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茶畑の風、緑の香り

プロローグ:山肌に漂う朝靄

 五月下旬、静岡の山あいにある小さな集落。幹夫(みきお)は母と二人、祖母の家に泊まりがけでやってきた。普段は街中で暮らす幹夫にとって、ここを訪れるのは数年ぶりのことだった。

 まだ夜が明けきらぬ早朝、家の縁側に腰をおろした幹夫は、うっすらとした朝靄が丘一面に広がるのをじっと見つめていた。小鳥のさえずりと、どこからかかすかに聞こえる茶工場の機械音。鼻先には若葉の香りが混じり、ひんやりとした空気が胸に染みる。

 「茶摘みの季節か……」 そう呟いた声は、朝の静寂の中でほとんど自分にしか聞こえなかった。

第一章 茶畑の風

 朝食を済ませ、祖母が幹夫に「散歩にでも行っておいで」と言う。隣町から来る親戚の話や、お茶を買い付けに来る人々の予定などを母と話しているようだった。 幹夫は一人、家の裏手に広がる茶畑の道を歩き始める。緩やかな坂道が続き、山肌を覆うように整然と茶の木が並んでいた。新芽の緑は鮮やかで、陽が当たるたびに淡い金色を帯びて見える。 軽い風が吹くと、茶の葉がさわさわと音を立てる。その音はまるで生きものが呼吸しているかのようで、幹夫は立ち止まり耳を澄ませた。すると微かな潮の香りが混じる気がした。海までは遠いはずなのに、静岡の風は山と海をつないでしまうのだろうか。 深呼吸をすると、朝の冷たさの残る風が胸に入ってきて、心まで洗い流されるような気がした。

第二章 父の書き置き

 茶畑を巡ったあと家に戻ると、祖母が古い文机の引き出しをあけ、何やら紙切れを幹夫に手渡した。 「昔、お父さんがここに来たときに書いたメモが出てきてねえ。忘れずに取ってあったのよ」 幹夫は父を幼い頃に亡くし、記憶はほとんどない。しかしそのメモには鉛筆で走り書きされた文字があった。 「茶畑の風は、どこまでも続く緑の海みたいだ。潮の匂いもするのは不思議だけれど、僕はこの匂いが好きだ」 読み返すうちに、幹夫の胸がきゅっと締めつけられる。父も同じ景色を見て、同じ風を感じていたのか。きっと父も、今の自分と同じように茶の香りと遠い海の気配を感じたのだろう。 小さな紙切れをそっと畳んで、幹夫はポケットにしまった。 

第三章 新緑の切れ間に見える山と海

 昼前、祖母が「お茶を届けに行ってきてくれないかい」と声をかけた。幹夫は母と連れ立って、小さなバイクに積まれた茶箱を受け取る。山道を下り、町の集会所へ向かうのだという。 バイクの後ろに母が乗り、幹夫は徒歩でゆっくりと並走する。道の両側には竹林があり、その向こうには一面の茶畑。その先に少し開けた場所があり、幹夫がそこまで来ると、遠くに海が見えた。 「すごい……」 海はキラキラと青く光り、手前には山の濃い緑が横に連なっている。新緑の季節にしか見られない、息づくような色のコントラストが広がっていた。 母は振り返り、手のひらで額の日差しを遮りながら「海が見えると、なんだかほっとするわね」と呟く。幹夫もうなずき、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

第四章 静かな茶会

 夕方、町の集会所では茶農家や近所の人が集まり、今年の新茶を味わう小さな茶会が開かれていた。幹夫は祖母について行き、ぎこちなく挨拶をする。 湯呑に注がれた新茶を一口含むと、さわやかな苦みとわずかな甘みが口に広がった。幹夫は思わず目を細める。 「どうだい。うまいか?」と地元のおじさんが笑う。 幹夫は「はい、すごくおいしいです」と少し背筋を伸ばして答えた。そのとき、朝茶畑を歩いたときの風の音が耳によみがえった。お茶の葉が揺れるざわめきや淡い海の香り――それらが、この湯呑にぎゅっと凝縮されているような気がする。 胸の奥で何かがじんわりと溶け込んでいく。幹夫は、この土地に流れる時間が、自分の中でもゆっくり動きはじめるのを感じた。

第五章 月夜に浮かぶ富士の姿(エピローグ)

 夜になり、町の外れの古い通学路を歩くと、遠くに月明かりを背にして富士の稜線が浮かんでいた。静岡といえば富士山――だが、幹夫はこの町の山あいから富士の姿をはっきり見るのは初めてだった。 「大きいんだな……」 月の光に照らされた富士山は、昼とはまるで違う姿を見せ、黒々とした陰影のシルエットを夜空に描いている。周囲の山並みとは違う、厳かな気配が一帯を支配しているようにも感じられた。 茶畑や竹林が夜の闇に溶け込む中、耳を澄ますと風の音だけが聞こえる。母は「明日も晴れたら、また富士山が見えるかもね」と微笑む。幹夫も微かに笑みを返し、「うん、楽しみだね」と答えた。 ふと、ポケットにしまったままの父のメモを思い出す。新緑の緑と、遥か遠くの青い海を結ぶ静岡の大地。それを父が綴った言葉。そして今、自分が同じ風景を見ている不思議なつながり。 鼻先をくすぐる山の匂いは、どこか潮の香りを含んでいる。幹夫は目を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込んだ。誰にも悟られない小さな感動が、確かに心の奥に染み渡っていく。 ──夜空の富士は、何も語らずただそこに聳えていた。五月の新緑をまとった山々を静かに見下ろし、海から吹き寄せる風を受けとめながら。

 
 
 

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