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蒲原小学校の風の脚

 蒲原の朝は、海の匂いを先に走らせてから、ゆっくり町を起こします。 潮の匂いが校門の木の札に触れると、札はすこしだけ白く光って、 (きょうも来たかい) と、風に言われたように鳴るのでした。

 幹夫少年は、その風のことばを、耳ではなく胸で聴いていました。 運動が得意だとか、足が速いだとか、そういう言い方は、あとから大人がつける札で、幹夫にとってはただ――からだが風と仲よくなれる、というだけのことでした。

 下駄の歯が、こつ、こつ、と土を打ちます。 校庭の砂は夜の涼しさを少し残していて、踏むとさらりと音がし、ちいさな砂の粒が靴下に星みたいに貼りつきました。 幹夫は、その星を払わずに、しばらくそのまま歩きました。 (きみもいっしょに来るかい) と、砂の星が言っている気がしたからです。

 蒲原小学校の校庭は、海からの風がまっすぐ通る場所でした。 鉄棒の並びは、風のための竪琴で、ぶらんこは風のための振り子で、白い線の引かれた走路は、地面に書かれた“道”というより、空へ向かう細い筋のようでした。

 朝礼が終わると、先生が笛を鳴らしました。 ピイィ、と細い音が空へ刺さって、その音の先に、見えない鳥が一羽、飛び立ったように感じられます。

 「運動会の練習だ。きょうはリレーの走り方。」

 クラスの子どもたちが、わっと動き、校庭に散りました。 幹夫は列の後ろのほうで、まだ背の小さい一年生がもじもじしているのに気づきました。 その子は、走る前から肩がきゅっと上がって、足の先が砂に沈み、まるで自分の影に引っぱられているみたいでした。

 幹夫はそっと近づいて、声を小さくしました。

 「ねえ。風を見て。」

 「風……?」

 「ほら、旗。あれが走ってる。あれと同じに、息を先に出すんだよ。」

 校庭の端の万国旗が、ぱたぱた鳴っていました。 その鳴り方は、勝ったとか負けたとかより、もっと古い合図――海の上の船や、田んぼの稲や、みかんの葉が知っている合図でした。

 幹夫は、その子の背中を一度だけ、ぽんと叩きました。 叩くというより、風を渡すように。 (だいじょうぶ。きみの中にも風はいる) と言う代わりに。

 先生が笛を鳴らし、試走がはじまりました。

 幹夫が走り出すと、世界がすこし静かになります。 足の裏が砂を押し、砂が返事をし、空気が薄く切れて、耳の脇を“シューッ”と滑りました。 腕を振ると、袖の中に風が入り、胸の奥の熱が、ひとつの川みたいに流れ始めます。

 幹夫は速く走ろうとは思っていませんでした。 ただ、からだの中の歯車が、風の歯車とぴたりと噛み合うところへ行きたかったのです。 そこへ行くと、不思議なことに、脚が勝手に軽くなり、砂が勝手にほどけ、地面が少しだけ柔らかくなるのでした。

 走路の白線の上に、幹夫の影が伸びました。 影は風に引かれて、細く、長く、まるで海へ伸びる道みたいに見えました。 幹夫は、影の先が駿河湾まで届いて、さらにその向こうの暗い水の底の星まで触れるのではないか、と思いました。 そう思った瞬間、胸が少し苦しくなりました。 速いことが、嬉しいのに、なぜか切ないのです。 速いというのは、置いていってしまうことでもあるからです。

 「はい、バトン!」

 手の中に、木のバトンが移ってきました。 バトンは温かく、汗と木の匂いがしました。 (これは、だれかの心臓の続きを持つ道具だ) 幹夫はそう感じました。

 幹夫は、次の走者の背中を見つめました。 背中は小さく揺れていて、その揺れの中に、その子の怖さと、期待と、早く終わってほしい気持ちと、でも走りたい気持ちとが、全部まざっているのがわかりました。

 幹夫は、バトンを渡す直前、ほんの一息だけ、速度を落としました。 それは遅くするためではありません。 相手の風に、自分の風を合わせるためです。

 バトンが手から手へ移ったとき、 カチン、 と、小さな星がぶつかったような音がしました。

 次の子が走り出しました。 脚はまだぎこちないけれど、さっきより肩が下がっていました。 幹夫はそれを見て、胸の奥があたたかくなりました。 勝つために走るのではなく、“風が一人ふえた”みたいに感じられたのです。

 先生が、幹夫のほうを見て、少しだけうなずきました。 けれど幹夫は、先生のうなずきより、走路の砂のざわめきのほうを信じました。 砂は、走った足の重さを知っています。 その重さの中に、やさしさがあるか、威張りがあるか、ちゃんと知っているのです。

 次は跳び箱でした。 古い木の跳び箱は、校庭の隅で、まるで小さな山のように座っていました。 上面はつるりとして、陽に照らされると、みかんの皮のような匂いがする気がしました。

 「幹夫、見本をやってみろ。」

 幹夫は走り、踏切板を踏み、両手を跳び箱に置きました。 その瞬間、体がふわりと軽くなる。 足が背中のほうから追い越していく。 頭の中が一度空っぽになって、空っぽのまま、空を一枚めくるように越えていく。

 ドン、 と着地すると、砂がぱっと散り、光がその粒を拾って、校庭に小さな銀河を作りました。

 子どもたちが「おお」と言って、どこかの鳥が一声鳴きました。 幹夫は、その歓声の中で、ふいに跳び箱が言った気がしました。

 (上へ行くのは、偉いことじゃない。) (戻ってくるところまでが、跳ぶってことだ。)

 幹夫は、着地のあとに膝を曲げ、砂の音を確かめました。 砂が“きゅっ”と鳴って、ちゃんと受け止めたことを教えました。

 そのとき、列の中で、さっきの一年生が跳び箱の前で止まってしまいました。 踏切板の前で、足が固まり、目が揺れていました。

 幹夫は列を抜け、先生に何も言わずに、その子の横へ立ちました。 そして、自分の足で踏切板を一度だけ、軽く踏んでみせました。 板が バン、 と鳴って、風がひとつ跳ねました。

 「この音でいいんだよ。音が出たら、もう半分飛んだみたいなものだよ。」

 その子は、こくりとうなずきました。 幹夫は、跳び箱の上に手を置き、箱の温度を伝えました。 (怖くない。木だよ。山だよ。) と言う代わりに。

 次の番、その子は踏切板を踏み、 バン、 と音を出しました。 体は完全には越えられず、膝が箱に触れてしまいました。 けれど、その子の顔は、さっきより明るくなっていました。 音を出せたからです。 風に合図を送れたからです。

 幹夫は、胸の奥で静かに拍手しました。 外へ拍手すると、その子がまた固くなる気がしたので、胸の中だけで。

 昼休み、幹夫は校舎の裏の水道へ行きました。 運動のあと、手を洗う水は、山の冷たさを持っていました。 水は手のひらの熱を取ってくれ、かわりに、からだの中へ透明な筋を一本通してくれます。

 水道のそばで、先生がチョークを砕いていました。 白い粉がふわりと舞い、陽の光の中で星のように浮きました。

 幹夫は、その星を見て思いました。 (勉強の星と、運動の星は、同じところから来ている。) (どちらも、見えないものを見えるようにする。) (ひとつは黒板に書き、ひとつは校庭に書く。)

 校庭に書くもの――それは足跡です。 砂の上には、走った線が残ります。 跳んだところには、着地の窪みが残ります。 その窪みや線は、すぐ風が消してしまいます。 けれど幹夫は、消えるからこそ、それが大事だと思いました。 消えるものは、いまこの瞬間の“ほんとう”だからです。

 午後の練習の最後に、先生は言いました。

 「勝つのも大事だが、怪我をさせるな。みんなで走れ。」

 幹夫は、その言葉が、海の作法とよく似ていると思いました。 地曳網で魚をとるとき、小さい魚は潮へ返す。 田んぼで稲を育てるとき、水を独り占めしない。 畑でうねを作るとき、隣のうねを崩さない。 ――それと同じです。速いことは、独りで遠くへ行けることではなく、みんなの“道”を整えることでもある。

 帰りの会が終わり、幹夫が校門を出ようとすると、朝の一年生が走ってきました。 今度は、肩が上がっていませんでした。

 「ぼく、きょう、跳び箱の音が出た。」

 幹夫は、うれしくて、でも大げさに喜ばないように、少しだけ目を細めました。

 「うん。音が出たら、風が聞いてる。明日、もっと遠くへ行けるよ。」

 その子は、ぱっと笑って、家のほうへ走っていきました。 走り方はまだ不格好でしたが、その不格好さの中に、ちゃんと“自分の風”がいました。

 幹夫は、校庭を振り返りました。 夕方の光が砂を斜めに照らし、鉄棒の影が長く伸びて、地面に黒い譜面を作っていました。 その譜面の上を、風がすうっと走り、 さら、さら、 と、砂が小さく歌いました。

 幹夫は思いました。 (運動が得意というのは、きっと、風の歌を先に覚えることだ。) (でも、歌は独りでうたうものじゃない。) (だれかの胸へ届いて、だれかの足も動きはじめて、はじめて歌になる。)

 幹夫は、靴下についた朝の砂の星を、今度はそっと払いました。 星は落ちて、校庭の砂に戻りました。 けれど胸の中には、別の星がひとつ残りました。 今日、誰かが“風を持った”という、小さな銀いろの星です。

 そしてその星は、蒲原小学校の校庭の上で、いつまでも、静かに、走っているのでした。

 
 
 

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