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蒲原小学校の顕微鏡銀河

 蒲原の朝は、潮の匂ひで始まります。 海の呼吸が、校庭の砂にひと刷毛、白い粉を落として、それから田んぼの水の匂ひと、畑の黒土の匂ひと、みかんの葉の青い匂ひが、順番に追ひついて来るのです。 空の奥では富士が、まだ黙ってゐるのに、もう「今日の輪郭」だけは、きちんと決めて立ってゐました。

 幹夫少年は、その匂ひの列の中を、理科の教科書と小さな空き瓶を胸に抱いて歩きました。 瓶の中には、朝、用水の端でそっとすくった水が、ほんの指二本ほど入ってゐます。 水の中には、見えないほど小さな命が、きっといくつも、息をしてゐる。

 (きみたちは、どんな顔をしてゐるんだらう。) 幹夫は、胸の奥で小さく問ひました。 理科が好きだといふのは、答へを知ってゐるといふことではなく、問ひがどんどん増えていくといふことだ、と幹夫はひそかに思ってゐました。

 蒲原小学校の理科室は、廊下のいちばん端にありました。 窓が大きく、潮風が入り、硝子器具がいつも、うすい音で鳴ってゐます。 ビーカーの口が、かすかに触れ合って、 チン、 と鳴ると、幹夫にはそれが、遠い星の合図のやうに聞こえるのでした。

 その日、先生は黒板に大きく書きました。

 ――「ひかり」と「いのち」

 チョークがきゅ、きゅ、と鳴って、白い粉がふわっと舞ひました。 朝の光がその粉を拾ひ、理科室の空中に、一瞬ちいさな星屑をつくりました。

 「ひかりは目で見える。だが、目で見えないひかりもある。いのちも、目で見えるやうで、じつは見えないものが多い。今日は、それを“道具”で見てみる。」

 先生は机の上に、顕微鏡を一台置きました。 黒い胴体が、まるで小さな望遠鏡みたいに、黙ってこちらを向いてゐます。

 (あれは、ちいさい天文台だ。) 幹夫は思ひました。 (空を見るんぢゃなくて、水の中の宇宙を見る天文台。)

 みんなが息を呑む中で、先生が言ひました。 「幹夫、おまへ、何か持ってきたな。」

 幹夫は、空き瓶をそっと差し出しました。 瓶の底で、水がかすかに揺れて、 (ここだよ) といふやうに光りました。

 先生は、ピペットで水を一滴、ガラスの板に落としました。 その一滴は、ただの水ではなく、朝の空を小さく丸めた玉みたいに、ぷるんと座りました。 先生がカバーガラスをそっと載せると、空の玉は、しずかに平たくなりました。

 「さあ、のぞいてみろ。」

 最初に覗いた子が、 「何も見えない」 と首を振りました。 次の子が、 「糸みたいなのが動く」 と叫びました。

 幹夫の番が来ました。 幹夫は、顕微鏡の接眼部に目を当て、息を止めました。 先生がピントをすこしずつ回します。 カリ、カリ、 と微かな音がして、世界の焦点が、ゆっくり合っていきました。

 ――その瞬間、幹夫の胸の奥で、鈴が鳴りました。

 水の中に、硝子でできた舟がいくつも浮かんでゐたのです。 細長い舟、丸い舟、星形の舟。 どれも透明で、縁だけがほの白く光り、まるで微小な氷の船団が、暗い海を渡ってゐるやうでした。

 その間を、細い糸のやうなものが、くるり、くるり、と踊ってゐます。 小さな点が、ぴゅっと跳ね、また止まる。 見えない水の流れが、渦を作り、宇宙のやうに回ってゐました。

 (ここにも銀河がある。) 幹夫は、胸の中で言ひました。 (ぼくらが歩く校庭の上にも、空の銀河があるけれど、ぼくらの掌の一滴の中にも、別の銀河がある。)

 ふいに、幹夫は苦しくなりました。 美しくて、嬉しくて、けれど少し、泣きたいみたいに苦しい。 それは、自然の秘密をのぞいてしまったときの、あの、やさしい恐さでした。 知らないままでもよかったのに、知ってしまったら、もう元へ戻れない気がする――そんな気持ちです。

 「先生……これ、硝子みたいなの、何ですか。」

 幹夫が言ふと、先生はうなづいて、静かに答へました。 「ケイソウだ。硅酸で殻ができてゐる。海にも川にもいる。見えないけれど、確かに“つくってゐる”生きものだ。」

 “つくってゐる”――その言葉が、幹夫の胸に落ちました。 見えないほど小さなものが、殻をつくり、世界のどこかを支へてゐる。

 幹夫は、隣の席の友だちに、そっと場所を譲りました。 友だちは最初、目を細め、つぎに、ぱっと顔を上げました。

 「うわ……ほんとだ。なんだこれ。星みたいだ。」

 幹夫は、声には出さずに、胸の中で小さく拍手しました。 誰かが“見えた”とき、世界の灯りが一つ増える気がするからです。

 次は、光の実験でした。 先生が窓ぎわに水の入ったガラス瓶を置き、紙の上に光を落としました。 瓶の縁で光が折れて、紙の上に、うすい虹が出ました。

 「光は曲がる。色に分かれる。だが、色は分かれても、また一つに戻る。」

 幹夫はその虹を見て、朝の海を思ひ出しました。 駿河湾の波の縁が、日を受けて白く光るとき、あれもまた、無数の色の混ざり合ひです。 海は、一つの色に見えるのに、ほんとうは、たくさんの色を抱へてゐる。

 (人の心も、さうかもしれない。) 幹夫は思ひました。 (嬉しいだけ、悲しいだけ、といふふうに一つに見えても、ほんとうは、いくつもの色が重なってゐる。)

 授業の終はりに、先生は言ひました。 「見えないものを、見えるやうにするのが理科だ。だが、見えたからといって、むやみに壊してはいけない。今日見たものは、今日も世界のどこかで働いてゐる。」

 放課後、幹夫は理科室に残り、顕微鏡のガラス板を丁寧に拭きました。 白い拭き跡がすこし残って、光を受けると、また小さな星屑みたいにきらりとしました。

 幹夫は、朝の瓶を手に取って、そっと窓の外を見ました。 校庭の端の用水が、細い音を立てて流れてゐます。 その先には田んぼがあり、さらに先には海がある。 水は、学校の外へ、ずうっと続いてゐる。

 幹夫は、瓶の水を、用水へ戻しに行きました。 水面に一滴落ちると、まあるい輪ができて、広がって、消えました。 その輪の消え方が、顕微鏡で見た渦の回り方と、どこか同じでした。

 (おかへり。) 幹夫は心の中で言ひました。 (きみたちの銀河は、ここで続く。)

 夕方の風が吹いて、稲の葉がさらさら鳴りました。 遠くで汽車がゴトン、と地面の奥を叩きました。 富士の影が少し濃くなり、海が静かに青を深めていきました。

 幹夫は校門を出て、潮の匂ひの中を歩きながら、思ひました。

 (理科の“正しい”は、当てることぢゃない。)(見えないものに、やさしく触れることだ。) (そして、触れたら、ちゃんと元の場所へ返すことだ。)

 道端の草の露が、ひと粒、きらりと光りました。 幹夫はそれを見て、胸の中で小さく言ひました。

 (これは、今日のいちばん小さな実験だ。)

 露は、風にふるえて、まるで返事をするやうに、もう一度、きらりと光ったのでした。

 
 
 

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