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草薙の朝・「おはよう」は小さな火花(舞台:静岡市清水区草薙)

 幹夫青年は、草薙の朝の空気の中で、目がさめました。 目がさめた、といっても、えらい決心をして起きたのではありません。 ただ、窓の外が、いつもより白かったのです。

 白い、というのは雪の白ではありません。 草薙に雪はめったに降りません。 白いのは、冬の朝の光と、冷えた空気の透明さと、どこかの家の湯気が混ざった白さでした。 それは、地面の上にうすい霧の紙を一枚敷いたみたいで、その紙の上を、すべての音が小さく滑っていくのです。

 幹夫は布団の中で、ふうっと息を吐きました。 もちろん布団の中では白い息は見えません。 けれど幹夫には、胸の中でだけ、白い息が出て、ふくらんで、ほどけて消えるのが分かりました。 消えるのに、あたたかい。 その「消えてあたたかい」感じが、幹夫にはいつも不思議で、ありがたいのでした。

 ところが、幹夫の胸の中には、今朝も見えない裁判官がゐました。 裁判官は、机をこつこつ叩いて、すぐに言ふのです。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「昨日の返事も、まだだ。」 ――「朝からだらだらしてゐる。」

 幹夫は、その裁判官の声が嫌ひでした。 嫌ひなのに、声はいつも正確で、正確だからこそ、胸が冷えます。 冷えると、ことばが固まり、固まると、ますます出せなくなる。 幹夫はその循環を、もう何度も知ってゐました。

 けれど今朝は、窓の外の白さが、裁判官の机の上にうすい紙を敷いて、音を鈍らせてゐました。 鈍ると、裁判官の声は少し遠くなります。 遠くなれば、幹夫は起きられます。

 幹夫はコートを着て、手袋をして、外へ出ました。 草薙の朝の道は、夜よりもさらに細く見えます。 細いのに、しっかりしてゐます。 しっかりしてゐるのは、家々がまだ眠ってゐて、誰も急がないからです。

 息を吐くと、白い息が見えました。 白い息は、まるで小さな雲の切れはしで、しかも雲よりずっと軽く、雲よりずっとまじめです。 まじめなものが空に浮くと、地面の上の心配が少しだけ軽くなります。

 幹夫は、草薙駅の方へ向かって歩きました。 用事があるわけではありません。 ただ、駅の近くには、朝の音が集まるからです。 朝の音――箒の音、シャッターの音、自転車のチェーンの音。 それらはみんな短くて、短いから、言ひ訳が入りこみません。 短い音は、胸の中の固いことばの列の間に、すうっと風を通してくれます。

 駅へ行く途中、路地の角で、猫がゐました。 黒と白のまじった猫で、毛が冬の空気を吸って、すこしだけふくらんでゐます。 猫は幹夫を見て、にげませんでした。 にげない猫は、もう「ここは安全だ」と知ってゐる猫です。

 猫は、しっぽをすうっと立てて、歩きだしました。 歩き方が正確で、まるで見えない線の上を測りながら進んでゐるやうでした。 幹夫は、また思ひました。

 (コンパスだ。)

 猫は角で一度立ち止まり、しっぽで方向を指して、また歩きました。 その方向へ行けば駅がある――幹夫はそんな気がしました。 そして、気がするだけで十分でした。 朝は、気がするだけで動ける。 動けると、胸の裁判官の机の音が遠のく。

 やがて駅の近くの広い道に出ると、空気が少しだけ金属の匂ひになりました。 線路の匂ひ、電線の匂ひ、そして人が動き出す匂ひ。 遠くで静鉄のベルが、短く鳴りました。

 ツン。

 その一音は、夜の「ツン」とちがって、朝の「ツン」でした。 朝の「ツン」は、叱る音ではありません。 目を開ける合図です。 幹夫はその合図に、無意識にうなづきました。

 草薙駅前の踏切の近くで、制服の学生が二人、並んで歩いてゐました。 片方が、もう片方に何か話して、笑ってゐます。 笑ひ声は短く、冷たい空気の中でよく響きます。 響くのに、しつこく残らない。 残らないから、朝の道にちょうどよいのです。

 そのとき、幹夫の指先が、なぜだか少し痛くなりました。 痛いのは寒さのせゐではありません。 静電気です。 毛糸の手袋と、コートの裏地と、冬の乾いた空気がこすれて、電気がたまってゐたのです。

 幹夫が駅前の金属の手すりに触れた瞬間、 ぱちっ と、小さな火花が飛びました。

 目に見えたのは一瞬で、ほんとうに小さな火花でした。 けれど、その「ぱちっ」は、草薙の朝の白さの中で、驚くほどはっきりしました。 幹夫は思はず笑ひました。

 (火花は、できる。 できたら、消える。 消えるのに、たしかにある。)

 幹夫は、その火花を見て、胸の中のことばを思ひました。 ことばも、火花みたいでいいのだ。 長く燃えなくていい。 一瞬でも飛べばいい。 飛べば、空気が変わる。

 幹夫は、駅前の小さな売店の前で、立ち止まりました。 シャッターが半分だけ開いて、まだ眠ったような灯りが点いてゐます。 中から、年配の人が出てきて、箒で地面を掃いてゐました。 箒の音は、さっ、さっ と短く、一定で、まるで水のさらさらの代りみたいでした。

 幹夫は、その音に引っぱられるやうに、口を開きました。

「……おはようございます」

 言ってしまった。 幹夫は、自分の声が出たことに、少し驚きました。 驚いたけれど、怖くありませんでした。 なぜなら「おはよう」は、説明を要求しないからです。 「遅い」の言ひ訳も、「いまさら」の謝罪も、いらない。 ただ、朝へ向けて火花を一つ飛ばすだけです。

 箒の人は、顔を上げて、にこっとしました。 そのにこっとは、春の芽が出る前の、冬の土のやわらかさに似てゐました。

「おはよう。寒いねえ」

 たったそれだけ。 それだけで、幹夫の胸の中で何かがほどけました。 ほどけたのは問題ではありません。 ほどけたのは、呼吸の通り道です。 通り道ができると、人は歩けます。

 幹夫は歩きながら、もう一度、白い息を吐きました。 白い息は、朝の光の中でいちどふくらんで、すぐ消えました。 消えるのに、いまの「おはよう」のあたたかさが、まだ残ってゐます。 残るのは、言葉の意味ではありません。 言葉が外へ出た、という事実の熱です。

 草薙神社の方へ、少し足をのばしました。 参道の木々は朝の冷えで静かで、葉の間から差す光が、細い線になって地面に落ちます。 その線は、夜の星座とはちがって、昼の星座でした。 昼の星座は、見上げなくても足元にあります。

 幹夫は、拝殿の前で深く礼をしました。 立派な願いはしません。 立派な願いは、すぐ長文になって、長文は言ひ訳になって、言ひ訳は胸を冷やすからです。 幹夫は、ただ胸の中で言ひました。

 (今日を、始めます。)

 そのとき、どこかで鳥が鳴きました。 短く、きれいに。 鳥の鳴き声もまた、一行で出来てゐます。 一行で十分に届きます。 届く声は、強くなくていいのです。

 幹夫は、ポケットからスマホを取り出しました。 画面の白い光は、朝でもやっぱり正確で、少し厳しい。 けれど、さっきの火花の「ぱちっ」と、箒の「さっ、さっ」と、白い息の「ふうっ」とが、その白さに薄いにじみを足してくれる気がしました。 にじむ白は、叱りません。 にじむ白は、ただ「いま」を映します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 火花は短い。 鳥の声も短い。 朝の挨拶も短い。 短いから、空気を汚さない。 短いから、風に乗る。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「草薙の朝。『おはよう』って言えた。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、火花みたいに一瞬だけ、確かに明るくなりました。 明るくなると、裁判官の机の音は聞こえません。 聞こえないのは、裁判官がいなくなったからではありません。 裁判官の机の上に、朝の光が差して、紙が白くなりすぎて、もう文字が読めなくなったからです。

 帰り道、さっきの箒の人がまだ掃いてゐました。 幹夫は、もう一度、ほんとうに小さな声で言ひました。

「おはようございます」

 箒の人も、同じやうに返しました。

「おはよう」

 その返事は、火花より短い。 短いのに、ちゃんとあたたかい。 そして、そのあたたかさで、草薙の朝の白い空気が、すこしだけやさしく見えました。

 幹夫青年は、草薙で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、「おはよう」を一つ言い、もう一つ送っただけです。 けれど、その小さな火花があると、冬の一日はちゃんと点きます。 草薙の朝は今夜の夜よりずっと早く、そしてずっと静かに、幹夫の胸の改札を、そっと開けてゐたのです。

 
 
 

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