草薙神社の鈴・ベルと混ざる夜(舞台:静岡市清水区草薙)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、草薙神社の参道の入口で、ふっと立ち止まりました。 止まったのは、足が疲れたからではありません。 空気が、そこで一段ちがってゐたからです。
町の道の空気は、どこか電燈の白さを含んでゐます。 けれど参道へ入ると、土の匂ひが濃くなり、樟(くす)の匂ひが深くなり、音が少し遠くなります。 遠くなるといふのは、音が小さくなるのではありません。 音が、まるで「遠い星の音」みたいに、澄んで聞こえるのです。
幹夫は息を吐きました。 白い息がふうっと出て、灯籠の低い灯を受けて一瞬ふくらみ、それから闇の方へほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。
(ことばも、白い息みたいならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)
幹夫の胸の中には、言はれないことばが並んでゐました。 並ぶといっても、星座のやうにきれいではありません。 どれも少し冷えて、角ばって、重くなってゐるのです。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも、言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、幹夫の胸の中で、こつこつ机を叩いてゐました。
拝殿の前まで来ると、鈴緒が垂れてゐました。 縄は太く、繊維が冬の空気で少し乾いてゐて、触ると手のひらにざらりとした感触が残ります。 幹夫はそのざらりを、どこか「地球の表面」みたいだと思ひました。 ざらりとしたものは、滑らない。 滑らないものは、つかまへられる。 つかまへられるなら、ひとことも、つかまへられるかもしれない――そんな気がしてきます。
幹夫は、鈴緒を一度だけ引きました。
がらん。
鈴の音は、胸のあたりをいちど大きく揺らして、それから境内の木々の間へ、すうっと溶けて行きました。 溶けるとき、音は線になりません。 音は輪になります。 輪になって、見えないまま広がって、どこかへ消えていきます。 幹夫はその輪を、理科の教科書の「波」の図みたいに思ひました。 中心から、円がひろがっていくやうな、あの図です。
そのときです。
境内の外、草薙の町のどこかから、短いベルの音が来ました。 静鉄のベル――幹夫が草薙の夜で何度も聞いた、あの短い鋼の声です。
ツン。
ほんの一音。 長い説明が入りこむひまのない音です。
幹夫は、耳の奥が、すこしだけ痺れるのを感じました。 なぜなら、さっきの鈴の輪と、いまのベルの一点が、空気の中で重なった気がしたからです。 重なると、音は混ざります。 混ざると、ただ大きくなるのではありません。 ときどき、ふしぎに「うなり」を作ります。 二つの周波数が少しずれると、音の強さが、ふわり、ふわりと波のやうに変わる――あれです。
幹夫は、境内の空気が、いま、ほんのすこし「うなって」ゐるやうに感じました。 もちろん、ほんとうにうなってゐるかどうかは分かりません。 けれど、分からないことが、今夜は不安ではありませんでした。 分からないことが、むしろ、星空みたいにきれいに思へたのです。
(鈴とベルが、混ざる。)
鈴は、神さまへ合図する音だと、だれかが言ったことがあります。 ベルは、人間へ合図する音です。電車が来るとか、扉が閉まるとか、いま動けとか。 合図の向きがちがふのに、音は混ざる。 混ざって、ひとつの夜の空気になる。
幹夫は、それを見て――いや、聞いて――急に胸が軽くなりました。 胸が軽くなると、胸の裁判官の机の音が、少し遠くなります。 遠くなると、机の上に並んでゐた「遅い」「いまさら」が、すこし溶けて、角が丸くなるのです。
拝殿の脇の灯籠の下に、社務所の窓がありました。 窓のガラスが、灯籠の光を薄く返してゐます。 その返し方が、冬の水面みたいに静かで、幹夫はつい近づきました。
すると、中から、年配の男が出てきました。 神職なのか、手伝ひなのか、よく分かりません。 けれど声が、火の世話をする人の声でした。 大きいのに威張らない声。
「こんばんは。寒いねえ」
幹夫は、反射で言ひました。
「こんばんは」
挨拶は、鈴より短いのに、ちゃんと胸を揺らします。
男は、鈴緒を見て、ふっと笑ひました。
「鳴らした? いい音だった」
「……鈴が鳴ったら、外でベルも鳴って……混ざった気がしました」
男は、驚いた顔をしませんでした。 ただ、うなづきました。
「混ざるよ。夜はね、音が混ざりやすい。空気が冷たいと、音がまっすぐ飛ぶから」
まっすぐ飛ぶ。 幹夫は、その言葉が好きだと思ひました。 ことばも、まっすぐ飛べばいい。 途中で言ひ訳の枝にひっかからなければいい。
男はつづけて言ひました。
「鈴は“ここに来ました”って知らせる音だ。ベルは“いま動く”って知らせる音だ。 どっちも、結局は同じだよ。――“いま”ってことだ」
“いま”。 そのひとことが、幹夫の胸の中で、ぱちんと小さな火花になりました。 火花は短い。短いから、言ひ訳が焼けません。 焼けない火花は、ただ明るいだけです。
遠くで、また静鉄のベルが鳴りました。
ツン。
男は、笑ひながら言ひました。
「ほら。いま、だ」
幹夫は、ふうっと息を吐きました。 白い息が、鈴の余韻のあたりを通り、ベルの一点の方へ流れていき、そして消えました。 消えるのに、あたたかい。 消えるのに、“いま”が残る。
幹夫は、ポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、すこし厳しい。 けれど、境内の低い灯と、鈴の余韻と、ベルの一点が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は、叱りません。 にじむ白は、息を通します。
幹夫は長い文を書きませんでした。 鈴もベルも短いのです。 短いから、混ざれるのです。 長いことばは混ざらない。長いことばは、すぐに説明になって、説明はすぐ言ひ訳になって、言ひ訳は空気を重くします。
幹夫は、たった一行だけ打ちました。
――「草薙神社。鈴と静鉄のベルが混ざった。“いま”って言われた気がする。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、鈴の輪とベルの一点が、幹夫の胸の中で、たしかにひとつの星座になりました。 星座は空のものだけではありません。 草薙の夜の空気の中にも、ちゃんと出来るのです。
幹夫青年は、草薙神社で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、鈴を一回鳴らし、ベルを一回聞き、混ざった音を“いま”と思っただけです。 けれど、その“だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 鈴の輪は境内を出て町へ広がり、ベルの一点は線路を伝って遠くへ走り、二つは見えないところで混ざりながら、ひとりの胸の改札を、そっと開けてゐたのです。





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