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茶畑の一本道、新茶の香りで手紙を書く

 幹夫青年が「手紙を書かう」と思ひ立つたのは、今さら何かを改めるほど殊勝になつたからではない。むしろ、殊勝といふ言葉の持つ湿つた重さが、近頃の彼には苦手であつた。 ただ――いつも「そのうち」と言ひながら、その「そのうち」を腐らせて来た自分が、今朝は少しばかり鼻についたのである。鼻につくといふのも妙だが、人は自分に対してだけ、嫌悪と親しみを同居させる。幹夫も例外ではない。

 静岡の町は、朝になると早くから明るい。 明るいのに、あまり騒がしくない。駅前の車の列も、呉服町のアーケードの白い灯も、どこか「働くための明るさ」で、夜のやうな無駄な艶が少ない。幹夫はその「無駄のなさ」に、時々息苦しくなる。無駄がないと、自分の無駄がよく見えるからだ。

 だから彼は、山の方へ逃げた。 逃げたと言つても、県外へ出る勇気などない。静岡市の中で、ただ高い方へ行くだけである。 ――この程度の逃げが、案外、いちばん実用的だと幹夫はこの頃知り始めてゐた。

 バスは安倍川の筋を上がつて行つた。 窓の外で、町の屋根が低くなり、電線が少し減り、川の石の白さが目立つて来る。茶畑の緑が、山の斜面に貼りつくやうに現れ、やがて「足久保」といふ字が、標札に小さく出た。 茶畑の緑は、木の緑とは違ふ。木の緑は勝手に伸びるが、茶の緑は人の手に切り揃へられ、整つてゐる。整ひすぎてゐるのに、どこか柔らかい。――幹夫はその矛盾が気に入つた。自分も整はぬまま、柔らかくゐられたら上等だと思ふ。

 バスを降りると、空気が一寸冷たかつた。 しかし冷たさが正確で、厭らしくない。朝の冷えは、金属のやうに澄んでゐる。鼻へ来る匂ひは、土と、若い葉と、それから、遠い湯気の匂ひである。どこかの家で、もう新茶を淹れてゐるのだらう。幹夫は、その匂ひに不意に励まされた。励まされる、と言ふと大げさだが、匂ひは言ひ訳を許さぬ。言ひ訳を許さぬものの前では、人は少しだけ素直になれる。

 茶畑の間の一本道を歩く。 畝は波のやうに連なり、畑の縁の道は、曲がりながらも決して迷はぬ。ここで迷ふとすれば、それは道ではなく心の方である。幹夫は、心の迷ひを道のせゐにするのが得意だつたが、今日の道は、その手を許してくれさうにない。

 畑の向うで、女たちが葉を摘んでゐた。 帽子の影に顔が隠れてゐるのに、声だけは明るい。笑ひ声が混じると、刈り込み鋏の音まで軽くなる。幹夫は生活の音が好きである。生活の音は、こちらの頭の中の裁判を、勝手に閉廷してしまふからだ。

 彼は畑の端の石に腰を下ろした。 持つて来たのは、薄い便箋と、封筒と、ボールペン一本だけ。立派な道具は要らない。立派な道具を揃へると、立派に書かねばならぬ気がして、結局書けぬ。幹夫は「立派さ」で筆が止まる男である。だから今日は、立派さを最初から捨てる。

 誰へ書くのか――と問へば、答は簡単で、しかし幹夫には言ひにくい。 いつか「今月中に」と言はれて、返事を遅らせてゐた相手がゐた。電話でも、短いメッセージでもよいのに、彼はそれを「いつか」と言つて引き延ばした。引き延ばすほど、言葉は腐り、腐るほど、書けなくなる。 そこで今日は、山の空気を借りて、いよいよ紙に書いてしまふことにしたのである。

 便箋の白さは、案外、人を試す。 白い紙の前では、余計な芝居が利かぬ。芝居が利かぬところが、かへつてありがたい。幹夫はペン先を立て、最初の一字に迷ひ、迷つたまま、ふいに笑つた。 ――迷ふのは当り前だ。迷はぬほど器用なら、最初から遅らせぬ。

 彼は書いた。

  拝啓

 書いただけで、少し肩が軽くなる。拝啓といふ挨拶は、相手へ頭を下げる形でありながら、同時に、自分の背筋を伸ばす形でもある。幹夫はその不思議を、今日初めて味はつた。

 つゞけて、短く、余計な修飾を入れずに書いた。

  先日は、返事が遅れてごめんなさい。  きちんと言ひたくて、かへつて黙つてしまひました。  今月中に、と言はれたこと、守ります。  もし難しいなら、難しいと先に言ひます。  いづれにせよ、待たせるやうなことは、もうしません。

 ここまで書いて、幹夫はペンを置いた。 立派な言葉ではない。美しい文章でもない。だが、変な言ひ訳がない。変な言ひ訳がないと、紙は不思議と温かく見える。温かい紙なら、封をして送れる。

 風が吹いて、畑の葉が一斉にさやさや鳴つた。 鳴つた音が、まるで返事のやうに聞こえた。返事など、まだ来てゐないのに。 幹夫はその勘違ひを、今日は叱らなかつた。勘違ひの中にも、前向きの種はある。種は、湿り気と日差しがあれば芽を出す。茶畑は、そのことをよく知つてゐる顔をしてゐた。

 畑の女の一人が、幹夫を見つけて声をかけた。

「兄さん、休憩? 新茶、飲む?」

 幹夫は、少し照れながら近づいた。 湯呑が一つ差し出される。湯気が立つ。香が立つ。新茶の香は、青さの中に甘さが混じつてゐて、鼻の奥をくすぐる。幹夫はひと口含んで、思はず目を細めた。

「……うまいですね」

「うまいでしょ。新茶は、考へないで飲むのが一番」

 考へないで。 その言葉が、幹夫の胸へすとんと落ちた。彼は何でも考へすぎて、結局何もしない男だつた。だが今日の手紙は、考へすぎる前に書けた。香に押されて、手が先に動いた。先に動いた手の方が、たいてい正しい。

 礼を言つて、幹夫は道へ戻つた。 封筒に便箋を入れ、口をのりで閉ぢた。封をする音――といふものがある。紙が紙に貼りつく、あの小さな音。幹夫はその音を聞いて、なぜだか安心した。言葉が、ようやく行先を得たからである。

 バス停の近くに、赤い郵便箱が立つてゐた。 山里の赤は、町の赤より少し鮮やかに見える。赤は、決断の色だと思ふ。幹夫はその前に立ち、封筒を一度だけ見直して、それから、躊躇ひを一息で折りたたんだ。

 投函口に手紙を入れる。 すとん、と落ちる音がした。 落ちる音は、終りの音ではない。始まりの音である。幹夫はその「すとん」を胸の中で反芻し、思はず笑つた。 笑つたのは、逃げの笑ひではない。手紙を落とせた自分が、少し可笑しく、少し頼もしかつたからだ。

 帰り道、幹夫は小さな茶店で新茶を一袋買つた。 紙袋からは、さつきの香がまた立つ。彼はそれを提げて、バスに乗つた。窓の外で茶畑の緑が遠ざかり、静岡の町の屋根が戻つて来る。町の灯の白さも、さつきほど苦しくない。 苦しさが消えたのではない。苦しさの手前で、ひとつやることをやつた。その分だけ、肩が空いたのである。

 静岡駅へ着く頃、幹夫はふと、今夜の茶を思つた。 家へ帰つたら、新茶を淹れよう。 湯気を吸つて、今日の「すとん」を思ひ出さう。 そして――返事が来たら、今度は逃げずに返さう。

 茶畑の一本道は、何も説教をしない。 ただ、香で背中を押す。 幹夫青年は、その香に押されて手紙を書き、投函し、明るいまま町へ戻つた。 前向きといふものは、たぶん、ああいふ「すとん」の音の積み重ねで出来てゐる。

 
 
 

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