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草薙の雨・舗道の方程式(舞台:静岡市清水区草薙)

 幹夫青年は、清水区草薙の細い坂道を、傘をさして歩いてゐました。 雨は、強くはありません。けれど、やめる気もありません。 雨粒は、空から落ちて来て、舗道へ当たり、いちどだけ白い点になって、それからすぐ闇へ溶けてしまひます。

 ぽつ。 ぽつ。 しゅ。

 音は小さいのに、数が多い。 数が多いものは、だんだん「きまり」を持ちはじめます。 幹夫は、そのきまりが、なんだか胸に効くのを感じました。

 胸の中では、いつもの裁判官が、机を叩いてゐたのです。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 その机の音は、雨の音よりも固くて、雨よりも冷たい。 ところが雨は、固い机の上にまで、しろい点を落として、机の輪郭をすこしずつ曖昧にしてしまひます。 雨は、叱りません。 ただ、正確に落ちるだけです。

 幹夫は、ふうっと息を吐きました。 白い息が傘の縁にぶつかって、ふわりと広がり、雨粒と混ざって見えなくなりました。

 (息は消える。雨も消える。 消えるのに、あたたかい方へ行く。)

 坂道の脇には、石の縁(へり)を持った用水が走ってゐました。 いつもはさらさら聞こえる水が、今日は雨と一緒になって、もっと細かい音になってゐます。 水面は、雨粒で無数に叩かれて、円い波紋がいくつも生まれ、ぶつかって、重なって、また消えました。

 幹夫は、その波紋を見て、ふいに理科の図を思ひ出しました。 同じ波が二つ重なると、強くなるところと、消えるところができる――あの図です。 「干渉」といふ名前がついてゐたやつ。

 波紋は、見える。 けれど胸の中の「遅い」「いまさら」も、やっぱり波なのかもしれない。 それなら、重なり方しだいで、消えるところがあるはずだ。

 幹夫は、用水の縁に立って、しばらく、波紋だけを見てゐました。 円は、ひとつひとつは小さいのに、ひどく正確に広がります。 広がる速さが、まるで式のやうでした。

 (速さは、距離を時間で割る。 雨の波は、距離を、いま、で割ってゐる。)

 幹夫は、雨の落ちる「いま」を見ました。 いま、というのは長さがありません。 ないのに、すべての円は、そこから始まるのです。

 そのとき、背中の方で、靴が水を踏む音がしました。

 しゃっ。しゃっ。

 振り向くと、小さな子どもが、黄色い傘をさして立ってゐました。 傘の縁から雨がたれて、子どもの長靴のつま先で、ちいさな池が出来てゐます。 子どもは、用水の波紋を見て、目を丸くしました。

「ねえ、これ、まるいのがぶつかると、四角になるとこ、あるよ」

 幹夫は、思はず笑ひました。 四角になる――たしかに、波紋が重なると、ふしぎに角ばった模様ができるところがあります。 円がたくさん重なると、円ではないものが現れる。 それは、世界が「ひとつだけではない」ことの証拠みたいでした。

 子どもは、つづけて言ひました。

「雨って、かいてるんだよ。みちに。いっぱい」

 みちに、かいてる。 幹夫はその言ひ方が、ひどく好きだと思ひました。 舗道は黒い板で、雨粒は白いチョーク。 雨は、誰にも頼まれないのに、勝手に式を書いてしまふのです。

 子どもは、傘をくるりと回して、また走って行きました。 走ると、雨の水がふわっと飛び、空気の中に透明な粉みたいに散りました。 その散り方が、なんだか星屑みたいで、草薙の夜が、すこしだけ明るく見えました。

 幹夫は、用水の縁から歩き出しました。 舗道へ落ちる雨の点が、一定の間隔で並ぶところがありました。 街灯の下だけ、点がはっきり見えるのです。 点の列は、まるで方眼紙の上の「座標」のやうでした。

 (点を打てば、線が出来る。 線が出来れば、行ける。)

 幹夫は、ポケットの中のスマホを思ひ出しました。 あの白い画面は正確で、すこし厳しい。 けれど、いまは雨が、その厳しさを薄くしてくれてゐる気がしました。 雨が画面に落ちると、指の先で水がひろがり、光がすこしにじみます。 にじむ白は、叱りません。 にじむ白は、ただ「いま」を映すだけです。

 幹夫は、長い文を書かうとしませんでした。 雨の式も、いつも短いのです。 ぽつ、ぽつ、と点を打つだけで、世界の様子を変へてしまふ。 なら、言葉も、点でいい。 一行でいい。

 幹夫は、傘の下で、たった一行だけ打ちました。

 ――「草薙の雨。舗道が式みたいで、気持ちがほどけた。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、さっきまで机を叩いてゐた裁判官が、雨の点を数へるのに夢中になって、机の音を止めたのです。

 雨は相変らず降ってゐます。 降ってゐるのに、幹夫はもう「困った」とは思ひませんでした。 雨は、答へをくれません。 けれど雨は、問いをほどいて、式の形にして、舗道の上へ置いてくれます。 式になれば、次に何をすればいいかが、すこしだけ分かります。

 幹夫青年は、草薙の雨の夜に、大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、雨粒の点と波紋の干渉を見て、言葉を一行にして送っただけです。 けれど、その“一行”は、雨の点と同じやうに、確かに落ちて、どこかの心の舗道に、小さな円を広げるかもしれません。

 草薙の雨は、今夜も正確に降りつづけ、 舗道の方程式は、誰に見られなくても、ちゃんと書かれてゐるのでした。

 
 
 

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