蜘蛛の交換台
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 10分

九月の初めの蒲原は、朝だけ、ほんの少し秋の顔をします。畦道の草の先には露がころんと乗り、みかんの葉の裏の白い粉は、暑さの名残りに負けないようにちらちらと光りました。薩埵峠の影はまだ短いのに、駿河湾の上の空には、薄い鰯雲が一列、魚の骨のように並んでいました。
幹夫は八つ。学校へ向かう途中、溝の上に張った蜘蛛の糸を見つけて立ち止まりました。糸には露がいくつもぶら下がって、ひとつひとつが小さな硝子玉みたいです。光を受けると、玉は一瞬だけ虹色になって、すぐ元の透明に戻ります。
――これ、天の川の、ちいさな模型みたいだ。
幹夫はそう思って、胸の奥の空洞がふっと涼しくなるのを感じました。涼しくなると、息が深く入ります。深い息は、胸の中のざわざわを、いちど底へ沈めてくれるのです。
けれど、学校の門をくぐった途端、沈んだはずのざわざわが、また浮きました。
「来週、運動会をやります」 先生が黒板に大きく書きました。「今日は万国旗(ばんこくき)を作って、校庭に張ります。二人組でやってね」
ざわざわが浮くのは、運動会が嫌いだからではありません。運動会には、必ず“お父さんの背中”がいっぱい出てくるからです。出てくると、幹夫の胸は勝手に探しはじめます。探して、見つからなくて、見つからないのに探すのをやめられなくて、胸の奥がひゅうっと冷たくなる。
幹夫は、席の隣のこういちを見ました。こういちは、袖を少しまくっていて、手首がもうすっかり蒲原の色に馴染みかけています。目だけが、まだ少し慎重です。慎重な目は、幹夫の胸を落ち着かせます。慎重な目は、乱暴に踏みこまないからです。
「杉山……じゃなくて、今の隣の子は北村だな。幹夫、北村と組め」 先生が言いました。
「うん」と幹夫は言い、こういちも「うん」と言いました。
“うん”が二つ並ぶと、胸の中の糸が少しだけまっすぐになる気がしました。
色紙を三角に切って、小さな旗を作ります。赤、青、黄、緑。紙はさらさらして、切るときに、しゃっ、しゃっ、と軽い音がしました。音が軽いほど、幹夫の胸は重さを意識します。軽い世界の中で重たい胸は、余計に目立つからです。
旗を糸に結んでいく役は幹夫になりました。糸は先生が渡してくれた麻糸で、少しざらついて、指に引っかかります。ひっかかりは、幹夫の心のひっかかりに似ていました。
幹夫は、結び目をきつくしすぎないように気をつけました。きつく結ぶと、紙が皺になってしまう。皺になると、旗が苦しそうに見える。苦しそうなものを見ると、幹夫の胸も苦しくなる。
ところが、十枚ほど結んだところで、糸が急に、もつれました。
からまり方は、ただのからまりではありませんでした。糸が糸を呼んで、糸が自分の脚を踏んで、ぐるぐると結び目の外側に、もうひとつの結び目ができてしまうような、いやなからまりです。
幹夫の喉の奥が、ざらりとしました。
――まただ。 ――うまくいきそうになると、どこかで絡まる。
糸のせいではないのに、糸を責めたくなる。責めたいのは本当は糸じゃなくて、“届いてほしいのに届かないもの”のほうなのに。
幹夫は、指先に力を入れて、無理に引っぱりました。
すると、もつれは余計に固くなりました。糸はしゅるりと逃げて、指に食い込み、痛いほどではないのに、痛みの手前のいやな感触だけが残りました。
「幹夫、ちょっと、待って」 こういちが言いました。声は小さいのに、幹夫の耳にちゃんと届く声でした。「引っぱると、もっと絡まる。……息、して」
息、して。 その二文字が、幹夫の胸をこつん、と叩きました。
幹夫は、息を吸いました。紙の匂いと、木の床の匂いと、窓から入る土の匂いが混ざって、肺の中へ入りました。肺の奥が少し濡れる感じがして、胸の中の熱い石が、ほんの少しだけ丸くなりました。
こういちは、絡まった糸を“ほどこう”としませんでした。糸をいちど膝の上に置き、たるませて、絡まった部分をそっと撫でました。撫でると、糸のほうが自分で道を探すみたいに、するり、と一部がほどけました。
「糸って、考えるんだね」とこういちが言いました。 言い方が、変に賢ぶっていなくて、ただ驚いている言い方でした。
幹夫は、ふっと笑いそうになりました。笑いそうになって、すぐ胸の奥がちくりとしました。笑ってしまうと、父のいない影が薄くなる気がして、薄くなるのが裏切りみたいに感じる、その癖がまだ残っています。
でも、幹夫は笑いを止めませんでした。止めると、また胸が絡まる気がしたからです。
「……考えるっていうか、逃げ道を知ってる」と幹夫は言いました。
二人はまた旗を結び続けました。結ぶたび、色が増え、糸が長くなり、“つながり”が目に見える形になっていきます。目に見えるつながりは、眩しくて、少しだけ怖い。つながりは嬉しいのに、切れたときの音を知っているからです。
校庭へ出て、旗の糸を二本の柱に張りました。風がふっと吹くと、旗が一斉にひらり、と翻りました。紙が擦れて、しゃらり、と鳴ります。その鳴り方が、七夕の短冊の音にも、燕の羽音にも似ていて、幹夫の胸は少しだけ軽くなりました。
そのとき、糸の上に、蜘蛛が一匹、降りてきました。黄と黒の縞の、秋の蜘蛛でした。蜘蛛は糸の上を確かめるように歩き、旗と旗の間に、自分の糸を一本、すっと渡しました。
幹夫は、見えない交換台を見たような気がしました。蜘蛛の足は八本で、どれも小さく忙しく動きます。忙しいのに慌てていない。必要な糸だけを、必要な場所へつなぐ。
蜘蛛は、何も言いませんでした。でも幹夫の胸の中で、声のようなものがひとつ鳴りました。
――引っぱるな。通すだけでいい。
幹夫は、糸の張りを指先で確かめました。ぴん、と張っているけれど、固すぎない。風が来たら、少しだけ逃げる余裕がある。余裕があると、切れにくい。
――父さんとの糸も、こうでいいのかもしれない。
幹夫は、そう思った瞬間、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく“息の通る筒”になるのを感じました。筒なら、風が通る。風が通るなら、声も通るかもしれない。通らない日もあるけれど、通らない日でも、筒があるだけで息ができる。
運動会の前夜、幹夫は机に向かって、父に手紙を書きました。 紙の白さが、灯籠の白さに似ていて、いちど喉がきゅっとなりました。でも、祖母が言ったのです。“名前が苦しいなら、道を書けばいい”と。
幹夫は、言える分だけ書きました。
「うんどうかいが あります」 「ばんこくきが できました」 「かぜで しゃらりと なります」 「できたら きいて ほしいです」
“来て”と書けませんでした。書けない自分が悔しい。でも“来て”と書いて来られなかったとき、自分の胸がまたぷつんと切れるのが怖かったのです。
だから、張りすぎないで書きました。 届くものだけ届けばいい。届かないものを無理に引っぱらない。
封筒に小さな三角の色紙を一枚、そっと入れました。赤でも青でもなく、薄い緑。みかんの葉の裏みたいな色です。 “ここに風がある”という印のつもりでした。
運動会の日、空は高く、鰯雲が少し薄くなっていました。薩埵峠の影はきりっと締まり、駿河湾は硝子の皿みたいに光って、遠くに富士の輪郭が淡く浮いていました。
校庭の万国旗は、風でひらひら踊っていました。旗の糸は空に一本の線を引いて、線の上を風が走ります。走るたび、しゃらり、しゃらり、と音がして、その音は“始まる”の合図みたいでした。
父たちの背中も、あちこちにありました。帽子を取る背中、弁当の包みを持つ背中、小さな子を肩に乗せる背中。
幹夫の胸の奥が、ひゅっと冷たくなりました。 冷たくなると、探しはじめてしまう。 探して、見つからなくて、見つからないまま探してしまう。
そのとき、万国旗の糸の上に、昨日の蜘蛛がいました。蜘蛛は風に揺れながらも、糸の真ん中で、じっとしていました。じっとしているのに、糸は切れていない。揺れても、張りすぎていないからです。
幹夫は、胸の中でそっと言いました。
――今日、来なくてもいい。 ――来ないからって、糸が切れるわけじゃない。
そう思ったとたん、胸の冷たさが、ほんの少しだけ丸くなりました。丸くなると、息が戻ります。息が戻ると、体が動けます。
徒競走の順番が来て、幹夫は走りました。速いほうではありません。でも今日は、足が地面にちゃんとつく感じがしました。地面に足がつくと、胸の中の迷子も、少しだけ道を思い出すのです。
ゴールの手前で、祖母の声が聞こえました。「幹、風に負けるなよ」 その声は、太鼓の糸みたいに強くはないけれど、蜘蛛の糸みたいに正確に、幹夫の胸へ届きました。
幹夫はゴールを踏みました。踏んだ瞬間、万国旗がぱっと揺れて、しゃらり、と鳴りました。 その鳴りは、勝った鳴りでも負けた鳴りでもなく、“走った”鳴りでした。
夕方、家に戻ると、祖母が言いました。
「幹、郵便局から言づてだ。父さんが今夜、電話をつなぐって」
電話。 その言葉は、幹夫の胸に、もう一本の糸を張りました。糸は細いのに、遠くまで伸びる糸。伸びる糸は嬉しい。でも、引っぱりすぎたら切れる。幹夫は、手の中でそっと息を整えました。
夜、祖母と幹夫は蒲原の郵便局へ行きました。局の中は、紙の匂いと、金属の匂いがして、奥に大きな板のようなもの――交換台がありました。そこに、たくさんの穴と、たくさんの紐の先が並んでいます。
交換台の前に座る人の手が動くたび、紐がひゅっと差し込まれて、別の穴へつながります。 幹夫は、昼の蜘蛛を思い出しました。 必要な糸だけを、必要な場所へ。 引っぱらず、通す。
黒い受話器を渡されると、幹夫の手のひらが少し汗ばみました。汗は怖さの水。でも怖さがあるから、言葉が本気になります。
「みきお」 受話器の向こうから父の声がしました。
声は遠いはずなのに、糸電話よりずっと近い感じで耳に入ってきました。 近いのに、触れられない。 触れられないのに、確かに“いる”。
幹夫の喉の奥が、じん、と熱くなりました。涙が出る前の熱。熱いのに、声は出ました。
「とうさん。うんどうかい、した」「聞いたよ。先生が写真を送ってくれるって言ってた。万国旗も作ったって、手紙にあったな」
父の声が“万国旗”と言ったとき、幹夫の胸の中の糸が、ぱっと明るくなるのを感じました。 届いた。 届かなかった“来て”は届かなかったかもしれないけれど、“しゃらりの風”は届いた。
「とうさん、今日……旗、しゃらりって鳴った」 幹夫はそれだけ言いました。 それだけ言うのが、今夜の“ちょうどいい張り”でした。
父は少し笑って言いました。「しゃらり、か。いい音だな。こっちの工場は、がちゃん、がちゃんだ。今度帰れたら、俺もしゃらりを聞きに行く」
“今度帰れたら”という言葉は、また“かもしれない”を含んでいました。含んでいるから怖い。怖いのに、今日はその怖さが、胸を切らずに済みました。蜘蛛の糸が教えてくれた張り具合と、こういちの“息して”が、幹夫の胸を支えていたからです。
「うん」と幹夫は言いました。 “うん”は小さかったけれど、嘘じゃありませんでした。
帰り道、夜の草むらで鈴虫が、りん……りん……と鳴いていました。遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡りました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と寄せました。
家に着くと、窓辺の青いガラスの星が、からり、と鳴りました。 割れた貝の星座の箱も、月の光を控えめに返し、空の蛍瓶は透明のまま“返した手触り”を抱いていました。虹の海硝子は暗がりで薄い色を見せ、庭の竹の短冊がさらり、と鳴りました。
幹夫は、運動会の万国旗の切れ端を小さく折って、窓辺にそっと置きました。紙片は何も言いません。でも、しゃらりの音の跡を持っています。
布団に入って目を閉じると、父の声が、受話器の黒い中からまだ少し残っていました。残る声は、蜘蛛の糸についた露みたいに、すぐ消えそうで、でも、確かに光ります。
――糸は、切れる。 ――でも、結べる。 ――張りすぎないで、通すだけで、届くものがある。
幹夫は胸の上で両手を重ねました。胸の奥の空洞はまだあります。けれど今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、声が通ったあとの、澄んだ筒でした。
その筒の中で、幹夫の心臓の太鼓が、こつん、と一度鳴りました。 鳴り方は、ぷつん、と切れる音ではなく、「つながった」という小さな返事の鳴り方でした。





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