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蒲原の稲の銀河

 夏の夕方、蒲原の田んぼは、まるで大きな硝子の皿でした。 水は空を写し、空は水に沈み、雲の白い縁がゆっくりと田面を流れていきました。 薩埵の峠のほうから下りてくる風が、稲の若い葉をすこしずつ揺らし、葉の先で光がちいさく折れて、パチン、パチン、と見えない火花を散らすようでした。

 幹夫少年は、裸足であぜ道を歩いていました。 足の裏には、土の粒がやわらかく貼りつき、ところどころに小石があって、ひやりとしました。 そのひやりが、なぜだか幹夫には、しずかな“正しさ”のように思えました。 ――世界は、ちゃんと冷たいところを持っている。だからこそ、あたたかいものがわかる。 幹夫はそんなふうに、ひとりで考えながら、田んぼの匂いを胸いっぱいに吸い込みました。

 田んぼの匂いは、みかん畑とはちがいました。 みかん畑は、葉の青さと、土の甘さと、潮の気配がまざった匂いです。 けれど田んぼは、もっと深く、もっと古い匂いでした。 水の匂い、泥の匂い、稲の青い汁の匂い、そしてどこかに、夜の匂いがまじっていました。

 あぜ道の際に、小さな蛙がいました。 緑でも茶でもない、影を固めたような色で、目だけが金色に光っていました。 蛙はぴょん、と跳ぶのではなく、ひゅっと滑るように水へ入り、すぐに姿が消えました。 水面に丸い輪ができ、その輪が、田んぼの空をすこしだけゆがめました。

 幹夫はその輪を見て、胸がすこし苦しくなりました。 ――いま、輪ができた。 ――輪は広がった。 ――輪は消えた。 そういうことが、どんなに美しくても、消えてしまうということが、幹夫には、いつも不思議で、かなしく、そしてなぜだか安心でもありました。

 遠くで、ひぐらしが鳴きはじめました。 カナカナカナ……という声は、田んぼの上の薄い空気を、糸で縫うように通っていきます。 その声を聞くと、幹夫の胸の中に、夕方の色がしみてくるのでした。

 田んぼのまんなかに、一本の水路がありました。 水は黒く見えましたが、よく見ると、底の砂がきらきら光っていました。 幹夫はあぜ道にしゃがみこみ、水路をのぞきました。 そこには、細い糸のような生きものが、ふるふると泳いでいました。 たぶんボウフラでした。 あるいは、何かもっと小さな、名前のない生きものかもしれません。

 幹夫は、指先で水をすこしすくって、そっと戻しました。 すると水面がふるえ、夕焼けの光が割れて、赤い欠片が散りました。 そのとき幹夫は、ふいに、田んぼが“見ている”と感じました。

 ――おまえは、ただ見ているのか。 ――それとも、ここへ入ってくるのか。

 どこからともなく、そんな声がした気がしたのです。 幹夫は、あたりを見回しました。 人影はありません。 ただ、稲の葉が、さらさらと鳴り、ひぐらしが、遠くで、糸のように声を引いていました。

 幹夫は、しばらく迷いました。 田んぼは、こわいところでもありました。 泥に足をとられる。 冷たいものがいる。 見えない虫が刺す。 大人たちは、田んぼに入るときの顔だけ、少しだけ固くなりました。

 けれども幹夫は、胸の中の“青い星”が、ふっと光るのを感じました。 みかん畑で覚えた、あの約束が、いまここでも呼ばれているようでした。 ――耳を持って、手を当てて、聴こう。

 幹夫は、あぜから片足をそっと下ろし、田んぼの水に触れました。 つめたかった。 けれど、そのつめたさは、痛くはありませんでした。 むしろ、涼しい鈴の音のように、足の奥へしみていきました。

 もう片方の足も入れました。 泥が、やわらかく足首を抱きました。 ぎゅう、という音がして、泥の中の空気が逃げました。 幹夫は、思わず笑いそうになりました。 田んぼが、足をくすぐっているみたいだったのです。

 稲のあいだを、ゆっくり歩きました。 葉が、腕に触れて、すこしだけちくちくしました。 そのちくちくは、田んぼの「ここにいるよ」という合図のようでした。 水の上には、細い蜘蛛が足を張って走り、時々、ぷつりと水面が鳴りました。 小さな魚が跳ねたのでしょう。 それとも、夜が口をひらいたのでしょう。

 幹夫は、稲の葉を一本、そっと持ち上げました。 葉の先に、小さな水の玉がぶら下がっていました。 その玉の中に、夕焼けが入っていました。 赤い空、青い陰、細い雲――それらが、ちいさく丸くなって、まるで宝石のように揺れていました。

 幹夫は息を止めました。 玉が落ちないように。 この小さな空が壊れないように。

 そのとき、田んぼの奥から、ふっと風が来ました。 稲がいっせいに波をうちました。 ざあ……という音が、田んぼの上を走り、幹夫の胸まで届きました。 水の玉は、ついに落ちてしまいました。 ぽとん、と水面に落ちて、輪ができ、輪が広がり、輪が消えました。

 幹夫は、悲しくなりかけて、でも、その瞬間に、ふいにわかったのです。

 ――落ちたから、田んぼが夕焼けを飲んだんだ。 ――空は、もう一度、田んぼの中へ帰ったんだ。

 幹夫は、泥の中に立ったまま、じっと田んぼを見ました。 すると、田んぼの水面に、星が一つ、ぽつんと灯りました。 それは、本当の星ではありませんでした。 西の空に最初に出た一番星が、田んぼに写っただけでした。

 けれども幹夫には、それが、田んぼの中に生まれた星のように思えました。 稲の葉が、星の光を小さく切り取り、きらり、きらり、と散らしていきました。 田んぼは、いつのまにか、銀河になっていました。

 ひぐらしの声は、少しずつ遠のき、かわりに、蛙が、ぽつぽつ鳴きはじめました。 その鳴き声は、星の数を数えるようでした。 ひとつ、ふたつ、みっつ……と。

 幹夫は、胸の奥があたたかくなるのを感じました。 田んぼは、こわいところではありませんでした。 田んぼは、入ってみれば、静かな宇宙でした。 泥は、ただの泥ではなく、稲を育てる黒い星雲で、水は、空を映す硝子で、風は、銀河を流れる見えない川でした。

 幹夫は、ゆっくりとあぜへ戻りました。 足についた泥は重く、冷たく、そして妙に誇らしく思えました。 あぜ道に腰を下ろし、足を水路で洗うと、泥がさらさらと流れていきました。

 その泥が流れていくのを見ながら、幹夫は、胸の中で小さくつぶやきました。

 「また来る。……耳を持って。」

 田んぼの稲が、さらさらと鳴りました。 それは、返事でした。 星が一つ増えたように、幹夫の胸の中にも、静かな光が増えていきました。

 蒲原の田んぼは、夜へ向かって、ゆっくり深い色になっていきました。 その上を、富士の影が、いつまでも黙って守っているのでした。

 
 
 

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