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蒲原小学校の黒板銀河

 蒲原の朝は、海の匂ひを先に持ってきます。 それから、田んぼの水の匂ひと、どこかのみかんの葉の青い匂ひとが、ゆっくり追ひついてきて、最後に富士の白い肩が、空の奥で黙って支度をしてゐます。

 幹夫少年は、まだ陽の低い道を、教科書を胸に抱いて歩きました。 下駄の歯が、乾いた土にこつこつ鳴り、道端の草の露が、ふいに靴下へ冷たい星を落としました。 幹夫は、その小さな冷たさが好きでした。 「世界は、ちゃんと、朝の粒を配ってゐる」と思へるからです。

 蒲原小学校の木の校舎は、海から来た風に毎日磨かれて、板の色が少し銀いろに見えました。 廊下の硝子には、空が薄く映り、そこへ雲が通るたび、校舎は一瞬、空の舟になりました。 校庭の隅の松が、さういふときだけ、少しだけ揺れて、 (よし、よし。ちゃんと進め) と、風に合図してゐるやうでした。

 鐘が鳴ると、子どもたちは、潮の匂ひを抱いたまま、教室へ吸はれていきました。 幹夫も自分の席にすわり、机の蓋をそっと撫でました。 机の木目は、山の斜面を切り取った地図のやうで、幹夫はそこにいつも、小さな川や、谷や、見えない道を見つけました。

 先生が教壇に立ち、黒板へ白いチョークを当てました。 きゅ、きゅ、と細い音がして、白い粉が空へ舞ひました。 陽は窓から斜めに射して、その粉を一本の光の柱の中へ浮かせました。

 それは、ただの粉ではありませんでした。 幹夫には、それが星屑に見えたのです。 黒板の前で、白い星が舞ひ、教室の天井のあたりへ、静かな銀河が一瞬できる――そのたびに幹夫の胸は、嬉しいのに、少し苦しくなりました。 「こんなに綺麗なものが、すぐ消える」と思ふからでした。

 先生は算術の問題を書きました。

 ――六年生の畑が三反、そこへ肥料を……。

 けれど幹夫の目は、数字の形の向こうへ、いつも一歩先に行ってしまひます。 「三」という字は、畑の畝の並びにも見えるし、海の波の層にも見える。 「六」という字は、薩埵峠の曲がりにも似てゐる。 数字はただの記号ではなく、世界の輪郭が紙の上へ出てきたものだ、と幹夫は感じてゐました。

 「では、幹夫。答へは?」

 幹夫は立ち上がって、答へを言ひました。 声は大きくも小さくもなく、まるで水路の水のやうに、必要なだけ流れました。 先生は、黒板の端に、丸を一つ、ぱん、と書きました。 その丸は、花丸と呼ばれるものでしたが、幹夫には、あれが小さな満月に見えました。

 クラスの子が、ちらりと幹夫を見て、 「また幹夫だ」 と、からかふやうに笑ひました。 けれど幹夫は、笑ひ返すでも、威張るでもなく、ただ、頬が少し熱くなって、目を伏せました。

 (できるっていふのは、えらいことぢゃない。) (ただ、先に見えただけだ。) 幹夫はさう思ひました。 そして、先に見えたなら、その分だけ、だれかのために、何かやさしいことをしなければならない、と、どこかで決めてゐたのです。

 理科の時間になると、先生は「石灰」と書きました。 チョークの正体です。

 「これはな、昔の海の生きものが、長い時間をかけて積もったものだ。」

 幹夫は、手の中のチョークを見つめました。 白く、乾いて、軽い。 けれど、その中に“昔の海”が入ってゐると言はれると、急に、手のひらに深い音が乗ってきた気がしました。 見えない貝や、小さなプランクトンの骨が、ずうっと沈み、ずうっと固まり、そして今日、蒲原小学校の黒板の上で、きゅ、きゅ、と鳴ってゐる。

 (海は、学校まで来てゐる。) (学校は、海の中に立ってゐる。)

 幹夫は、ふいに窓の外を見ました。 駿河湾は、きらっと光り、遠くを汽車が走ってゐました。 ゴトン、ゴトン――その音が、板の床を通って、幹夫の足の裏へ来ました。 その響きは、まるで地面の下にも、もう一つの授業があるやうでした。

 休み時間、幹夫は廊下へ出ました。 廊下の端の窓からは、海がよく見えました。 風が硝子を鳴らし、潮の匂ひが袖の中へ入りました。 校庭の砂は、昨日の雨の名残りで少し黒く、そこを雀が跳ねて、ちいさな足跡を印刷してゐました。

 幹夫は、その足跡が、ひとつの文章に見えました。 「ここを通った」 「ここで止まった」 「また飛んだ」 ――そういう、砂の上の短い日記です。

 そのとき、校舎の陰で、泣き声がしました。 一年生の子が、膝を擦りむいて、手を押さへてゐました。 血が、ほんの小さな赤い点になって、皮膚の上で光ってゐます。

 幹夫は近づいて、しゃがみました。 「だいじょうぶ。ほら、砂が入ってる。」 幹夫は自分のハンカチを出し、少しだけ水道の水をふくませて、そっと拭きました。 水は冷たく、傷の赤が一瞬、はっと濃くなり、それから、落ち着きました。

 その子は、ふう、と息を吐いて、幹夫を見上げました。 「ありがとう。」 幹夫は、首を少し振りました。 「うん。……星が落ちただけだよ。」 自分でも変な言ひ方だと思ひました。けれど、擦りむいた膝の赤い点は、幹夫には、ほんとうに小さな星が皮膚へ落ちたやうに見えたのです。

 午後になると、急に雲が出て、教室が暗くなりました。 先生が「訓練だ」と言って、みんなは机の下へもぐりました。 机の中は、木の匂ひが濃く、外の音が遠くなり、まるで森の根元へ潜ったやうでした。

 幹夫は、机の脚に手を当てました。 木は冷たく、けれど、どこかで小さく生きてゐる気がしました。 (ぼくは、山にゐた。) (風を知ってゐる。) (雨の重さも知ってゐる。) そんな声が、木の年輪の奥から聞こえるやうでした。

 机の下で、幹夫は、なぜだか胸が静かになりました。 怖いはずの訓練の暗さが、森の暗さに似てゐて、森の暗さは、けっして悪いものではないと知ってゐたからです。 暗いところは、種が準備をするところでもあります。

 訓練が終はり、教室へ光が戻ると、黒板はさっきより黒く見えました。 先生が最後に、作文の課題を書きました。

 ――「わたしの好きな場所」

 子どもたちは「海」「山」「家」「祭り」と、口々に言ひました。 幹夫は、胸の中でしずかに、畑、田んぼ、みかんの木、浜の網……いろいろの匂ひを思ひ出しました。 けれど、今日の幹夫には、ひとつ、別の場所が増えてゐました。

 (黒板の前。) (チョークの粉が銀河になるところ。) (机の下が森になるところ。) ――つまり、蒲原小学校そのものが、好きな場所になってゐたのです。

 放課後、幹夫は教室に残って、黒板拭きをしました。 黒板消しを当てると、ぱふっ、と白い雲が立ちました。 雲は光の中で舞ひ、ゆっくり落ち、床へ沈みました。

 幹夫は、黒板の上に残ったかすかな白を見ました。 消したはずの文字の影が、うっすら残ってゐる。 それが、夜の空に残る薄い雲の筋のやうで、幹夫は、しばらく動けませんでした。

 黒板は大きな夜空で、消え残った線は、そこにしか見えない星座の線―― 幹夫は、チョークを一本持って、黒板の隅に、小さな点を打ちました。 つぎに、点と点を細く結びました。

 それは算術でも、漢字でもありませんでした。 蒲原の海の上に出る一番星と、富士の肩にかかる雲の端と、みかん畑の葉先の露と、田んぼの水面に写る灯りと、地曳網の銀いろの魚―― さういふものを、一本の線でつないだ、幹夫だけの星図でした。

 (勉強っていふのは、これかもしれない。) 幹夫は思ひました。 (本の中のことを覚えるだけぢゃなくて、世界の線を、自分の手で確かめること。)

 窓の外で、風が松を鳴らしました。 汽車がまた遠くを走り、ゴトン、ゴトン、と地面の底を叩きました。 その音に合わせて、黒板の白い粉が、まだ少しだけ光って見えました。

 幹夫は、黒板の星図をそっと消しました。 消すとき、胸が少し苦しくなりました。 けれど、その苦しさの奥に、あたたかいものが確かに残りました。 星図は消えても、見たことは消えない、と幹夫は知ってゐたからです。

 校舎を出ると、夕方の空は、薄い紫に変はりはじめてゐました。 海は静かに光り、富士の影は少しずつ深くなっていきました。 幹夫は帰り道を歩きながら、今日の花丸を思ひ出しました。 丸はただの印ではなく、満月のやうに、胸のどこかを照らしてゐました。

 (成績がいいっていふのは、月みたいだ。) (ひかりは借りものだ。) (でも、その借りたひかりで、だれかの足元が見えるなら、それはきっと、いい。)

 幹夫は、道端の草を一本、そっと撫でました。 草は、あひるの羽のやうに冷たく、やさしく、指の腹へ小さな世界を返しました。

 その世界は、蒲原小学校の黒板銀河と、まったく同じ匂ひがしたのです。

 
 
 

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