top of page

茶畑と五月の銀河


五月の茶畑は、ほかの月よりも少し若い息をしていた。

 丘の斜面に沿って、茶の畝が幾筋も並んでいる。冬を越え、春の雨を吸い、ようやく伸びた新芽たちは、まだ深い緑になりきっていなかった。光を受けると、葉の先がやわらかく透けて、まるで生まれたばかりの言葉がそこに宿っているように見えた。

 幹夫少年は、農道の端に立っていた。

 夕方の空は、まだ明るさを残していた。町のほうからは、車の音や、遠くの犬の声がかすかに届く。けれど茶畑の中に入ると、それらはすぐに薄くなり、葉のこすれる音だけが近くなる。

 さわ。 さわ。

 茶葉が風に揺れる音は、小さな返事のようだった。

 幹夫は、その音を聞きながら、今日の教室を思い出していた。

 国語の時間、先生が「五月らしいもの」を一つずつ挙げてくださいと言った。

 友だちは、こいのぼり、若葉、連休、風、柏餅、田植え、と次々に言った。

 幹夫は、自分の番が来るまで、窓の外を見ていた。校庭の端の木が風に揺れていた。葉の色は、まだ固くなりきらない若い緑だった。その奥に、幹夫は茶畑の新芽を思い出していた。

 幹夫の番になった時、口から出たのは、

 「五月の銀河」

 という言葉だった。

 教室が少し静かになった。

 先生は、少し驚いた顔をしたあと、「きれいな言葉ですね」と言った。

 でも、後ろの席で誰かが小さく笑った。

 「五月に銀河って、夜の話じゃん」

 たしかにそうかもしれない。

 五月らしいものを言うなら、もっとわかりやすいものがあったはずだ。新緑とか、風とか、茶摘みとか。

 けれど幹夫には、五月の茶畑を見ると、どうしても銀河を思ってしまうのだった。

 夜空に流れる銀河ではない。

 新芽の先に降りた光。 茶の畝のうねり。 湯気の中へほどけていく若い香り。 言葉になりきらない気持ちが、細かい星のように胸の中を流れていく感じ。

 それを、幹夫は「五月の銀河」としか呼べなかった。

 でも、笑われたあと、その言葉は胸の奥で小さく縮こまってしまった。

 言わなければよかったのだろうか。

 そう思いながら、幹夫は放課後、茶畑へ来たのだった。

 夕暮れが深まっていく。

 茶畑の緑は、少しずつ夜の色を含みはじめた。けれど五月の新芽だけは、暗くなってもどこか内側から明るい。葉の縁に残った昼の光が、まだ消えずにいるようだった。

 その時、一枚の茶葉の上で、小さな白い点が光った。

 露かと思った。

 けれど、まだ露が降りるには少し早い。幹夫が近づくと、その白い点は、ふるりと震えた。

 次に、隣の葉が光った。

 また隣の葉も。

 点々と光が増えていく。

 それは、茶の畝に沿って、細い川のように流れはじめた。

 幹夫は息をのんだ。

 茶畑の上に、銀河が生まれていた。

 空ではなく、葉の上に。

 五月の茶畑の新芽が、小さな星をひとつずつ灯しながら、丘の斜面に銀色の帯を描いていた。

 「やっと見に来たのね」

 声がした。

 幹夫が振り向くと、畝の向こうに、一人の少女が立っていた。

 幹夫より少し年上に見える。白い手ぬぐいを頭に巻き、淡い緑の作業着を着ている。背中には竹の籠を負っていた。けれど籠の中に入っているのは茶葉ではなかった。小さな星の粒が、いくつも静かに光っていた。

 少女は、茶畑に生まれた銀河を見下ろしていた。

 「これは……何?」

 幹夫が聞くと、少女は微笑んだ。

 「五月の銀河」

 幹夫は胸がどきりとした。

 「その言葉、ぼく、今日言った」

 「知ってる」

 少女は、茶葉の星をひとつ指でそっとすくった。

 「言ったあと、笑われて、少ししまいこんだでしょう。その言葉が、ここへ帰ってきたの」

 「帰ってきた?」

 「五月の茶畑は、言葉になりかけたものを受け止めるのが得意なの。新芽と同じだから。まだやわらかくて、まだ傷つきやすくて、でもこれから香りになるもの」

 幹夫は、茶葉の上の銀河を見つめた。

 自分が教室で言った言葉が、ここに戻ってきた。

 そう思うと、胸の奥の縮こまったところが少しだけ温かくなった。

 少女は畝のあいだを歩き出した。

 「来て。五月の銀河は、夜が深くなる前に読まないと消えてしまう」

 「読む?」

 「星のひとつひとつに、まだ言葉になりきっていない気持ちが入っているの」

 幹夫は、少女のあとを追った。

 茶葉を踏まないように、畝の間をそっと歩く。足もとの土はやわらかく、昼の熱を少しだけ残していた。葉の星は、幹夫の近くで小さく揺れた。

 少女は最初の星を指さした。

 「これは、幹夫の星」

 幹夫が顔を近づけると、小さな星の中に教室が映った。

 先生の声。 窓から入る五月の風。 幹夫が言った「五月の銀河」。 それから、小さな笑い声。

 幹夫の胸が少し痛んだ。

 「やっぱり、変だったのかな」

 そう言うと、少女は首を横に振った。

 「変な言葉ではないよ。ただ、まだ開いたばかりの葉みたいな言葉だったの。強い光に当たると、少ししおれる。だから、ここで夜の水をあげる」

 少女は、近くの茶葉に宿った小さな水滴をすくい、その星へそっと落とした。

 すると、星の中の笑い声が少し遠くなり、代わりに茶畑の風景が浮かんだ。

 五月の新芽。 細い葉脈。 畝のうねり。 丘を渡る風。 夜になって、葉の先に現れる光の帯。

 幹夫は、小さく言った。

 「ぼくは、ほんとうにそう見えたんだ」

 星が明るくなった。

 少女はうなずいた。

 「それでいいの。見えたものを、すぐ捨てなくていい」

 幹夫の目に、少し涙が浮かんだ。

 捨てなくていい。

 その言葉は、幹夫がずっと欲しかったものだった。

 次の星には、別の景色が入っていた。

 さっき笑った子の顔だった。

 幹夫は少し身構えた。けれど星の中のその子は、意地悪な顔をしていなかった。ただ、少し困ったように笑っていた。

 少女が言った。

 「その子も、ほんとうは言葉が見つからなかったのかもしれない」

 「言葉が?」

 「自分にわからないものを聞いた時、人は笑ってしまうことがある。笑えば、わからなさを隠せるから」

 幹夫は黙った。

 その子が悪くないと言われると、自分の痛みがなかったことにされるようで嫌だった。けれど、悪いと決めつけると、その子の困った笑いが見えなくなる。

 幹夫は、星の中の顔をじっと見た。

 「でも、ぼくは少し痛かった」

 そう言うと、星は静かにまたたいた。

 少女は言った。

 「それも、本当」

 幹夫は、少し驚いた。

 相手が悪気なく笑ったこと。 自分が痛かったこと。

 その二つが、同じ星の中で並んでいた。

 どちらかを消さなくてもよいのだと思うと、胸の中の結び目が少しゆるんだ。

 五月の銀河は、茶畑の奥へ続いていた。

 幹夫と少女は、星をひとつずつ読んでいった。

 ある星には、新茶を摘む手が映っていた。

 ――若い葉を傷つけませんように。

 ある星には、湯呑みを両手で包む老人の姿があった。

 ――今年もこの香りを飲めました。

 ある星には、消しゴムで消されたノートの文字が浮かんでいた。

 ――ほんとうは、きれいだと思っていた。

 幹夫は、ひとつひとつを胸の中で受け取った。

 五月の銀河は、空の遠い星だけでできているのではなかった。 茶葉の新しい香り。 言えなかった言葉。 笑われて小さくなった気持ち。 それでも消えずに残った光。

 それらが集まって、茶畑の上に流れているのだった。

 やがて、丘のいちばん高いところへ着いた。

 そこには、ひときわ大きな茶葉があった。

 新芽ではなく、少し古い葉だった。厚みがあり、深い緑をしている。その葉の上に、大きな銀色の星がひとつ乗っていた。

 少女は言った。

 「これは、茶畑の星」

 幹夫は、その星を覗き込んだ。

 中には、茶畑の一年が映っていた。

 冬の寒さ。 春の雨。 五月の新芽。 夏の強い日差し。 秋の静けさ。 茶を摘む手。 茶を揉む手。 お茶を飲む人の息。

 そして、茶畑の声が聞こえた。

 ――若い葉ばかりを見て、古い葉を忘れないでください。

 幹夫は、胸の奥でその声を聞いた。

 ――新しい言葉は、古い沈黙から生まれます。五月の香りは、冬の暗さを越えて来ます。やわらかなものは、見えない時間に支えられているのです。

 幹夫は、足もとの土を見た。

 自分が今日言った「五月の銀河」も、突然生まれた言葉ではなかったのかもしれない。

 これまで見てきた茶葉の露。 湯呑みの湯気。 笑われてしまった小さな美しさ。 言えずに飲み込んだいくつもの言葉。

 それらが胸の中で長く眠っていて、今日ふいに芽を出したのだ。

 そう思うと、その言葉が少し大切に思えた。

 幹夫は茶畑の星に向かって言った。

 「忘れません。新しい言葉の下に、古い時間があることを」

 大きな星は静かに明るくなり、葉の中へ沈んでいった。

 茶畑全体が、さわ、と鳴った。

 東の空が少し白みはじめていた。

 少女の姿も、夜明けの光の中で薄れていく。

 「もう行くの?」

 幹夫が聞くと、少女はうなずいた。

 「五月の銀河は、朝になると新茶の香りに変わるから」

 「また会える?」

 「茶畑の新芽に、言葉になりきらない光を見つけた夜なら」

 少女は微笑んだ。

 「それから、幹夫が自分の言葉を笑い声から守りたいと思った時にも」

 「守れるかな」

 幹夫が聞くと、少女はやさしく首を傾けた。

 「強く守らなくていいよ。新芽みたいに、手のひらでそっと覆うだけでいい」

 そう言って、少女は茶葉の光に溶けた。

 朝が来た。

 茶畑は、いつもの茶畑に戻っていた。

 星の銀河はもう見えない。けれど、新芽の先には朝露が光っていた。幹夫には、その露の中に昨夜の星が少しだけ残っているように思えた。

 家に帰ると、母が新茶を淹れてくれた。

 「五月だからね」

 母はそう言って湯呑みを置いた。

 湯気が、白く細く立ちのぼる。

 幹夫は、それを急がず見た。

 湯気の中に、茶畑の銀河が一瞬だけ見えた気がした。

 お茶を飲むと、若い苦みがあった。

 そのあとに、青い甘みが来た。

 胸の奥で、「五月の銀河」という言葉が、もう一度そっと開いた。

 学校へ行くと、昨日笑った子が、休み時間に幹夫のところへ来た。

 「昨日の、五月の銀河ってさ」

 幹夫の胸が少し固くなった。

 その子は、少し照れたように言った。

 「どういう意味だったの?」

 幹夫はすぐには答えられなかった。

 でも、逃げなかった。

 新芽を手のひらでそっと覆うように、自分の言葉を胸の中で少し温めた。

 そして言った。

 「茶畑の新芽が、夜になると星みたいに見えるんだ。畝が銀河みたいに続いていて……五月は、まだ若い光が流れているみたいで」

 その子は、少し黙った。

 「へえ」

 それだけだった。

 でも、笑わなかった。

 幹夫は、それだけで十分だと思った。

 言葉がすべて伝わったわけではない。 けれど、少しだけ外へ出た。

 踏みつけられず、消されず、新芽のまま風に触れた。

 その日の帰り道、幹夫は空を見上げた。

 昼の空に銀河は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 見えないところで、五月の銀河は茶畑の中を流れている。 新茶の香りの中に、言葉になりきらない光がめぐっている。 そして自分の胸の中にも、まだ若い言葉が、静かに葉を開いている。

 幹夫少年は、小さく息を吸った。

 五月の風に、ほんの少しだけ新茶の香りがした。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page