蒲原みかん丘の青い星
- 山崎行政書士事務所
- 2月16日
- 読了時間: 5分

薩埵の峠のほうから、海の匂いをふくんだ風が、みかんの葉をひと息に撫でて行きました。 葉はそれにこたえて、カサリ、カサリ、と小さく鳴り、青い影を地面へ落としました。
幹夫少年は、まだ背の低い草の匂いが好きでした。土の匂いが好きでした。 とくに、夏の午後に、少しだけ雨が降って、陽がまた出たあとのあの匂い――ぬれた土と青葉と、遠い潮とが一つになった匂いは、胸の奥でふいに鈴が鳴るように、彼を静かに元気にするのでした。
彼は、蒲原の町はずれから、みかん畑へつづく坂道を、ひとりでのぼっていました。 足もとは赤い土で、ところどころに白い小石が光り、細い水路がちょろちょろと鳴っていました。畑の向こうには駿河湾が、まるで大きな瑠璃色の皿のようにひらけ、ずっと向こうに、雲をかぶった富士が、じっと立っていました。
蝉は、もう遠慮がありませんでした。 ジリジリジリジリ――と、いま鳴いているのか、光が鳴いているのか、葉が鳴いているのか、わからないほどでした。
幹夫は、汗で帽子の内側がぺたりとしたのを、少し気にしながら、みかんの木と木のあいだへ、そっと入っていきました。 その瞬間、世界の音が一段やわらかくなりました。外の道の音は、葉の壁で丸くなり、風は青く、匂いは濃く、光は細い粒になって降ってきました。
枝には、まだ青い小さな実が、たくさんついていました。 それは、まだ“みかん”というより、緑の小さな星でした。 幹夫はその星を見て、なぜだか、胸が少し苦しくなりました。――うれしいのに、苦しいのでした。大事なものが目の前にあるときの、あの、なんとも言えない気持ちです。
葉の先には、水のしずくがいくつも残っていて、陽にうたれて、銀色に震えていました。 しずくの中には、ひっくり返った空が入っていました。富士も、海も、そして幹夫の顔も、ちいさく、まあるく、しずくの中で一つになっていました。
幹夫は、息を止めて、しずくを見つめました。 すると、しずくが、ほんの少しだけふるえたのです。 (もちろん、それは風のせいでした。けれども、幹夫は、風のせいだけだとは思えなかったのです。)
カサ、カサ。 葉がもう一度鳴りました。
――おまえ、きょうは、耳を持ってきたかい。
そんな声が、畑の奥から聞こえたような気がしました。 幹夫は、どきんとして、あたりを見回しました。人の姿はありません。鳥の影もありません。あるのは、緑の葉と、青い実と、光の粒と、風だけでした。
――耳を持ってきたなら、ここを、よく聴いてごらん。
幹夫は、両手を、木の幹にそっと当てました。 手のひらに、ひんやりした樹皮の感触があり、その奥で、何かがゆっくり動いているのが、わかるようでした。 それは、血の音にも似ていました。川の音にも似ていました。 胸の鼓動にも似ていました。
幹夫は、急に、自分がとても小さく感じられました。 けれども同時に、自分がとても遠くまでつながっているようにも感じられました。 海と、山と、雲と、葉と、土と、幹夫のいまの呼吸が――ぜんぶ一本の糸でつながって、ゆっくり揺れているみたいでした。
畑の外から、低い音が、ゴトン、と聞こえました。 東海道の汽車でした。 幹夫は、その音を聞くと、いつも少しだけ胸がさびしくなりました。行ってしまう音だからです。どこかへ持っていかれる音だからです。 けれども、みかん畑の中で聞く汽車の音は、ちがっていました。
――あれも、風の仲間だよ。 ――鉄のからだで、地面を伝って、遠い遠いところの話を運んでくる。
そんなふうに、畑が言っている気がしました。
幹夫は、木から手を離し、青い実をひとつ、指でそっと触りました。 実は、思ったより硬く、つめたく、きゅっと引きしまっていました。 “まだだよ”と、実が言ったようでした。
幹夫は、なぜだか、その実をもぎ取りたい気持ちと、絶対に取りたくない気持ちが、同時に胸に起こりました。 取りたいのは、確かめたいからでした。自分のものにして安心したいからでした。 取りたくないのは――この星が、ここで、この光と風と土を吸って、もうすこしだけ大きくなるのを、見守りたいからでした。
そのとき、足もとで、かすかな音がしました。 チチチ、と砂をかむような音。 見ると、小さな蟻が、一粒の土を抱えて、草の根もとで立ち往生していました。蟻の前には、雨の残した小さな水たまりが、きらりとひかっていました。
幹夫は、しゃがみこみました。 指先で、そっと小枝をひろい、水たまりに橋をかけました。 蟻は、しばらく迷い、それから、すばやく橋を渡っていきました。 その背中が、ふしぎに頼もしく見えました。
「よかったね。」 幹夫は小声で言いました。
すると、葉が一斉に鳴って、畑が笑ったように感じられました。 カササササ――それは笑い声であり、拍手であり、雨上がりの光の衣ずれの音でもありました。
幹夫の胸の中の、苦しさが、すっとほどけました。 彼は気づいたのです。 自然に出会うというのは、なにか珍しいものを見ることではなく、ここにいるものたちの仲間に、一瞬でも、心を入れてもらうことなのだと。
幹夫は立ち上がり、畑の奥を見ました。 葉の影が、地面に星座のような模様をつくっていました。 その星座の上を、風がゆっくり滑っていきました。 富士は、変わらず遠くにいて、海は、変わらず青く光っていました。 それなのに、世界は、さっきまでとまるでちがって見えました。
――幹夫。 ――きょう、きみは、みかん畑の青い星を一つ、胸にしまったよ。
そう言われた気がして、幹夫は思わず笑いました。 ほんとうに、胸の奥に、青い匂いが残っていました。雨と葉と土と潮がまざった、あの匂いです。 それは、ひとつの約束みたいでした。 これから先、どんな日でも、心が乾きそうになったら、またここへ来て、耳を持って、手を当てて、聴こう――と。
畑を出ると、夕方の光が、坂道を金色にしていました。 遠くで汽車がまた鳴り、蝉の声は少しずつ低くなっていきました。 幹夫は、汗をぬぐい、帽子をかぶり直して、蒲原の町のほうへ歩き出しました。
歩きながら、何度もふり返りました。 みかん畑は、ただの畑のように見えました。 けれども幹夫には、その中で、青い星がたくさん育っていて、葉の一枚一枚が、風の言葉を知っていることが、ちゃんとわかっていました。
そして、胸の奥のどこかで、銀色のしずくが、いつまでも小さく震えているのでした。





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