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蒲原小学校の数の風

 蒲原の朝は、まず潮の匂いを一つ、道へ置いていきます。 つぎに田んぼの水の匂い、畑の黒い土の匂い、みかんの葉の青い匂いが、順番に追いかけてきて、最後に富士の白い肩が、空の奥で静かに支度をするのでした。

 幹夫少年は、その匂いの列の中を歩きながら、胸の中で数を数えていました。 べつに誰に言われたわけでもありません。 ただ、世界が数でできているのが見えてしまうのです。

 波が寄せては返す。 ザザン、……ザザン。 その間の時間を、幹夫は足の指で、こっそり測ります。 ――一、二、三。 すると、潮の呼吸の速さが、胸の奥でひとつの式になります。 式になると、世界は少しだけ安心した形をとるのです。

 蒲原小学校の木の校舎は、海の風に毎日こすられて、板の色がうすく銀に見えました。 廊下の硝子には空が映り、雲が通るたび、校舎は一瞬、空の舟になりました。

 教室に入ると、机の上には、算術の教科書と、そろばんが置かれていました。 そろばんの珠は黒く、つるりとして、光を少しだけ吸い込みます。 幹夫はそれを見て、いつも思うのでした。

 (これは、小さな惑星の列だ。) (指で弾くと、軌道が変わる。)

 先生が黒板へ、白いチョークで問題を書きました。 きゅ、きゅ、と細い音がして、粉がふわっと舞い、朝の光の柱の中で星屑になりました。

 ――みかん畑が二反半あります。一反に苗を四十本植えました。全部で何本ですか。

 子どもたちが「うーん」と息を吸いました。 幹夫は、黒板の字の向こうに、みかん畑を見ました。 葉が光って、坂がつづいて、青い実がたくさん揺れている。 二反半というのは、畑の広さではなく、あの風の通り道の長さであり、土の匂いの重さであり、夏の日射しの粒の数だと、幹夫には感じられました。

 幹夫は鉛筆を置きました。 計算はもう、胸の中で終わっていました。

 (二反で八十本。半反で二十本。あわせて百本。)

 答えを書くとき、幹夫の手は静かでした。 書く、というより、見えたものを紙へ写すだけ、という顔をしていました。

 先生が言いました。 「では、幹夫。答え。」

 幹夫は立ち上がって、まっすぐ言いました。 「百本です。」

 先生は黒板の端に、丸をひとつ書きました。 ぱん、と小さく乾いた音がして、その丸は白い満月のように見えました。

 教室の後ろの席で、誰かが小声で言いました。 「どうしてそんなに早いんだよ。」

 幹夫は少しだけ頬が熱くなって、けれど笑って言いました。 「畑が見えたから。」

 みんなが「え?」という顔をしました。 先生は少し首をかしげましたが、幹夫の眼の奥に、ほんとうに畑があるのを見つけたように、すこしだけ優しい顔になりました。

 次の問題は、地曳網でした。

 ――網でいわしが三百六十匹とれました。六人で同じ数ずつ分けると、一人何匹ですか。

 幹夫の胸の中に、浜の光がぱっと広がりました。 銀いろの魚が、ぴちぴちと跳ねる。 網の目がきしむ。 砂が鳴る。 その“分ける”という言葉が、幹夫には少しだけ苦く響きました。 魚は数でもあるけれど、息でもあるからです。

 けれど、幹夫は息を整えて、そろばんの珠を一つ、指で弾きました。 珠が「こん」と鳴って、教室の空気が少し引き締まりました。

 (三百六十は、六の倍数だ。六十は十。三百は五十。あわせて六十。)

 幹夫は答えを書きながら、心の中で、もう一つ別の答えも書いていました。

 (分けるのは、奪うためじゃない。みんなで生きるためだ。) (海の恵みを、海の作法で受け取るためだ。)

 隣の席の友だちが、そろばんの珠を何度も行ったり来たりさせて、眉をしかめていました。 幹夫は、声をひそめて言いました。 「三百六十はね、六十が六つ、って思ってみて。」

 友だちは「六十が六つ……」とつぶやいて、目が少し明るくなりました。 指が、さっきより軽く珠を弾きました。 珠は、まるで小さな波のように、正しい場所へ戻っていきました。

 休み時間、幹夫は廊下の窓から海を見ました。 駿河湾はきらりと光り、遠くに汽車が走っていました。 ゴトン、ゴトン、という響きが床を伝って、足の裏に来ます。

 幹夫は、その音の間隔を数えました。 ――一、二、三、四。 (速い。きょうは風が背中を押している。)

 数えることは、世界を縛ることではなく、世界の癖を知ることだと、幹夫は思いました。 癖がわかると、やさしくできます。 風が強い日は、旗を低く結ぶ。 雨の日は、靴をよく乾かす。 泣いている子には、すぐ答えを渡さず、まず息を合わせる。

 午後、先生は黒板に大きく書きました。

 ――無限

 教室がしん、としました。 幹夫は、その字を見て、海の水平線を思い出しました。 どんなに走っても届かない線。 けれど、いつでもそこにある線。

 先生が言いました。 「数はどこまでも続く。終わりはない。だが、人の暮らしは限りがある。だから、数を学ぶのは、終わりのないものを眺めて、いまの一歩をまちがえないためだ。」

 幹夫は、その言葉が胸に落ちるのを感じました。 黒板のチョーク粉が、また光の中で舞いました。 幹夫にはそれが、ほんとうの星屑のように見えました。 数は、空の星と同じで、遠くにあるのに、ここへ光を届けてくる。

 放課後、幹夫は教室に残って、黒板を拭きました。 黒板消しが、ぱふっ、と白い雲を立てました。 雲はゆっくり落ちて、床へ沈み、また見えなくなりました。

 幹夫は、黒板の端に残った、うすい白い跡を見つめました。 消えたはずの数字が、うっすら残っている。 その残り方が、波の跡や、砂の足跡とそっくりで、幹夫は少し笑いました。

 (数も自然も、消えても、残る。) (残るのは、形じゃなくて、見た心だ。)

 校門を出ると、夕方の風が来ました。 潮の匂いがまた戻ってきて、富士の影が少し濃くなっていました。 幹夫は、歩きながら胸の中で、今日の計算をもう一度、そっと並べました。

 二反半。百本。 三百六十。六十。 そして、無限。

 けれど最後に、幹夫は、計算では出せないものも思い出しました。 友だちの顔が明るくなった瞬間。 そろばんの珠が「こん」と鳴った音。 チョークの粉が星になった光。

 それらは数えられません。 でも、数えられないからこそ、いちばん大切に持って帰れるのだと、幹夫は知っていました。

 帰り道の草の上に、露が一粒光っていました。 幹夫はそれを見て、胸の中で小さく言いました。

 (これは、きょうの“いち”。)

 露は、風にふるえて、まるで返事をするように、きらり、と光りました。

 
 
 

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