茶畑と五月の銀河
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 9分

五月の茶畑は、ほかの月よりも少し若い息をしていた。
丘の斜面に沿って、茶の畝が幾筋も並んでいる。冬を越え、春の雨を吸い、ようやく伸びた新芽たちは、まだ深い緑になりきっていなかった。光を受けると、葉の先がやわらかく透けて、まるで生まれたばかりの言葉がそこに宿っているように見えた。
幹夫少年は、農道の端に立っていた。
夕方の空は、まだ明るさを残していた。町のほうからは、車の音や、遠くの犬の声がかすかに届く。けれど茶畑の中に入ると、それらはすぐに薄くなり、葉のこすれる音だけが近くなる。
さわ。 さわ。
茶葉が風に揺れる音は、小さな返事のようだった。
幹夫は、その音を聞きながら、今日の教室を思い出していた。
国語の時間、先生が「五月らしいもの」を一つずつ挙げてくださいと言った。
友だちは、こいのぼり、若葉、連休、風、柏餅、田植え、と次々に言った。
幹夫は、自分の番が来るまで、窓の外を見ていた。校庭の端の木が風に揺れていた。葉の色は、まだ固くなりきらない若い緑だった。その奥に、幹夫は茶畑の新芽を思い出していた。
幹夫の番になった時、口から出たのは、
「五月の銀河」
という言葉だった。
教室が少し静かになった。
先生は、少し驚いた顔をしたあと、「きれいな言葉ですね」と言った。
でも、後ろの席で誰かが小さく笑った。
「五月に銀河って、夜の話じゃん」
たしかにそうかもしれない。
五月らしいものを言うなら、もっとわかりやすいものがあったはずだ。新緑とか、風とか、茶摘みとか。
けれど幹夫には、五月の茶畑を見ると、どうしても銀河を思ってしまうのだった。
夜空に流れる銀河ではない。
新芽の先に降りた光。 茶の畝のうねり。 湯気の中へほどけていく若い香り。 言葉になりきらない気持ちが、細かい星のように胸の中を流れていく感じ。
それを、幹夫は「五月の銀河」としか呼べなかった。
でも、笑われたあと、その言葉は胸の奥で小さく縮こまってしまった。
言わなければよかったのだろうか。
そう思いながら、幹夫は放課後、茶畑へ来たのだった。
夕暮れが深まっていく。
茶畑の緑は、少しずつ夜の色を含みはじめた。けれど五月の新芽だけは、暗くなってもどこか内側から明るい。葉の縁に残った昼の光が、まだ消えずにいるようだった。
その時、一枚の茶葉の上で、小さな白い点が光った。
露かと思った。
けれど、まだ露が降りるには少し早い。幹夫が近づくと、その白い点は、ふるりと震えた。
次に、隣の葉が光った。
また隣の葉も。
点々と光が増えていく。
それは、茶の畝に沿って、細い川のように流れはじめた。
幹夫は息をのんだ。
茶畑の上に、銀河が生まれていた。
空ではなく、葉の上に。
五月の茶畑の新芽が、小さな星をひとつずつ灯しながら、丘の斜面に銀色の帯を描いていた。
「やっと見に来たのね」
声がした。
幹夫が振り向くと、畝の向こうに、一人の少女が立っていた。
幹夫より少し年上に見える。白い手ぬぐいを頭に巻き、淡い緑の作業着を着ている。背中には竹の籠を負っていた。けれど籠の中に入っているのは茶葉ではなかった。小さな星の粒が、いくつも静かに光っていた。
少女は、茶畑に生まれた銀河を見下ろしていた。
「これは……何?」
幹夫が聞くと、少女は微笑んだ。
「五月の銀河」
幹夫は胸がどきりとした。
「その言葉、ぼく、今日言った」
「知ってる」
少女は、茶葉の星をひとつ指でそっとすくった。
「言ったあと、笑われて、少ししまいこんだでしょう。その言葉が、ここへ帰ってきたの」
「帰ってきた?」
「五月の茶畑は、言葉になりかけたものを受け止めるのが得意なの。新芽と同じだから。まだやわらかくて、まだ傷つきやすくて、でもこれから香りになるもの」
幹夫は、茶葉の上の銀河を見つめた。
自分が教室で言った言葉が、ここに戻ってきた。
そう思うと、胸の奥の縮こまったところが少しだけ温かくなった。
少女は畝のあいだを歩き出した。
「来て。五月の銀河は、夜が深くなる前に読まないと消えてしまう」
「読む?」
「星のひとつひとつに、まだ言葉になりきっていない気持ちが入っているの」
幹夫は、少女のあとを追った。
茶葉を踏まないように、畝の間をそっと歩く。足もとの土はやわらかく、昼の熱を少しだけ残していた。葉の星は、幹夫の近くで小さく揺れた。
少女は最初の星を指さした。
「これは、幹夫の星」
幹夫が顔を近づけると、小さな星の中に教室が映った。
先生の声。 窓から入る五月の風。 幹夫が言った「五月の銀河」。 それから、小さな笑い声。
幹夫の胸が少し痛んだ。
「やっぱり、変だったのかな」
そう言うと、少女は首を横に振った。
「変な言葉ではないよ。ただ、まだ開いたばかりの葉みたいな言葉だったの。強い光に当たると、少ししおれる。だから、ここで夜の水をあげる」
少女は、近くの茶葉に宿った小さな水滴をすくい、その星へそっと落とした。
すると、星の中の笑い声が少し遠くなり、代わりに茶畑の風景が浮かんだ。
五月の新芽。 細い葉脈。 畝のうねり。 丘を渡る風。 夜になって、葉の先に現れる光の帯。
幹夫は、小さく言った。
「ぼくは、ほんとうにそう見えたんだ」
星が明るくなった。
少女はうなずいた。
「それでいいの。見えたものを、すぐ捨てなくていい」
幹夫の目に、少し涙が浮かんだ。
捨てなくていい。
その言葉は、幹夫がずっと欲しかったものだった。
次の星には、別の景色が入っていた。
さっき笑った子の顔だった。
幹夫は少し身構えた。けれど星の中のその子は、意地悪な顔をしていなかった。ただ、少し困ったように笑っていた。
少女が言った。
「その子も、ほんとうは言葉が見つからなかったのかもしれない」
「言葉が?」
「自分にわからないものを聞いた時、人は笑ってしまうことがある。笑えば、わからなさを隠せるから」
幹夫は黙った。
その子が悪くないと言われると、自分の痛みがなかったことにされるようで嫌だった。けれど、悪いと決めつけると、その子の困った笑いが見えなくなる。
幹夫は、星の中の顔をじっと見た。
「でも、ぼくは少し痛かった」
そう言うと、星は静かにまたたいた。
少女は言った。
「それも、本当」
幹夫は、少し驚いた。
相手が悪気なく笑ったこと。 自分が痛かったこと。
その二つが、同じ星の中で並んでいた。
どちらかを消さなくてもよいのだと思うと、胸の中の結び目が少しゆるんだ。
五月の銀河は、茶畑の奥へ続いていた。
幹夫と少女は、星をひとつずつ読んでいった。
ある星には、新茶を摘む手が映っていた。
――若い葉を傷つけませんように。
ある星には、湯呑みを両手で包む老人の姿があった。
――今年もこの香りを飲めました。
ある星には、消しゴムで消されたノートの文字が浮かんでいた。
――ほんとうは、きれいだと思っていた。
幹夫は、ひとつひとつを胸の中で受け取った。
五月の銀河は、空の遠い星だけでできているのではなかった。 茶葉の新しい香り。 言えなかった言葉。 笑われて小さくなった気持ち。 それでも消えずに残った光。
それらが集まって、茶畑の上に流れているのだった。
やがて、丘のいちばん高いところへ着いた。
そこには、ひときわ大きな茶葉があった。
新芽ではなく、少し古い葉だった。厚みがあり、深い緑をしている。その葉の上に、大きな銀色の星がひとつ乗っていた。
少女は言った。
「これは、茶畑の星」
幹夫は、その星を覗き込んだ。
中には、茶畑の一年が映っていた。
冬の寒さ。 春の雨。 五月の新芽。 夏の強い日差し。 秋の静けさ。 茶を摘む手。 茶を揉む手。 お茶を飲む人の息。
そして、茶畑の声が聞こえた。
――若い葉ばかりを見て、古い葉を忘れないでください。
幹夫は、胸の奥でその声を聞いた。
――新しい言葉は、古い沈黙から生まれます。五月の香りは、冬の暗さを越えて来ます。やわらかなものは、見えない時間に支えられているのです。
幹夫は、足もとの土を見た。
自分が今日言った「五月の銀河」も、突然生まれた言葉ではなかったのかもしれない。
これまで見てきた茶葉の露。 湯呑みの湯気。 笑われてしまった小さな美しさ。 言えずに飲み込んだいくつもの言葉。
それらが胸の中で長く眠っていて、今日ふいに芽を出したのだ。
そう思うと、その言葉が少し大切に思えた。
幹夫は茶畑の星に向かって言った。
「忘れません。新しい言葉の下に、古い時間があることを」
大きな星は静かに明るくなり、葉の中へ沈んでいった。
茶畑全体が、さわ、と鳴った。
東の空が少し白みはじめていた。
少女の姿も、夜明けの光の中で薄れていく。
「もう行くの?」
幹夫が聞くと、少女はうなずいた。
「五月の銀河は、朝になると新茶の香りに変わるから」
「また会える?」
「茶畑の新芽に、言葉になりきらない光を見つけた夜なら」
少女は微笑んだ。
「それから、幹夫が自分の言葉を笑い声から守りたいと思った時にも」
「守れるかな」
幹夫が聞くと、少女はやさしく首を傾けた。
「強く守らなくていいよ。新芽みたいに、手のひらでそっと覆うだけでいい」
そう言って、少女は茶葉の光に溶けた。
朝が来た。
茶畑は、いつもの茶畑に戻っていた。
星の銀河はもう見えない。けれど、新芽の先には朝露が光っていた。幹夫には、その露の中に昨夜の星が少しだけ残っているように思えた。
家に帰ると、母が新茶を淹れてくれた。
「五月だからね」
母はそう言って湯呑みを置いた。
湯気が、白く細く立ちのぼる。
幹夫は、それを急がず見た。
湯気の中に、茶畑の銀河が一瞬だけ見えた気がした。
お茶を飲むと、若い苦みがあった。
そのあとに、青い甘みが来た。
胸の奥で、「五月の銀河」という言葉が、もう一度そっと開いた。
学校へ行くと、昨日笑った子が、休み時間に幹夫のところへ来た。
「昨日の、五月の銀河ってさ」
幹夫の胸が少し固くなった。
その子は、少し照れたように言った。
「どういう意味だったの?」
幹夫はすぐには答えられなかった。
でも、逃げなかった。
新芽を手のひらでそっと覆うように、自分の言葉を胸の中で少し温めた。
そして言った。
「茶畑の新芽が、夜になると星みたいに見えるんだ。畝が銀河みたいに続いていて……五月は、まだ若い光が流れているみたいで」
その子は、少し黙った。
「へえ」
それだけだった。
でも、笑わなかった。
幹夫は、それだけで十分だと思った。
言葉がすべて伝わったわけではない。 けれど、少しだけ外へ出た。
踏みつけられず、消されず、新芽のまま風に触れた。
その日の帰り道、幹夫は空を見上げた。
昼の空に銀河は見えない。
けれど幹夫は知っていた。
見えないところで、五月の銀河は茶畑の中を流れている。 新茶の香りの中に、言葉になりきらない光がめぐっている。 そして自分の胸の中にも、まだ若い言葉が、静かに葉を開いている。
幹夫少年は、小さく息を吸った。
五月の風に、ほんの少しだけ新茶の香りがした。





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