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茶摘み娘と銀河の切符

 五月の茶畑には、昼でも夜でもない時間がある。

 夕暮れが山の端に沈みきらず、けれど昼のまぶしさも失われて、茶の若葉だけがまだ内側から淡く光っているような時刻だった。幹夫はその時間が好きだった。風が吹くと、畝は緑の波となって揺れ、葉の先に残った光が、音もなくほどけていく。

 そのころの茶畑は、どこか遠い駅のように見えた。

 誰かを待っている。 けれど、誰を待っているのかは言わない。

 幹夫は十二歳だった。

 村の茶農家の家に生まれ、茶の香りの中で育った。五月になれば、家の柱にも畳にも父の作業着にも、摘みたての若葉の青い匂いがしみこんだ。幹夫はその匂いを吸うたび、胸の奥が少し痛くなった。

 それは悲しみに似ていた。 けれど、悲しみだけではなかった。

 母が生きていたころ、新茶の季節になると、家の中は今よりずっと明るかった。母は白い手ぬぐいを頬の下で結び、籠を背負って茶畑へ出た。母の指はよく働いた。けれど若葉を摘むときだけは、まるで眠っている赤ん坊に触れるようにやさしかった。

「幹夫」

 母はよく言った。

「茶の若葉はね、春が書いた小さな切符なのよ」

「切符?」

「そう。冬を越えて、春へ来た切符。摘まれてお茶になると、今度は誰かの胸の中へ旅をするの」

 母の言葉は、いつも少し不思議だった。

 けれど幹夫は、その不思議さが好きだった。母が言うと、茶畑の畝は線路になり、若葉は切符になり、湯気は遠い駅へ向かう白い煙になる。世界はいつもより少し広くなった。

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪は降らなかった。ただ冷たい風だけが吹いた。葬儀の日、線香の煙が部屋の中に細く重なり、幹夫はその煙を見ながら、これはどこへ行くのだろうと思った。母のところへ行くのだろうか。それとも天井のあたりで消えてしまうのだろうか。

 泣けなかった。

 泣けば母が本当に遠くへ行ってしまう気がしたからだった。

 それから幹夫の胸の中には、言えなかった言葉がたくさん残った。ありがとう。さようなら。もっと一緒に茶畑へ行きたかった。お母さんの声を忘れたくない。そんな言葉たちは、声にならないまま胸の奥で折り畳まれ、古い切符のようにしまわれていた。

 その年の五月、村では小さな茶まつりが開かれることになった。

 新茶の仕上がりを祝う祭りで、子どもたちは茶摘み唄を歌い、村の若い娘たちは茶摘み衣装を着て、観光客に新茶を振る舞う。幹夫の学校でも、祭りの手伝いをすることになった。

 放課後、先生が言った。

「今年は、昔の茶摘み娘の写真も展示します。みんなのお家に古い写真があれば、持ってきてください」

 茶摘み娘。

 その言葉を聞いた瞬間、幹夫の胸がかすかに鳴った。

 幹夫の家にも、古い写真がある。

 母が若いころ、茶摘み娘の衣装を着て写っている写真だった。白い手ぬぐい、紺絣の着物、赤い襷、腰には小さな茶摘み籠。母は少し照れたように笑っていた。幹夫が知っている母より若く、まるで五月そのものから出てきた人のようだった。

 その夜、幹夫は祖母に写真のことを尋ねた。

「お母さんの茶摘み娘の写真、まだある?」

 祖母は針仕事の手を止めた。

「あるよ。持っていくのかい」

「学校で、展示するって」

「そうかい」

 祖母は押し入れの奥から古い箱を出した。桐の箱だった。中には写真や手紙、母が使っていた小物が丁寧にしまわれていた。

 祖母が一枚の写真を取り出した。

 母がいた。

 若い母が、茶畑の中で笑っている。背後には五月の畝が波のように続き、遠くに山が霞んでいた。幹夫は写真を両手で受け取った。

 そのとき、写真の裏から何かが滑り落ちた。

 小さな紙片だった。

 拾い上げると、薄い緑色の古い切符のようだった。端は少し黄ばんでいる。手書きの文字があった。

 ――銀河ゆき ――片道 ――ただし、帰り道は心の中にあり

 幹夫は息を止めた。

「おばあちゃん、これ」

 祖母は紙片を見て、懐かしそうに目を細めた。

「まあ、まだ残っていたのかい」

「知ってるの?」

「母さんが娘のころに作ったものだよ」

「お母さんが?」

「茶まつりの夜、友だちと遊びで作ったんだろうね。あの子は昔から、切符だの星だの、そういうものが好きだったから」

 幹夫は緑の切符を見つめた。

 母が作った銀河の切符。

 紙は薄く、古びていた。けれど指で触れると、ほんのかすかに新茶の香りがするような気がした。

「本当に、銀河へ行けるのかな」

 幹夫が小さく言うと、祖母は笑わなかった。

「行けるかもしれないね」

「本当に?」

「ただし、銀河は空の上だけにあるわけじゃないよ」

「どこにあるの?」

 祖母は写真の母を見た。

「人が忘れられないものを、心の奥でつないでいる場所にもある」

 幹夫には、その意味がすぐには分からなかった。

 けれど切符を持つ指先が、少し温かくなった。

 翌日、幹夫は母の写真を学校へ持っていった。

 先生は写真を見ると、優しく言った。

「きれいなお母さんね」

 幹夫はうつむいた。

 嬉しかった。けれど、胸のどこかが痛んだ。母を褒められると、母がもういないことまで一緒に浮かび上がる。美しいと言われるほど、その美しさが過去のものになってしまったようで苦しかった。

 写真は茶まつりの展示用に預けた。

 けれど、銀河の切符だけは幹夫のポケットにしまった。誰にも見せたくなかった。それは母の写真より、もっと内側のもののように思えたからだ。

 茶まつりの前夜、幹夫は眠れなかった。

 窓の外には星があった。村は暗く、遠くの製茶場の音も止んでいた。茶畑からは新茶の香りがかすかに流れてくる。幹夫は布団の中で、ポケットから銀河の切符を取り出した。

 月明かりに透かすと、紙の繊維が細く見えた。

 まるで茶の葉脈のようだった。

 ――銀河ゆき。 ――片道。 ――ただし、帰り道は心の中にあり。

 幹夫は胸の奥がざわめくのを感じた。

 片道という言葉が怖かった。

 母も、片道の切符でどこかへ行ってしまったのではないか。帰り道を持たずに。幹夫の声も届かない遠い場所へ。

 けれど、その下にはこう書いてある。

 帰り道は心の中にあり。

 幹夫は上着を羽織り、切符を握って家を出た。

 夜の茶畑は静かだった。

 山裾に続く畝は黒い波となり、葉先の露だけが星明かりを受けて光っている。空には銀河が淡く流れていた。はっきりした白い川ではなく、夜の奥に薄く息づく光の帯だった。

 幹夫は茶畑の端に立った。

 ポケットの切符が、かすかに温かい。

「お母さん」

 呼んでみた。

 返事はない。

 けれど風が吹き、茶の葉がさわさわと揺れた。

 そのとき、畝の向こうに人影が見えた。

 白い手ぬぐい。紺絣の着物。赤い襷。腰には茶摘み籠。

 茶摘み娘だった。

 幹夫は息をのんだ。

 最初、母かと思った。

 けれど違った。年は十七、八ほどに見える。母の写真の中の姿に似ているが、顔立ちは少し違う。夜の光を受けて、輪郭が薄く、茶の湯気のように揺れていた。若いのに、目の奥はとても古いものを知っているようだった。

「切符を持っているのね」

 茶摘み娘は言った。

 声は、茶摘み唄の遠い節のように聞こえた。

 幹夫は切符を握りしめた。

「あなたは、誰?」

「五月の畑で切符を切る者」

「駅員さん?」

 茶摘み娘は少し笑った。

「茶畑では、茶摘み娘が切符を切るのよ」

 幹夫は言葉を失った。

 茶摘み娘は、畝の間をゆっくり歩いて近づいてきた。彼女の足元では、露が小さく光った。触れているはずなのに、露は落ちなかった。

「その切符は、誰から?」

「お母さんが作ったもの」

「そう」

 茶摘み娘は写真の母を思い出すように、目を伏せた。

「あの人は、よく空を見ていたわ」

 幹夫の胸が強く鳴った。

「お母さんを知っているの?」

「茶畑は知っている。ここで歌った声も、摘んだ若葉も、飲み込んだ涙も」

 茶摘み娘は幹夫の手元を見た。

「その切符で、どこへ行きたいの?」

 幹夫はすぐに答えられなかった。

 母に会いたい、と言いたかった。

 けれど、それを言うのは怖かった。もし会えなかったら。もし会えても、また別れなければならなかったら。胸の奥の傷が、もう一度開いてしまう。

「分からない」

 幹夫は言った。

「でも、聞きたいことがある」

「誰に?」

「お母さんに」

 茶摘み娘は静かに頷いた。

「何を?」

 幹夫の喉が詰まった。

 風が茶畑を渡った。

 幹夫はやっと言った。

「僕は、忘れてしまうのかなって」

 茶摘み娘は黙っていた。

「お母さんの声とか、手の温かさとか、笑い方とか。忘れたくないのに、少しずつ薄くなる。思い出そうとすると、かえって遠くなる。僕は、それが怖い」

 言葉にすると、涙が出そうになった。

「忘れたくないから、ずっと胸にしまっている。でも、しまっていると苦しい」

 茶摘み娘は、幹夫の切符にそっと指を触れた。

 その瞬間、紙片が淡く光った。

「銀河の改札は、あちら」

 彼女は畝の奥を指さした。

 そこには、昼間にはなかった小さな小屋があった。茶畑の中に建つ古い改札口のようだった。木の柱に、星明かりが染みこんでいる。入口には「五月野」と書かれた札が掛かっていた。

 幹夫は茶摘み娘と並んで歩いた。

 畝と畝の間の道は、いつもより長かった。茶の葉は夜露を抱き、星の光を映している。幹夫には、自分が茶畑の中を歩いているのか、銀河の端を歩いているのか分からなくなった。

 改札口に着くと、茶摘み娘は手を差し出した。

「切符を」

 幹夫は緑の切符を渡した。

 茶摘み娘は小さな鋏を取り出した。鋏の刃は、星の光でできているようだった。

 ぱちん。

 静かな音がした。

 切符の端に、小さな星形の穴があいた。

 その穴から、新茶の香りがふわりと立った。

「これで行けるの?」

 幹夫が尋ねると、茶摘み娘は首を振った。

「行くというより、開くの」

「何が?」

「しまっていた時間が」

 改札口の向こうに、光の道が現れた。

 それは線路ではなかった。茶畑の畝がそのまま空へ伸び、銀河へ続いているように見えた。足元は茶の葉の香りで満ち、頭上には星が流れていた。

「戻れる?」

 幹夫は不安になって尋ねた。

 茶摘み娘は、切符の裏を示した。

 ――帰り道は心の中にあり。

「戻る道をなくすのは、帰りたい場所を見失った時だけ」

「僕には、帰りたい場所があるのかな」

「あるわ」

 茶摘み娘は言った。

「あなたが怖がっている場所よ」

 幹夫には分からなかった。

 けれど彼女の声がやさしかったので、歩き出した。

 光の道を進むと、茶畑の香りが少しずつ変わっていった。

 最初は新茶の青い匂いだった。やがて、母の手ぬぐいの匂いに変わった。日なたで乾いた布の匂い、湯呑みに残る茶の匂い、台所の味噌汁の湯気の匂い。それらが幹夫の胸に次々と入ってくる。

 気づくと、幹夫は幼い日の茶畑に立っていた。

 空は明るく、母が隣にいた。

 若い母だった。白い手ぬぐいを結び、籠を背負い、幹夫の小さな手を引いている。幹夫は自分が幼い子どもになったような気もしたし、十二歳のままそれを見ているような気もした。

「ほら、幹夫」

 母が言った。

「若葉は、摘む前に挨拶するのよ」

「こんにちはって?」

「そう。あるいは、ありがとうって」

 幼い幹夫が笑った。

「まだ飲んでないのに?」

「飲む前から、ありがとうは始まっているの」

 母はそう言って、若葉を一枚摘んだ。

 その指のやさしさに、十二歳の幹夫は胸を締めつけられた。

 覚えている。

 でも、忘れていた。

 完全に忘れていたわけではない。けれど、こんな母の声の調子や、手ぬぐいの結び目や、若葉に触れる指の角度までは思い出せなくなっていた。

 涙が出た。

「お母さん」

 幹夫は呼んだ。

 母は振り返った。

 不思議なことに、幼い幹夫ではなく、十二歳の幹夫を見た。

「来たのね」

「うん」

「切符を使ったの?」

 幹夫は頷いた。

「聞きたいことがある」

「なあに」

「僕、お母さんを忘れていくの?」

 母は茶畑を見た。

 風が吹き、若葉が光った。

「忘れることと、消えることは違うわ」

 母は静かに言った。

「どう違うの?」

「忘れるというのは、心が壊れないように、少し遠くへ置くこともあるの。毎日ずっと抱えていたら、重くて歩けないでしょう」

 幹夫は涙を拭った。

「でも、遠くへ置いたら、お母さんがいなくなる」

「いなくならないわ」

 母は微笑んだ。

「お茶の葉も、摘まれると畑からいなくなる。でも香りになるでしょう。湯呑みに入って、誰かの胸を温めるでしょう。姿が変わっただけ」

 幹夫は黙った。

「私も、幹夫の中で少しずつ形を変えるの」

「形を?」

「声として思い出せない日が来ても、誰かにやさしく触れる手つきになったり、寂しい人に気づく目になったり、茶の香りを大切に吸い込む心になったりする」

 母の言葉は、茶畑の風に溶けながらも、はっきり幹夫に届いた。

「忘れるのが怖いのは、愛していた証拠よ。でも、怖がりすぎて心を閉じると、香りまで閉じ込めてしまう」

「香りまで」

「そう。香りは、外へ流れてこそ香りなの」

 幹夫は母の顔を見た。

「僕、泣けなかった」

「知っているわ」

「さようならも言えなかった」

「それも知っている」

「怒ってる?」

 母は少し驚いた顔をして、それからやさしく笑った。

「幹夫が泣けなかったのは、私を大切に思っていたからでしょう」

 幹夫の涙が、あとからあとからこぼれた。

「お母さん」

「うん」

「ありがとう」

 母は頷いた。

「うん」

「さようなら」

 母は少しだけ目を伏せた。

 けれど悲しそうではなかった。

「さようならは、閉じる言葉じゃないのよ」

「違うの?」

「また別の形で会うための切符よ」

 母は幹夫の手に何かを握らせた。

 見ると、小さな茶の若葉だった。

 けれどそれは本物の葉というより、光でできた葉だった。葉脈が銀河のように淡く流れている。

「帰りなさい、幹夫」

「まだいたい」

「帰る場所があるでしょう」

 幹夫は胸が痛んだ。

 父。 祖母。 茶畑。 母のいない家。 けれど母がいたことの残る家。

 それが、帰る場所だった。

 茶畑の景色が少しずつ薄れていく。

 母の姿も光の中で遠くなった。

「お母さん!」

 幹夫は叫んだ。

 母は最後に言った。

「心の切符をなくさないで」

 次の瞬間、幹夫は改札口の前に立っていた。

 茶摘み娘がそこにいた。

「戻ったのね」

 幹夫は泣いていた。けれど胸の奥は、以前より少し温かかった。

「会えた?」

 茶摘み娘が尋ねた。

「うん」

「聞けた?」

「うん」

 幹夫は手の中を見た。

 母からもらった光の若葉は、もうなかった。かわりに、切符の半券が残っていた。緑の紙片の端には星形の穴があき、そこから新茶の香りがしていた。

「これは?」

「帰りの切符」

「片道じゃなかったの?」

 茶摘み娘は微笑んだ。

「銀河へは片道。けれど戻ってきた人の心には、いつも半券が残るの」

「何のために?」

「忘れないためではなく、思い出し方を変えるために」

 幹夫は半券を胸に当てた。

「あなたは、お母さんなの?」

 ずっと聞きたかったことを、幹夫は尋ねた。

 茶摘み娘は首を振った。

「私はあなたのお母さんではないわ」

「じゃあ、誰?」

「五月に残った茶摘み娘たちの声。昔ここで歌った人、笑った人、泣いた人、恋をした人、別れた人。みんなの少しずつが、茶の香りになってここにいる」

 幹夫は茶畑を見た。

 若葉が夜風に揺れている。

 その一枚一枚の中に、たくさんの人の時間がしまわれている気がした。

「お母さんも、その中にいる?」

「いるわ」

 茶摘み娘は言った。

「でも、一番近くには、あなたの中にいる」

 幹夫は頷いた。

 空の銀河は少しずつ薄れていた。夜明けが近いのだ。

「もう行かないと」

 茶摘み娘は言った。

「どこへ?」

「茶まつりの朝へ。今日も誰かが、写真の前で懐かしい人を思い出すから」

 幹夫は半券を握った。

「また会える?」

「五月の茶畑で、切符を持っていれば」

「切符は、これ?」

「それも切符。涙も切符。新茶の香りも切符。誰かに言えた言葉も切符」

 茶摘み娘の姿が薄くなりはじめた。

「幹夫、切符は遠くへ行くためだけのものではないの。帰ってくるためにもあるのよ」

 そう言って、彼女は茶畑の朝靄の中へ溶けた。

 幹夫はしばらくその場に立っていた。

 ポケットの中には、星形の穴があいた半券があった。頬には涙の跡があった。空は少しずつ白み、銀河は見えなくなっていく。茶畑の露が朝の光を受けて、一斉に小さく光った。

 家へ戻ると、父が玄関の前に立っていた。

 心配そうな顔だった。

「どこへ行っていた」

 幹夫は一瞬、言葉に迷った。

 銀河へ行っていた、と言ったら父は困るだろう。茶摘み娘に会ったと言ったら、夢だと思われるかもしれない。

 けれど嘘はつきたくなかった。

「茶畑」

 幹夫は言った。

「お母さんの切符を持って」

 父の表情が変わった。

「切符?」

 幹夫は半券を出した。

 父はそれを見た。星形の穴があいた緑の紙片。父の目が少し揺れた。

「これ、まだあったのか」

「お父さんも知ってるの?」

「母さんが、昔見せてくれた」

 父は低い声で言った。

「銀河へ行く切符だと笑っていた」

 幹夫は父を見た。

「お父さんは、笑った?」

「笑った」

 父は少し苦い顔をした。

「でも、本当は少し羨ましかった。母さんには、俺には見えない駅が見えている気がした」

 幹夫の胸が静かに震えた。

 父も、母の世界に入りたかったのかもしれない。

 けれど入り方が分からなかったのだ。

「お父さん」

「なんだ」

「お母さんは、忘れることと消えることは違うって言ってた」

 父は黙った。

「声を忘れそうになっても、やさしく触れる手つきとか、寂しい人に気づく目とか、そういう形で残るって」

 父の顔が少し歪んだ。

 幹夫は初めて、父が泣くのではないかと思った。

 しかし父は涙をこぼさなかった。ただ深く息を吸い、幹夫の頭に手を置いた。

「そうか」

 父は言った。

「母さんらしいな」

 幹夫は頷いた。

「僕、さようならを言えた気がする」

 父の手が、少し重くなった。

「そうか」

 今度の「そうか」は、父自身の胸にも届いているようだった。

 その日の茶まつりで、母の写真は公民館の壁に飾られた。

 若い母は、茶摘み娘の姿で笑っていた。その前で立ち止まる人が何人もいた。

「懐かしいねえ」

「よく歌っていたよね」

「手が早いのに、葉を傷めない人だった」

 そんな声が聞こえるたび、幹夫の胸は痛んだ。

 けれど、今までのように痛みだけではなかった。母を知っている人たちの中にも、母が少しずつ残っている。そのことが分かったからだった。

 母の写真の下に、幹夫は小さな紙を置いた。

 銀河の切符そのものではない。あれは胸ポケットにしまっていた。代わりに、昨夜のことを思い出しながら、幹夫が書いた言葉だった。

 ――茶摘み娘は、若葉を摘む人であり、思い出を香りに変える人でもあります。 ――新茶の香りは、遠くへ行った人から届く切符のようです。 ――それを受け取ると、私たちは少しだけ、会いたかった人のいる場所へ行けます。 ――そしてまた、今いる場所へ帰ってきます。

 先生はそれを読んで、何も言わずに微笑んだ。

 父も、少し離れたところでその紙を読んでいた。

 祖母は母の写真の前に新茶を供えた。

 湯気が白く立った。

 幹夫はその湯気を見て、昨夜の改札口を思い出した。茶摘み娘の星の鋏。銀河へ続く畝。母の声。帰り道は心の中にあり。

 夕方、祭りが終わるころ、幹夫はひとりで茶畑へ行った。

 西日が茶の畝を金色に染めていた。昼と夜のあいだの時間だった。幹夫は胸ポケットから半券を取り出した。

 星形の穴から、向こうの夕空が見えた。

 小さな穴なのに、そこから世界が少し違って見えた。

 幹夫は思った。

 切符は、遠くへ行くためだけにあるのではない。

 失ったものへ向かうために。 思い出の中を通るために。 そして、もう一度いまの場所へ帰ってくるためにある。

 幹夫は茶の若葉にそっと触れた。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど寂しくはなかった。

 若葉が風に揺れた。 新茶の香りが胸に入った。 遠く、まだ見えない銀河が夜を待っていた。

 幹夫は半券を胸にしまった。

 そこには母へ続く道と、父や祖母のいる家へ戻る道が、どちらも折り畳まれているようだった。

 茶摘み娘と銀河の切符。

 それは、幹夫だけが見た夢だったのかもしれない。

 けれどその夢は、朝になっても消えなかった。父の沈黙を少し柔らかくし、母の写真を少し近くし、幹夫の胸の中で凍っていた言葉を少しずつ香りに変えた。

 夕風が吹いた。

 茶畑は緑の波となって揺れた。

 幹夫はその波の向こうに、白い手ぬぐいの茶摘み娘が一瞬だけ立っているような気がした。彼女は小さく手を振り、やがて光の中へ溶けた。

 幹夫も、そっと手を振った。

 そして家へ向かって歩き出した。

 胸の中に、星形の穴があいた小さな切符を抱きながら。


 
 
 

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