吹き方が変わるとすぐに気づいたし、空に浮かぶ雲の端がほどけるだけで胸の奥がざわめいた。母はよく、「幹夫は耳で聞くより、心で聞いてしまう子だね」と言った。その言葉がほめ言葉なのか、少し困った言葉なのか、幹夫にはまだわからなかった。

 その朝、幹夫は祖父の茶畑へ一人で来ていた。

 前の日、学校で些細なことがあった。図工の時間に描いた幹夫の絵を、隣の席の健太が笑ったのだ。

「茶畑がしゃべるわけないじゃん」

 幹夫の絵には、風に揺れる茶の葉のあいだから、細い文字のようなものが流れ出していた。茶の木が「おはよう」と言い、土が「急がなくていい」と返し、雲が「今日は少し泣きそうだ」とつぶやいている絵だった。

 幹夫はその場では笑い返した。けれど胸の中には、小石のようなものが沈んでいった。家に帰ってからも、それは消えなかった。夜、布団の中で目を閉じると、健太の声だけが何度も戻ってきた。

 茶畑がしゃべるわけないじゃん。

 たしかに、そうなのかもしれない。自分は変なのかもしれない。

 そう思うと、いつもはにぎやかに聞こえる雨どいの水音も、障子をなでる夜風も、急によそよそしく感じられた。

 だから幹夫は、夜明け前に家を抜け出した。祖父が大切にしている茶畑なら、何か答えてくれる気がしたのだ。

 畑の端に立つと、土の匂いがした。湿った、深い、あたたかい匂いだった。幹夫は畝と畝のあいだの細い道にしゃがみこみ、両手を膝にのせた。

「ねえ」

 小さく声を出した。

「ぼく、へんなのかな」

 茶の葉は黙っていた。

 ただ、朝の風が山のほうから下りてきて、幹夫の前髪をそっと持ち上げた。茶の木の表面に、細かな波が走った。幹夫にはそれが、たくさんの小さな背中が笑いながら身を寄せ合っているように見えた。

 ――変というのは、どちらを向いている言葉だろうね。

 ふいに、そんな声がした気がした。

 幹夫は顔を上げた。誰もいない。祖父の軽トラックも、まだ小屋のそばには停まっていなかった。

「だれ?」

 ――風だよ、とも言えるし、葉だよ、とも言える。君がそう聞いたなら、そうなのだろう。

 幹夫の胸がどきりとした。怖いというより、長く会えなかった友だちに呼び止められたような気持ちだった。

「茶畑って、ほんとにしゃべるの?」

 風は茶の畝をすべって、朝露を少しだけ揺らした。

 ――人間の言葉では、あまりしゃべらない。けれど、光が来れば光に返事をする。雨が降れば雨を受けとめる。根は土の暗さに耳をすませ、葉は空の高さを覚える。それを、君が言葉にしているだけだ。

 幹夫はゆっくり息を吸った。胸の奥に沈んでいた小石が、少しだけ軽くなった気がした。

「でも、みんなには聞こえないんだ」

 ――みんなが聞いていないだけかもしれない。

「聞いていない?」

 ――聞こえないものを、ないことにすると楽になる。けれど、聞こえないものを想像しようとすると、少し勇気がいる。

 幹夫は黙った。

 駿河湾のほうから、白い光がゆっくりと押し寄せてきた。畑の端に立つみかんの木の葉が、ぱっと明るくなり、蜘蛛の巣にかかった露が七色ににじんだ。富士山の輪郭も、さっきよりくっきり見えた。遠く清水の港のあたりに、小さな船の影が動いている。

 幹夫はその景色を見ながら、昨日の教室を思い出した。健太の笑い声。自分の絵を裏返したときの指先の熱さ。先生が「きれいな発想ね」と言ってくれたのに、それさえ信じられなくなったこと。

 幹夫は茶の葉に手を近づけた。触れる直前で止める。葉先の露が震えている。自分の心も、ちょうどその露のようだと思った。小さくて、すぐ落ちそうで、けれど朝日を受けると、思いがけないほど明るく光る。

「ぼく、笑われるのがこわい」

 言葉にしたとたん、喉の奥が熱くなった。

 ――それは、君の心が大切なものを持っている証拠だよ。

「大切なもの?」

 ――笑われても痛くないものなら、こわくはならない。君は、自分の中にある声を大切にしている。だから痛む。

 幹夫は目を伏せた。茶畑の緑が、まぶたの裏にまで広がるようだった。

「じゃあ、どうしたらいいの」

 風が少し強くなった。茶の葉たちは一斉に身を揺らし、畝の曲線が朝日に沿って輝いた。その揺れは、まるで緑色の海だった。波が寄せ、返し、そのたびに幹夫の胸の中へ静かな音が入ってくる。

 ――聞こえたものを、乱暴に隠さないこと。けれど、聞こえない人を責めないこと。

 幹夫はその言葉を胸の中で繰り返した。

 聞こえたものを、隠さない。聞こえない人を、責めない。

 それはむずかしいことのように思えた。けれど、茶の木だって、雨の日も、風の日も、暑い日も、ただここに根を張っている。空に向かって無理に叫ばず、土の中へ逃げもせず、葉を伸ばせるだけ伸ばしている。

 その姿が、幹夫には急に強く見えた。

 畑の向こうの小道から、誰かの足音がした。祖父だった。手ぬぐいを首にかけ、古い帽子をかぶっている。祖父は幹夫を見つけると、驚いた顔をしたが、すぐに笑った。

「なんだ、幹夫。こんな朝早くから茶の様子を見に来たのか」

 幹夫は立ち上がった。ズボンの膝に土がついていた。

「うん」

「茶はどう言ってた?」

 祖父は冗談のつもりで言ったのだろう。けれど幹夫は、その言葉に胸があたたかくなった。祖父は昔から、ときどきこういうことを言う。茶の葉が眠そうだとか、土が水を欲しがっているとか、風が刈り時を教えてくれるとか。

 幹夫は少し迷って、それから答えた。

「急がなくていいって」

 祖父は目を細めた。

「そうか。そりゃあ、いいことを言う茶だ」

 幹夫は笑った。昨日からはじめて、ほんとうに笑えた気がした。

 祖父と並んで畑を歩く。朝露が靴を濡らした。茶の葉の匂いが近くなった。摘まれる前の若葉には、まだ言葉になる前の夢のような香りがあった。幹夫はその香りを吸い込みながら、教室に戻ったときのことを考えた。

 健太にまた笑われるかもしれない。誰かに「変だ」と言われるかもしれない。けれど、自分の絵を裏返すのはやめようと思った。茶畑がしゃべる絵を、もう一度描こうと思った。風が葉にさわる音を、雲が富士山の肩に休む様子を、土の中で根が小さく手をつなぐところを、描いてみようと思った。

 その絵を見て、誰か一人でも立ち止まるかもしれない。

 聞こえないと思っていた声に、耳をすますかもしれない。

 幹夫は茶畑の真ん中で、ふと立ち止まった。

 朝日はもう、畝のすべてを照らしていた。日本平の斜面に広がる茶の緑は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。その緑の一枚一枚が、幹夫には小さな手紙のように見えた。まだ読めない文字で書かれているけれど、いつかきっと読めるようになる手紙。

 風が吹いた。

 茶の葉がさわさわと鳴った。

 幹夫は目を閉じ、その音に耳をすませた。もう、答えを急がなかった。胸の中の小石は消えてはいなかったが、そのまわりにやわらかな土がかぶさっていくようだった。

 少年はゆっくりと目を開けた。

 そして、誰にも聞こえないくらいの声で、しかし自分にははっきり聞こえる声で言った。

「ぼく、描くよ」

 茶畑は返事をした。

 言葉ではなかった。

 けれど、朝の光を受けていっせいに輝いたその葉の揺れは、幹夫にとって、どんな言葉よりもたしかな「うん」だった。

 
 
 

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