薩埵の影時
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月28日
- 読了時間: 6分

静岡の午後は、海から始まる。海そのものが見えなくても、潮の匂いが駅前の舗道にまで滲み出ていて、息を吸うたびに、肺の内側が少しだけ塩で硬くなる。硬さは安心に似ている。似ているから危険だ。硬くなれば、痛みを感じにくくなる。痛みを感じにくくなった瞬間、人は平気で自分を裏切る。
私は市役所の書類の山に埋もれたまま、昼休みに駿府城公園の堀端を歩いていた。水面に空が映り、白い雲がゆっくり溺れていく。溺れる雲は優雅だ。優雅さは嘘だ。嘘に見惚れると、現実はいつも遅れて牙を剥く。
携帯が震えた。「例の件、あなたが言ったって話になってる」短い文字列が、私の胸の皮膚の下へ冷たく入ってきた。
言った。確かに私は言った。会議で皆が黙る中で、ただ一つ、数字の矛盾を指摘した。矛盾は事実だ。事実は冷たい。冷たい事実ほど嫌われる。嫌われるものを口にした者は、やがて「性格が悪い」という便利な札を貼られる。札は軽い。軽い札が、重い責任を運ぶ。
私は堀の水を見た。水は何も責めない。責めないものほど残酷だ。責められないなら、こちらが自分を責めてしまう。
そのとき、ふいに思い出した。子どもの頃、祖父が言った名だ。
梶原景時。
「静岡には、あの人の最期の道が残ってる」祖父はそう言って、みかんの皮を剥いた。皮の甘い匂いの中に、なぜか鉄の匂いが混じった気がした。私は当時、その混じり方が嫌だった。甘いものの中に鉄がある。生活の中に刃がある。――それがこの国の底味だ。
私は午後の早退を取った。早退という行為は、逃げに似ている。逃げに似ているから、胸が少し熱くなる。熱は罪の火種だ。火種は、誰かの正しさに火を点ける。
静岡駅から東海道線に乗り、清水の方へ向かった。車窓の海は、夕方の光を薄く噛んで、銀色の舌を出していた。駿河湾の水は、深い。深いものほど、こちらの醜さを映す。私は窓に映った自分の顔を見ないようにして、外の海だけを見た。
やがて薩埵峠のあたりで列車は海沿いをかすめ、富士がひとつ、雲の向こうから冷たく立ち上がった。富士は美しい。美しいものほど危険だ。美しさは、何も説明しないふりをして、すべてを支配する。
私は降り、山道を登った。息が切れる。息が切れると、自分が「ただの肉」であることを思い出す。肉を思い出した瞬間、役所の札も、会議の空気も、急に薄くなる。薄いものほど、簡単に裂ける。
峠の展望に出た。海が広がり、波が白く砕け、下を走る車の列が玩具のように見えた。そして、そこに小さな説明板が立っていた。——景時。清見潟。討死。文字は淡々としている。淡々とした文字ほど残酷だ。淡々とした文字は、死の匂いを消す。
私は柵に手を置いた。金属が冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさは、こちらの甘い言い訳を叱る。
その瞬間、海の匂いが変わった気がした。潮の匂いの奥に、古い汗と馬の匂い、乾いた革と血の匂いが混じる。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど、記憶を正確に引きずり出す。
――ここを、馬で越えた男がいた。
*
景時は、駿河へ入ったとき、妙に静かだった。静かになるのは勇気ではない。静かになるのは、もう騒いでも届かぬ場所へ来てしまった者の癖だ。
鎌倉を出るとき、彼は自分の背中に目が刺さるのを感じていた。目は刃より冷たい。刃は肉を切るが、目は名を切る。名を切られた者は、生きていても死に損なう。死に損なうことが、景時の一番の恐怖だった。
彼は「告げ口」と呼ばれた。告げ口という言葉は子どもの言葉だ。子どもの言葉ほど人を殺すものはない。景時がしたのは、ただ記録だった。記録は冷たい。冷たい記録を嫌う者は多い。嫌う者が多いほど、記録は「悪意」に変換される。悪意は便利だ。便利なものほど、共同体が好む。
東の湿った政治の空気を背に、景時は西へ向かった。西へ行けば赦されると、どこかで思っていたのかもしれない。赦しは甘い。甘い赦しを望む自分こそ、彼の最大の罪だった。
阿倍川を渡ったとき、川の水が白く光った。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを知っている者の色だ。水の白さの中に、彼は自分の名の黒さを見た。黒さは消えない。消えない黒さほど、人を真面目にする。
薩埵の峠道で、海が見えた。海は誰の顔も見ない。名も、官位も、恨みも見ない。ただ満ちて引く。満ちて引くことだけが正しい。正しさは、いつでも残酷だ。
景時は馬を止め、しばらく海を見た。彼は思った。刀で斬られるのは簡単だ。斬られれば、痛みの形がはっきりする。だが、言葉で斬られるのは終わらない。終わらない斬り口は腐る。腐ったものは、後から本人の胸の内側を食い破る。
「影時」という名が、ふと頭をよぎった。影。時。影は光に従う。時は誰にも従わない。従わぬ時の中で、影だけが従順に地面へ貼りつく。貼りついた影は踏まれる。踏まれても声を出さない。影は美しい。美しいものほど無惨だ。
そのとき、風が変わった。海からの風が、峠の松を鳴らした。松の音は、太鼓に似ていた。太鼓は戦を呼ぶ。戦はいつでも、話し合いより先に来る。
追手は、すでに近くにいた。
景時は笑わなかった。笑えば、彼は物語になる。物語になれば、誰かが彼の死を磨く。磨かれた死は、次の死を呼ぶ。彼は次の死を呼びたくなかった。だが呼びたくないと思う者ほど、時代はその者を“象徴”にする。象徴は便利だ。便利なものほど、真実から遠い。
刃が交わり、息が白く乱れ、土が蹴られた。海が、すぐ下で白く砕けている。白い波は、まるで白布のようだった。白布は葬いの色だ。葬いは生者のためにある。死者は、ただ冷えるだけだ。
景時は膝をついた。鎧の隙間に、冷たい空気が入ってきた。冷たさは正しい。正しい冷たさが、彼の中の甘い赦しへの期待を剥いだ。
彼は最後に、海を見た。海は何も言わない。言わない海の前で、景時は初めて、胸の奥が静かに折れる音を聞いた。
折れたのは誇りではない。折れたのは、「理解されたい」という幼い欲望だった。
——誰にも理解されずに終わる。それが、いちばん正しい。
影が、地面に薄く貼りつく。貼りついた影は、やがて夕暮れに溶ける。溶けるものほど、後に残る。
*
潮風が、私の頬を撫でた。私は柵から手を離した。冷たさが掌に残っている。冷たさは、言い訳を許さない。
「あなたが悪い」と言われるとき、人は二つの道を選ぶ。一つは、潔白を叫んで自分を磨く道。磨かれた自分は光る。光る自分は美しい。美しい自分は危険だ。美しい潔白は、周囲に次の敵を作る。もう一つは、汚れたまま、黙って歩く道。黙って歩く者は滑稽だ。滑稽な者は物語にならない。物語にならないことが、時に人間を救う。
私は後者を選びたいと思った。選びたいという言い方が、すでに弱い。弱さは恥だ。だが恥がある限り、私はまだ人間でいられる。
峠から見下ろす静岡の海は、今日も淡々としていた。淡々としたものほど、こちらの感情をよく映す。私は胸の内側の重さを確かめながら、ゆっくりと坂を降り始めた。
影が、足元に伸びる。伸びる影は、私の影であり、景時の影でもある。影は誰の味方もしない。だが影がある限り、私はまだ、ここに立っている。
そして私は、立ったまま生きる。立派に生きようとは思わない。立派さは、いつでも誰かの札になる。ただ、臭いを消さず、冷たさを忘れず、影のまま歩く。
薩埵の風が背中を押した。押す風は優しい。優しさは油断を生む。油断の先に、また誰かの「告げ口」が生まれる。だから私は、優しい風の中で、胸の奥を少しだけ硬くした。硬さは安心に似ている。似ているが、今日は違う。
これは、逃げるための硬さではない。折れないための硬さだ。





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