藍の深きしじま

静岡市の海岸から沖へと目をやると、駿河湾の青い水面がどこまでも広がっています。だが、その下には人の知らない深い闇が潜み、さらに奥には秘密の世界がひそんでいる――そんな伝説を耳にしたことはないでしょうか。

　実際、駿河湾は日本一深い湾とも言われ、その底へは光も届かぬ深淵が広がっています。その深淵のどこかに、古くから伝わる**「海底王国」**があるのだ、と漁師たちが噂することがありました。

潮騒の呼び声

　静岡市に住む少年・**侑斗（ゆうと）**は、小さい頃から海が好きで、休日になると家の近くの浜辺へ足を運びます。釣りをしたり、貝殻を集めたり、ただ砂浜を歩くだけでも、心が落ち着くのでした。

　ある満月の夜、侑斗が海岸で波音を聴きながらぼんやりしていると、海面がなぜか青白く光って見えました。潮の流れが速くなるような気配とともに、かすかな声が聴こえてきます。

「……助けて……わたしを……」

　思わずあたりを見回しましたが、誰もいません。ただ波の音がざざん、ざざんと響くばかり。月の光を受けて青く照らされた海面を見つめる侑斗は、不思議な胸の騒ぎを感じました。

海底王国の王女

　翌朝、侑斗は半信半疑ながらも、あの呼び声を確かめたいという思いに駆られ、漁師をしている叔父のボートを借りて沖へ出ました。晴れ渡る空の下、駿河湾は美しく静か。しかし、いくら目を凝らしても、青白い光は見えません。

　それでも、なんとなく呼ばれている気がして、侑斗は海面をじっと眺め、手をそっとかざしました。そのとき、また遠くから、ささやくような声が聴こえてきます。

「あなたが、わたしの声を聴いたのですね。わたしは、海底王国の王女……どうか、この海を救ってください……。」

　次の瞬間、侑斗の脳裏に鮮やかなイメージが浮かびあがりました。暗い海底に大きなドームのような宮殿があり、そこには魚や深海生物たちが、まるで人間のように暮らしている――。しかし、その王国はどこか苦しそうに見えます。海水が濁り、魚たちも元気をなくし、宮殿の光がかすかに揺らいでいるのです。

水中への導き

　侑斗は思いきって海に飛び込み、何度も潜ってみましたが、もちろん深い場所までは行けません。いったん船に戻り、どうしたものかと考え込んでいると、波間から光の球が浮かびあがり、侑斗のまわりをゆっくり回りはじめました。

　その光の球はまるで人の形を描くようにゆらめき、やがて透明な水の精のような姿に変わります。

「わたしは王女の従者“ミラ”。王女は海底王国の力を解き放ち、海を浄化しようとしているのです。ですが、人間がもたらすゴミや毒が深海にまで届き、その力が及ばなくなりかけています。あなたは王女の声を聴いた特別な人。どうか、海底王国へ来ていただきたい……。」

　侑斗は驚きと不安を感じながらも、なぜか“ここで断ってはならない”と強く思いました。ミラが指し示す方向へボートを進めると、海面にぽっかりと竜宮城の入り口のような渦が開きます。勇気を出してその渦へ飛び込むと、一瞬息が止まるような圧迫感を感じましたが、すぐにまるで水の膜に守られたかのように身体が軽くなり、呼吸もできるではありませんか。

　海水の中を下へ下へと進むうち、視界は深い藍色に包まれます。そこに光が走り、深い海底に広がる町のようなものが見えてきました。それこそが、駿河湾の底に眠る海底王国――。

海底王国の困難

　王国の宮殿は、珊瑚のような柱や、虹色に輝く貝殻の屋根で飾られ、人間の想像を超えた幻想的な造りでした。しかし、あちこちに黒ずんだ漂流ゴミや、油のようなしみが浮いていて、魚たちは怯えたように潜んでいます。

　侑斗は宮殿の奥に案内され、そこで王女ファルナと対面しました。青緑色の尾びれを持ち、髪には白い真珠の飾りがゆらめく彼女は、けれども表情に疲れがにじんでいました。

「あなたが……声を聞いてくれたのですね。ありがとう。わたしたちの王国は、昔はもっと清らかな海の力に護られていました。けれど、人間の生活で出たゴミや有害物質が、深い海底に沈み続け、わたしたちの息を苦しめています。わたしには、海を浄化する“真珠の涙”の力があるのですが、それも今のままでは届きません……。」

　侑斗は王女や従者たちの案内で、王国のあちこちを見て回ります。途切れた珊瑚の森、黒い膜のついた岩壁、プラスチック片が絡みついて弱った魚――。そして、深く静まりかえった闇の中には、絶望した深海生物たちの影が見え隠れしていました。

海と人間の責任

　侑斗はふと、自分もいつも浜辺で拾いきれなかったペットボトルや空き缶のことを思い出しました。こんなにも深い海底まで、人間が捨てたものが流れてきている。自分には、ほんの小さな力しかないのではないか――。そんな不安と負い目を感じます。

　王女ファルナが悲しげに言いました。

「ほんの少しずつの汚れでも、長い時間と広い海流を経て集まれば、こんなにも大きな問題になるのです。だけど、わたしたちは人間を恨んでいるわけではありません。人間にしかできないことがある――。例えば、地上で生活を見直し、ごみを減らす努力を続けるとか、海を見守る人たちの活動を支えるとか……。それを少しずつでも続ければ、きっと海はまた息を吹き返すはずなんです。」

　侑斗は決意を固め、「わかった、ぼくもできることをやってみる」と答えました。とはいえ具体的に何ができるか、まだわからない部分もあります。

「それでも、ぼくは“真珠の涙”の力が届くよう、手伝えるだけ手伝うよ。仲間や大人たちに呼びかけて、少しずつ海をきれいにする活動を広げていきたいんだ！」

　その言葉を聞いたファルナは、わずかに微笑み、かすかな光の粒を侑斗の胸に吹きかけます。

「これで、あなたとわたしたちは繋がりました。地上の人々が海を思いやる気持ちが、わたしの力を助けてくれるでしょう。ありがとう、侑斗……。」

光の海流と未来

　その夜、深海の王国では特別な儀式が行われました。ファルナの“真珠の涙”が輝き、宮殿の外からは深い碧色（あおいろ）の光が集まってきます。だが、王女の力だけでは不十分で、王国全体を包む濁りがなかなか消えません。

　そこで侑斗は、地上に戻って同世代の友人や大人たちに呼びかけ、まずは浜辺や川の掃除、ゴミの削減運動を始めてみることを決意しました。漁師の叔父も「最近は獲れる魚が減ってきて困ってたんだ」と賛同してくれます。学校の仲間たちも、「面白そう！ やろうよ！」と賛成し、SNSなどで海岸清掃を呼びかけると、思いのほか多くの市民が集まってくれました。

「ぼくら、駿河湾を取り戻したいんだ。みんなの力が集まれば、きっと海の底まで届くはず……！」

　そうして続けられた活動のうちに、地上から少しずつ流れ出すゴミが減り、海面の水質が徐々に改善しはじめます。もちろん、すぐに全部がきれいになるわけではありません。それでも、深海へ向かう濁流がわずかずつ浅くなっていき、海底王国の住人たちが再び活気を取り戻しつつあるのを、侑斗は確かに感じていました。

帰るべき場所

　ある朝、侑斗がまた沖に出て海面をのぞきこむと、あの時の渦は見えないものの、ふと透き通った青い光が立ちのぼるように揺れています。まるで王女ファルナからのお礼のメッセージのよう。

「あなたがたの思いは、ちゃんと届いています。わたしたちも海底から力を合わせて、この海の命を守り抜きます。どうか共に歩んでいきましょう――」

　侑斗は静かに海面に向かって微笑みました。これからも、人々と一緒に海を守るための行動を続けよう。いつかまた真珠の涙が満ちて、海底王国が輝きを取り戻したとき、もう一度あの王女に会えるかもしれない――。

　――こうして、駿河湾の深い海底に眠る王国と地上の少年との不思議な絆が結ばれました。人間の暮らしと自然が対立するのではなく、互いに手を携えて未来へ進むためには、一人ひとりの小さな努力が必要なのだと、侑斗は学んだのです。

　波打ち際に寄せるさざ波は、今日もまた静かに砂浜を洗いながら、少年の決意を後押ししているかのように見えました。どこか遠く、深い藍色の世界から、王女ファルナの優しい眼差しが海面をとおして侑斗を見守り続けている――そんな気がしてなりませんでした。