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草薙偽龍連続強盗――その夜、龍は中国語で泣いた

※以下は完全なフィクションです。実在の地域・団体・国籍・人物とは関係ありません。

草薙の町に、最初の悲鳴が落ちたのは、雨の火曜日だった。

静岡市清水区草薙。夜の県道沿いには、濡れたアスファルトが街灯を映し、静岡鉄道の踏切音だけが、どこか遠い世界の出来事のように響いていた。

一件目の強盗は、古い茶問屋の離れで起きた。

犯人は三人。黒い雨合羽。目出し帽。手には刃物らしきもの。防犯カメラには、低く押し殺した声が残っていた。

「動くな」

しかし、そのあとに続いたのは日本語ではなかった。

「快点。」

中国語だった。

翌朝、地元の噂は一気に燃え上がった。

「中国人ギャングらしい」「草薙に拠点があるんじゃないか」「次はうちかもしれない」

その噂は、真実より早く走った。

二件目は、五日後。三件目は、その翌々日。

狙われたのはいずれも高齢者宅。犯人は中国語らしき言葉を使い、現金も貴金属も奪っていった。

清水署刑事課の真壁蓮司は、三件目の現場で床に膝をついたまま、妙な違和感を覚えていた。

被害者の老女は震えながら言った。

「犯人は……外国の人だったと思います。言葉が、そう聞こえて」

真壁は頷いた。

「怖かったですね。もう大丈夫です」

その声は刑事というより、家族をなだめる声に近かった。

だが、彼の目は現場の隅を見ていた。

仏壇の横。引き出しが荒らされている。金庫もこじ開けられている。

しかし、床に落ちていた封筒だけが、きれいに避けられていた。

青い封筒。

真壁は白手袋の指先で、それをそっと持ち上げた。

中身は、古い写真だった。

雨に濡れた草薙の踏切。三人の若者。そして、顔だけが黒く塗りつぶされた一人の少女。

写真の裏には、細い字でこう書かれていた。

――龍は、草の下で眠る。

「……なんだ、これは」

隣に立つ新人刑事の橘美波が息をのんだ。

「中国人ギャングの暗号でしょうか」

真壁は答えなかった。

雨音が、窓ガラスを細かく叩いていた。

事件は、町を冷たく変えていった。

草薙駅近くの中華料理店「明明飯店」には、心ない貼り紙がされた。

帰れ。店を閉めろ。お前たちの仲間だろう。

店主の王海明は、貼り紙を見ても怒らなかった。

ただ、厨房の奥で小学生の娘を抱きしめていた。

「お父さん、私たち悪いことしてないよね」

「してない。だから、泣かなくていい」

しかし娘は泣いていた。

その夜、真壁は店に入った。

「ラーメン。大盛りで」

王は驚いた顔をした。

「刑事さん、こんな時に来ると、迷惑かかりますよ」

真壁はカウンターに座った。

「迷惑をかけてるのは、犯人と噂です」

王はしばらく黙ったあと、湯気の立つ丼を出した。

真壁は一口食べて、ふっと笑った。

「うまい」

王の娘が、少しだけ顔を上げた。

「本当に?」

「本当に。清水署の取調室より百倍うまい」

美波が横で小声で言った。

「真壁さん、取調室でラーメン出ません」

「だから百倍うまいんだ」

娘が、初めて少し笑った。

その瞬間、真壁の中で何かが決まった。

この事件は、ただの強盗ではない。町に憎しみを撒くための事件だ。

犯人は金だけを盗んでいない。

人と人の間にある、見えない橋を壊している。

捜査本部は、中国系犯罪グループの線を追っていた。

だが真壁は、現場音声を何度も聞き返した。

「快点」「别动」「走」

短い中国語。だが、彼にはそれが妙に整いすぎて聞こえた。

美波が尋ねた。

「発音がおかしいんですか?」

「おかしいというより、きれいすぎる」

「きれい?」

「教科書みたいなんだ。現場で焦っている人間の言葉じゃない」

さらに奇妙なことがあった。

三件すべての現場で、犯人は金品を奪っていた。だが、被害額の割に滞在時間が長すぎた。

犯人は何かを探していた。

金ではない何かを。

真壁は被害者宅の共通点を洗った。

一件目、茶問屋の元主人。二件目、元不動産会社役員。三件目、元市議会議員の後援会幹部。

三人は二十六年前、同じ土地開発事業に関わっていた。

草薙駅周辺再整備。表向きは、町を便利にするための開発。しかし、古い資料には不自然な空白があった。

買収記録が一部消えている。立ち退き交渉の記録も抜けている。

そして、その時期に一人の少女が行方不明になっていた。

名前は、林小雨。

中国から来た研修生の娘。当時十三歳。

警察の記録では、家出として処理されていた。

真壁は息を止めた。

「二十六年前の少女失踪と、今の強盗がつながっている」

美波が青ざめた。

「でも、なぜ今?」

真壁は青い封筒を机に置いた。

「誰かが、過去を掘り起こそうとしている」

四件目の強盗は、真壁が予測した通りに起きた。

狙われたのは、草薙の丘の上にある古い邸宅。所有者は、開発事業当時の測量会社社長だった男。

真壁たちは張り込んでいた。

午前二時十三分。雨の中、黒いワンボックスカーが邸宅前に止まった。

三人の影。

美波が無線に手をかける。

「来ました」

真壁は低く言った。

「まだだ。中に入らせる」

「危険です」

「何を探しているか見ないと、終わらない」

犯人たちは裏口から侵入した。

その手際は異様だった。迷いがない。家の間取りを知っている。

だが、彼らは金庫へ向かわなかった。

向かったのは、仏間の床下だった。

真壁は確信した。

「金じゃない。やはり、過去だ」

犯人の一人が床板を外した瞬間、真壁が飛び込んだ。

「清水署だ! 動くな!」

三人は逃げた。

廊下で美波が一人を押さえ込む。真壁は残る二人を追った。

雨の庭。竹垣。濡れた石段。

一人が振り返り、中国語で叫んだ。

だが次の瞬間、足を滑らせて叫んだ。

「くそっ、草薙の坂は滑るんだよ!」

真壁の目が鋭く光った。

日本語。しかも、地元のイントネーションだった。

彼は男を取り押さえた。

目出し帽を剥がす。

現れたのは、草薙のリフォーム会社に勤める日本人の男だった。

「お前、中国人じゃないな」

男は歯を食いしばった。

「俺は知らない。頼まれただけだ」

「誰に」

男は答えなかった。

その時、邸宅の奥から美波の声がした。

「真壁さん! 床下から出ました!」

床下にあったのは、小さな茶箱だった。

中には、写真。録音テープ。古い土地売買契約書。そして、一枚の戸籍謄本の写し。

林小雨は、家出ではなかった。

開発に反対した父親を黙らせるため、関係者たちは少女を使って脅した。少女は逃げる途中、雨の夜に事故に遭った。だが事故は届けられなかった。

遺体は、未造成の土地に埋められた。

その土地の上に、今は小さな防災倉庫が建っている。

美波は震えた。

「こんなの……」

真壁は茶箱の底にあったメモを読んだ。

――最後の箱が開いたら、龍は泣く。

その筆跡に、彼は見覚えがあった。

まさか。

真壁には、忘れられない人物がいた。

元清水署刑事、葛城周平。

二十年前、真壁に刑事の基礎を叩き込んだ男だった。

厳しく、情に厚く、誰よりも被害者に寄り添う刑事。真壁が若い頃、葛城はよく言っていた。

「事件を見るな。人を見ろ」

その葛城は、十年前に退職し、今は草薙で防犯アドバイザーをしていた。

町内会の相談役。高齢者の見守り活動。子どもの登下校ボランティア。

誰からも信頼される男。

だが、青い封筒の文字は、葛城の筆跡に似ていた。

真壁は葛城の家を訪ねた。

葛城は縁側で茶を淹れていた。

「来ると思っていた」

真壁は立ったまま言った。

「先生、あなたなんですか」

葛城は笑わなかった。

「何のことだ」

「連続強盗の黒幕です」

沈黙が落ちた。

湯呑みから湯気が上がる。

葛城は静かに言った。

「証拠は」

「まだ足りません」

「なら刑事として失格だ」

真壁は奥歯を噛んだ。

「先生、なぜ中国人ギャングに見せかけた」

葛城の眉が、わずかに動いた。

「見せかけたのは私じゃない」

「では誰が」

「この町だ」

真壁は言葉を失った。

葛城はゆっくり続けた。

「二十六年前、少女が消えた。父親は泣きながら訴えた。だが誰も聞かなかった。外国人だから。面倒だから。町の開発が止まるから。警察も、行政も、住民も、みんな少しずつ目をそらした」

「あなたもですか」

葛城は目を伏せた。

「私もだ」

その一言は、刃物より重かった。

「私は当時、若い刑事だった。上から言われた。家出で処理しろ、と。証拠はなかった。いや、探さなかった。私は刑事のくせに、人を見なかった」

真壁は声を荒げた。

「だから強盗を仕組んだんですか! 関係者を襲わせて、町に恐怖を撒いた!」

葛城は首を横に振った。

「違う」

「何が違う!」

「私は強盗を止めようとしていた」

その時、真壁の携帯が鳴った。

美波からだった。

「真壁さん、捕まえた実行犯が吐きました。依頼主は葛城さんじゃありません」

真壁は葛城を見た。

「誰だ」

美波の声が震えていた。

「明明飯店の……王海明さんです」

真壁は走った。

雨の草薙を走った。

明明飯店の明かりは消えていた。裏口が開いている。

厨房の奥に、王がいた。

だが彼は逃げなかった。

テーブルの上には、最後の青い封筒が置かれていた。

王の娘が、隣で泣いている。

「お父さん、もうやめて」

王は真壁を見た。

「刑事さん、来ましたね」

真壁は拳を握った。

「王さん、あなたが依頼主なのか」

「はい」

「なぜだ」

王は青い封筒を指差した。

「そこに全部あります」

中には、林小雨の写真があった。

真壁は息をのんだ。

写真の少女は、王の娘に似ていた。

王は言った。

「小雨は、私の姉です」

店内の空気が止まった。

「二十六年前、姉はこの町で消えました。父は訴えました。でも誰も助けてくれなかった。父は中国に帰ってから、毎晩、草薙の雨の夢を見て死にました」

「だから復讐を?」

王は首を振った。

「復讐なら、もっと簡単でした」

「ではなぜ強盗を」

王は泣いていた。

「娘を守るためです」

真壁は眉を寄せた。

王は続けた。

「去年、私は姉の事件を調べ始めました。すると、古い関係者の家に証拠が分散して残っていることを知りました。けれど表に出そうとした瞬間、娘に脅迫状が届いた」

美波が口を押さえた。

王は震える手で一枚の紙を出した。

――父親のように騒ぐなら、娘も草の下に眠る。

「私は警察に行けなかった。二十六年前、警察は父を助けなかった。だから、強盗に見せかけて証拠を集めるしかなかった」

真壁は低く言った。

「中国人ギャングの噂を使ったのも、あなたですか」

王は目を閉じた。

「はい。最低のことをしました。自分たちへの偏見を、逆に利用した。犯人が中国語を使えば、町はすぐ信じると思った。実際、信じました」

その言葉は、店内にいた全員の胸を裂いた。

王の娘が叫んだ。

「でも、お父さんは悪い人じゃない!」

王は娘を抱きしめた。

「悪い人だよ。お父さんは、君を守りたくて、ほかの人を怖がらせた」

真壁は動けなかった。

犯人はそこにいた。だが、単純な悪人ではなかった。

被害者であり、加害者であり、父親だった。

その時、葛城が店に入ってきた。

「王さん。最後の封筒を出しなさい」

王は葛城を見た。

「あなたが?」

葛城は頷いた。

「私は二十六年前、あなたの父親に背を向けた刑事です」

王の目が見開かれた。

葛城は深く頭を下げた。

「すまなかった」

王は何も言わなかった。

ただ、涙だけが落ちた。

真壁は静かに手錠を取り出した。

「王海明さん。強盗教唆の容疑で、任意同行を求めます」

娘が泣き叫んだ。

真壁は膝をつき、娘の目線に合わせた。

「お父さんを連れていく。でも、君から奪うためじゃない。君のお父さんが、もう一人で抱え込まなくていいようにするためだ」

娘は泣きながら言った。

「戻ってくる?」

真壁は答えた。

「戻れるように、俺たちが全部調べる」

王は手錠を見つめ、静かに両手を差し出した。

「刑事さん」

「はい」

「姉を、草の下から出してください」

真壁は頷いた。

「必ず」

翌朝、草薙の防災倉庫の下から、小さな白い骨が見つかった。

林小雨だった。

二十六年ぶりに、彼女は雨の下ではなく、朝の光の中に戻ってきた。

関係者たちは次々と事情聴取を受けた。古い土地開発の闇。警察内部の処理ミス。住民の沈黙。誰か一人の悪ではなく、町全体が少しずつ見ないふりをした結果だった。

王の罪は消えない。強盗に遭った人々の恐怖も消えない。

だが、町に流れた噂もまた、罪だった。

明明飯店の貼り紙は、近所の人々の手で剥がされた。

ある日、王の娘が店の前に小さな紙を貼った。

――しばらくお休みします。父は罪を償います。でも、私たちはこの町で生きます。

その下に、誰かが一枚のメモを貼った。

――待っています。ラーメン、大盛りで。

その字は、真壁のものだった。

数週間後。

真壁は草薙の踏切のそばに立っていた。

葛城が隣に来た。

「私は、もう刑事ではない」

「知っています」

「だが、証言はする。全部話す」

真壁は前を向いたまま言った。

「先生」

「なんだ」

「事件を見るな。人を見ろ。そう教えてくれたのは、あなたです」

葛城は苦しそうに笑った。

「私は、その言葉を守れなかった」

「だから、今から守ってください」

電車が通り過ぎた。

風が二人のコートを揺らした。

踏切の向こうに、春の光が差していた。

真壁は思った。

この町には、龍などいなかった。

いたのは、恐怖に名前をつけた人間たち。沈黙に慣れた人間たち。そして、罪を犯してでも娘を守ろうとした父親。

草薙の下で眠っていたのは、少女だけではない。

真実も、人の良心も、二十六年間眠っていた。

真壁は空を見上げた。

雨はもう止んでいた。

だが、町のどこかでまだ、誰かが泣いている気がした。

彼は歩き出した。

その涙を、今度こそ見落とさないために。

 
 
 

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