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葵区廃兵院(はいへいいん)の夜想


1.廃兵院の門

 静岡市葵区の郊外、かつて陸軍の分院だった場所に、今は軍人恩給を受けつつも行き場のない旧兵士たちが集う施設――通称「葵区廃兵院」がある。戦後十数年が経ち、日本は高度経済成長の波に乗りはじめているが、この廃兵院の敷地だけは時代から取り残され、草のにおいと薬品のにおいが入り混じる異様な空気をたたえている。

 若き医学生・**北島光男(きたじま みつお)**がここを訪れたのは、大学の研究実習の一環だった。戦中戦後の医療の暗い影と身体障害者の現状を把握するために、教授の斡旋(あっせん)で短期滞在することになったのである。美術部出身で感受性が強い光男は、施設の門をくぐった瞬間、えもいわれぬ寒気を感じた。

「ここでは、命が止まったままの人々が暮らしているようだ……」

 石造りの古い建物を見ながら、彼はそうつぶやき、どこか胸の奥がざわめくのを抑えられなかった。

 2.失われた四肢と“気高さ”

 敷地の中央にある病棟には、戦争で四肢を失った老兵や、機関銃の弾丸を浴びて半身不随(はんしんふずい)になった者、さらには大戦末期に少年兵として従軍し、重度の障害を負って帰還した者など、多様な“元軍人”が集まっていた。だが、その雰囲気はただの病院ともリハビリ施設とも違う。 「失ったものなど問題ではない。精神さえ気高(けだか)く保てば、我らは今も武人だ」 そう語り合う元将校たちの姿に光男は衝撃を受ける。手足をなくした身体を軍服めいた服装で隠し、油の染みついた車椅子に座りながら、まるで堂々と“凱旋(がいせん)将軍”であるかのように振る舞う者もいる。

 光男は当初、それを“厳かな狂信”としか見なせず、同情と嫌悪(けんお)が入り交じった感情を抱いた。しかし、どうしても目が離せないほどの“崇高さ”が確かにそこにはあった。

 3.元特攻隊員・三条(さんじょう)

 病棟の奥の一室には、特攻隊出身の三条という男がいた。彼はまだ三十路(みそじ)に足を踏み入れたばかりで、義足をつけて医務室へ通う姿は不自然ながらもどこか美しさを漂わせている。 しかも、彼は毎朝欠かさず丹田呼吸の訓練や、軍隊調練に似せた自己流の体操を行い、“肉体を失ってもなお、崇高な精神を磨こう”とする意志を示していた。 光男は医師の助手として三条の血圧や心電図を測りながら、その毅然(きぜん)とした態度に惹(ひ)きつけられる。義足を失った夜など、三条はベッドに横たわり、まるで叙事詩の一節を朗誦(ろうしょう)するかのように小声で旧陸海軍の歌を口ずさむ。それが滑稽(こっけい)とも純粋ともつかない不思議な力で光男を惑わせた。

「先生、医療とは何だろう。体を治すだけが目的なのか、精神を高めることこそ我らの救いではないのか……」 そう問いかける三条の瞳(ひとみ)は深く澄んでいた。

 4.“近代リハビリ”との乖離(かいり)

 国は戦後復興を進めるなかで、身体障害者に対する近代的なリハビリや社会復帰の枠組みを整えつつあった。しかし、ここ“葵区廃兵院”では、その政策の恩恵(おんけい)を十分に受けているとは言いがたい。陸軍・海軍出身の古参たちは、国からの補助金でかろうじて生活しているが、運営費は年々削られ、施設そのものが取り壊される可能性すら噂されていた。 光男が廊下で話を聞いた職員の一人は嘆(なげ)く。 「ここの方々は、国のために体を捧げた英雄だと私は思うんです。でも、世間からは『過去の遺物』扱いでしてね……」

 さらに、院長がポツリと漏らす。 「彼らはリハビリや義肢(ぎし)の改良をするより、むしろ“武人としての魂”を保持することを優先している。今の時代には理解されがたく、世論は気味悪がるでしょうな……」

 5.光男の戸惑いと覚醒

 光男は、廃兵院のあり方について学術的なレポートを書くつもりだったが、次第に頭が混乱してくる。“障害は克服すべきもの”という現代医療の常識と、“身体を失っても美しく気高く在(あ)る”という彼らの論理が、あまりに乖離しているからだ。 一方で、その“気高さ”は光男の心を激しく揺さぶる魅力を持っていた。日本の政治や思想への熱情が、形を変えてここに生き残っている――そこに奇妙なロマンを感じる自分を、光男は抑えられない。 やがて彼は、特に三条との対話を通じて、“本当の治癒(ちゆ)”とは何かを考えはじめる。三条は失った脚の代わりに、“永遠の武人精神”を手に入れようと日々を費やしている。それは現代の合理主義から見れば大いなる錯覚かもしれないが、一個の人間の魂を燃やす“美”とも言える気がする。

 6.国の補助金打ち切りと決断

 ある日、廃兵院に衝撃的な通達が届く。国からの補助金の多くが来年度で打ち切られるかもしれないというのだ。重度障害のある兵士たちの多くが、ここを去らねばならない事態に直面する。世間からは「過去の亡霊たちをいつまでも税金で養うのか」という冷ややかな声が少なくない。 焦燥(しょうそう)と諦観(ていかん)が院内を満たす中、三条だけはどこか憑(つ)き物が落ちたように、義足でスタスタと廊下を歩きまわり、室内の荷物を整理しはじめる。 「いよいよ、俺の時が来たようだ。武人は国家の助けを拒み、自らの意志で生き抜くか、あるいは潔(いさぎよ)く散(ち)るのみ……」 彼は光男に向かい、そう言い放つ。その顔には不敵(ふてき)な笑みと、何かを悟ったような高潔さがある。ここを出て行く――それが一体、どのような運命を意味するのか光男には皆目(かいもく)わからない。

 7.夜の別れと“武人”の背中

 夜更け、廃兵院の廊下に三条の姿があった。肩に鞄(かばん)を提げ、義足をきしませながら玄関へ向かう彼を、光男は呼び止める。 「三条さん、一体どこへ行くんですか? この足で外へ出たら大変じゃ……」 しかし、彼は静かに振り返り、まるで出征(しゅっせい)兵士のように敬礼(けいれい)してみせる。 「俺はもう、この施設には用はない。外には生きづらい現実があるが、そここそ俺が真の武人として生きるか死ぬかを決める場所だ。北島先生、あんたには感謝している。けれど、俺の道は俺自身が決める。たとえ普通の人には理解されなくともな……」

 光男は言葉が出ない。合理と同情だけでは測(はか)れない、“極限の精神性”を抱いている三条の背に、何とも言えない尊(とうと)さと悲哀(ひあい)を感じる。 夜の静寂(しじま)に包まれる廃兵院の玄関を、三条は迷いのない足取りで後にする。外は人通りもない闇夜だ。その足元はおそらく震えているはずなのに、彼の背中には断固たる意志の輝きがあった。

 エピローグ:光男の覚醒

 翌朝、廃兵院の者たちは三条がすでにいないことを知り、特段騒ぐでもなく、淡々と日常を続けた。「ああ、彼は行ったのだな……」と、それだけ。 院長は苦い面持ちで「近代医療も、国家の保護も、彼には意味をなさなかったということか。彼らが求めるのは、もっと別の価値なんだろう」と呟(つぶや)く。 一方、光男は修了レポートを完成させられずに頭を抱える。だが、そこには一片の真実が宿っている気がした。“医療”の理屈を超え、“身体を失ってもなお高貴(こうき)な精神を宿す”という在り方。そこには、三島由紀夫が愛した“身体と精神の乖離(かいり)”と美意識が凝縮されていたのだ。

 光男は廃兵院の庭をゆっくりと歩き、その草のにおいを嗅(か)ぎながら、「自分は安易な合理主義や同情の世界に囚(とら)われていたのかもしれない」と痛感する。“心身の回復”が指し示す地点は、ただの治癒(ちゆ)や社会復帰を超え、魂の昂揚(こうよう)や意志の凛然(りんぜん)さにも通じる何かではないのか――。 彼は廃兵院を見渡し、この“時代遅れ”と蔑(さげす)まれる施設こそ、人間の精神がどこまで純粋な高みを目指せるかの実験場であったのだと悟る。そして、三条の背中に凝縮されていたもの――それは正しさでも狂気でもなく、一種の美しさとして今も胸に残っている。

 そうして光男は心の中で固く決意する。**“彼らの在り方を、ただ過去の遺物と葬(ほうむ)るのではなく、医学や社会にとってのひとつの提言として書き留めよう”**と。 遠くの廊下では、義手をつけた元将校が、車椅子を押しながら微かな軍歌(ぐんか)を口ずさんでいる。その声はこの施設の夜を流れる夜想曲(やそうきょく)のように悲愴(ひそう)でありながら、深い気高さを湛(たた)えていた。何も変わらないようでいて、この廃兵院には確かに“美の一端”が息づいているのだ。

 
 
 

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