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草薙の剣影

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月14日
  • 読了時間: 6分

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草薙の剣影(けんえい)

 眞一(しんいち)が草薙神社を訪れたのは、初夏のまだ肌寒い朝だった。大学院の研究室で徹夜のように文献を漁(あさ)ったあと、そのまま駅に飛び乗った。どこか脳の裏が焼けつくような興奮に突き動かされ、“草薙剣”の存在をこの目で確かめたくて仕方がなかったのだ。

1. 神話への憧れ

 静岡市内の大学院で、日本文学の中でもとりわけ皇室・神話にまつわる古典を研究している眞一は、そもそも「三種の神器」への関心が並外れていた。 幼少のころから皇室行事のテレビ中継に心を奪われ、日本神話に登場する神々の物語を読みふけっては、日常とはまるで次元の異なる神聖な世界を夢見てきた。その崇敬(すうけい)の念が行き着く先として、彼は“草薙剣”を“理想の象徴”とみなすようになる。 草薙神社の由来をひもとけば、ヤマトタケルが草を薙ぎ払った伝説があり、そこには神話的英雄の息吹が宿る。眞一は、その空気を肺いっぱいに吸い込みたいがために、わざわざ早朝から神社の境内に立っていた。

 社殿の奥に続く回廊(かいろう)の空気はひんやりとして、木々の葉先からこぼれる朝露(あさつゆ)が地面をしっとり濡らしている。彼は社務所の横で見かけた宮司(ぐうじ)に声をかけようとしたが、瞬間、強烈な既視感(デジャヴ)に襲われた。 ――まるで、以前どこかでこの場面を夢に見たようだ。 自分がこの社殿に近づくと、神剣が呼応するように微かな金属音を響かせる――そんな幻想を、無意識のうちに抱いていたのかもしれない。

2. 宝刀の禍々しさ

 その翌週、眞一は市内の博物館で催される「徳川家と駿河の宝物」展を訪れた。かの家康公が晩年を過ごした土地らしく、多くの刀剣や甲冑(かっちゅう)が並んでいる。 彼がふと足を止めたのは、一振りの刀――「草薙剣を模(かたど)った宝刀」と解説されている展示品だった。ガラスケース越しに覗(のぞ)き込むと、刀身に踊る刃文(はもん)が不気味なまでに妖艶(ようえん)だ。 ほんのわずかの角度を変えると、そこに黒い影のような筋が浮かび、まるで刀が“闇”を宿しているかのようにも見える。その“禍々(まがまが)しさ”に、眞一はかえって強い魅力を感じ、心拍数が上がっていくのを止められない。 “これは本物ではない。しかし、私を呼んでいる――” そのとき彼は確信する。草薙剣の“真の力”が、この刀を媒介に自分へ語りかけてきているのだと。

3. 皇室への傾倒と歪(ゆが)み

 その日から、眞一の研究はさらに一方的な方向へ傾きはじめた。大学院の指導教授は、彼が提出する論文草稿に何か危うい偏りを感じ取り、忠告した。「視野を広げ、学問的客観性を忘れないように」と。 だが眞一の頭には、もうそんな言葉は響かない。彼の文献ノートには、草薙神社や皇室の歴史、ヤマトタケル伝説の引用が増え、いつしかそれらを崇拝するが如き情熱をにじませるようになる。 自身の祖国を象徴する神器に殉(じゅん)ずるような生き方こそが、美であり理想ではないか――そんな疑念とも宣言ともつかぬ思いが、眞一の心に巣くう。まるで狂気の芽が薄皮を裂(さ)いて伸び始めるかのように。

 そのころから、彼は夜な夜な草薙神社の周辺を歩き、または駿河湾を臨(のぞ)む海岸を彷徨(さまよ)う。月光の下、草薙剣を模倣した宝刀の影を夢想しながら、自分自身の肉体をも捧げる覚悟を固めるように。美しい日本神話の世界に魂ごと浸り込みたい――そう強く願う一方で、どこかに激しい破滅願望がかすかに芽吹いているのを感じるのだ。

4. 旧家への訪問

 あるとき眞一は、草薙神社の縁起に詳しいと噂される旧家の当主を訪ねた。その家は武家の末裔(まつえい)とされ、古文書や宝刀を代々伝えているという。 門をくぐると、頑固(がんこ)そうな老当主が現れ、少しずつ口を開く。 「ここに伝わる刀は、徳川家が模した草薙剣とは異なるが、共通する伝説がある。かの剣は人を救う神具(しんぐ)である一方、その力を私的に求める者には、相応の“禍”をもたらすと……」 老当主の声には、淡々とした警戒心が混じる。眞一はその忠告をまるで聞いていないかのように、ただ宝刀の姿を想像して陶酔(とうすい)に近い気分に浸っていた。

 “人の世を超えた『神話的世界』に身を捧げる――” 眞一がこれまで抱いたどんな夢も、それには及ばない崇高さがあるように思えた。もはや彼の中で、現代社会の倫理観は完全に後退し、美と破滅の二文字だけが強烈に輝きはじめる。

5. 狂気への突き進み

 研究室への足も遠のき、眞一は草薙神社の境内を中心に夜ごと彷徨(ほうこう)した。いずこからともなく、宝刀が自分を呼ぶ声を聞くようになる。そして一方では、皇室の“古代の清浄(せいじょう)さ”を自らの血肉を捧げて守りたい――そんな倒錯的な願いを抱くに至る。 ある満月の夜、彼は神社の社殿脇で闇に沈む姿を探りつつ、刀身を思わせる長い影を求めて手探りで歩いた。胸の中は高鳴り、額には冷たい汗。静けさを破ったのは、彼の荒い息遣いだけだった。

 「もし、真の草薙剣に触れることが叶(かな)うなら、俺はその刀に身を投じよう」 眞一の中に湧(わ)き起こる“潔(いさぎよ)き死”への憧れは、三島由紀夫が描く美意識にも通じる、究極の純粋さと狂気だった。彼は自分の肉体さえ、神話の燃え盛る炎に投げ込んで焼き尽くしたい――そう夢想していた。

6. 破滅の儀式

 ついに眞一は、ある荒廃した古い神社の隠し社(やしろ)に忍びこみ、そこを儀式の舞台に選んだ。夜陰に紛れ、細長い刀の形をした鉄片(てっぺん)を手に、自らの胸元に近づける。喉の奥から押し寄せる高揚(こうよう)感は、とてつもない官能と痛みの混在だ。 「日本の神々よ、俺の血を受け取れ……。この肉体を捧げる代わりに、あなた方の世界へ導いてほしい」 彼は震える声でそう呟(つぶや)き、目を閉じる。 刀身を模した鉄片が脇腹をかすめ、わずかな出血がじわりと広がる。その痛みは烈(はげ)しいが、一方で解放感もある。血が地面へ落ちる音がやけに大きく響いた気がし、その鉄臭い匂いは彼を恍惚(こうこつ)へ誘(いざな)う。まるで草薙剣の化身に抱かれているかのようだ。

 だが、その直後、彼の体が急に重くなり、意識が遠のく。暗闇の中で脚が崩れ、声にならない呻(うめ)きだけが漏れた。満月の光がうっすらと差し込む社の隙間から、冷たい夜風が吹き込む。 ――そこに“真の草薙剣”はなかった。あるのは、自分の血が滴る鉄片と、誰もいない神社の廃墟だけである。崇高(すうこう)な神話は、この肉体の苦悶(くもん)をどう見ているのか。刀が呼んでいると思ったのは、己の妄想(もうそう)だったのか――。

7. 余韻:神話の残影

 それからほどなくして、眞一は夜明け前に血まみれで倒れているところを発見される。意識は辛(かろ)うじて保たれており、救急搬送された病院で一命をとりとめた。 後日談として、大学院の教授や周囲の人々は彼の行動を不可解な事故または自傷(じしょう)事件として処理しようとする。眞一自身は事件について何も語らず、やがて静岡を離れていったという。 けれども、草薙神社の近隣住民の間には、一時期夜中に奇妙な男が刃物らしきものを携えてうろついていたという噂が残る。中には、「あの剣は本当に草薙剣の影だったのでは」「神々が気まぐれに彼を導いたのでは」などと囁(ささや)く者もいた。

 静寂の残る境内には、風になびく木々の声だけが響き、そこに神話の気配はさほど感じられない。しかし、かつて眞一が立ちつくした社殿の奥、あるいは古い宝刀が眠る蔵の片隅には、いまも奇妙な“影”が潜(ひそ)んでいるかもしれない。 日本神話や皇室への畏敬(いけい)が極まったとき、そこには明確な狂気と崇高(すうこう)のあわいが口を開ける――。眞一という青年が、草薙剣の幻を求めた果てに見たものは、どこまでも烈しい自己破滅の美だったのかもしれない。 そしてその痕跡(こんせき)だけが、駿河の夜風に一瞬だけひそやかに囁き、神話の残影を仄(ほの)めかしているのだ。

(了)

 
 
 

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