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蜜柑の星袋

 十月の終わりから十一月の入口へかけての蒲原は、朝だけ空気がきゅっと締まって、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本すうっと通ります。昼になると日なたはまだ温かいのに、日陰へ足を入れると、そこだけ別の季節が待っているようでした。みかん畑の葉は厚く、裏の白い粉が光をはね返して、薩埵峠の影は長い帯になって町を撫でています。海のほうでは波が低く、しゅう……ざあ……と、遠慮がちに息をしていました。

 幹夫は八つ。朝の縁側で靴をそろえながら、窓辺の並びを見ました。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 風がくれば、からり、ときん。 風がなければ、黙る。

 幹夫は、黙ることにも少し慣れてきたはずなのに、今日は胸の奥がそわそわしていました。そわそわは、音じゃなく、匂いの待ち方でした。

 台所から祖母の声がしました。

「幹、今日はみかんだよ。霜が降りる前に、いいのから取る。霜は甘くするけど、皮を痛めるからね」

 霜――という言葉に、幹夫の胸がきゅっと縮みました。霜は白くてきれいなのに、触ると痛い顔を持っています。きれいなものが痛いとき、幹夫の心はいつも少し迷子になります。

「こういち、呼んでいい?」と幹夫が言いました。 “呼んでいい”を口にしただけで、胸の中に細い道が一本できました。道があると、息が通ります。

「呼んでおいで」と祖母は言いました。「みかんはね、見てくれる人が多いほど、よく甘くなる」

 見てくれる人が多いほど甘くなる――その言い方が、幹夫には少し分かる気がしました。灯籠の灯も、並ぶと道になる。稲架の琴も、風が通ると歌になる。みかんも、誰かの目が触れると、黄色が深くなる気がするのです。

 こういちはすぐ来ました。袖をまくった手首は秋の冷たさで少し白く、でも目はちゃんと蒲原の色でした。

「みかん、取るの?」「うん。霜の前に」

 二人は籠を持って、みかん畑の斜面へ上がりました。斜面は思ったより急で、足の裏が土を掴むたび、ぎゅっ、と小さく鳴ります。鳴るのは土が生きている証拠みたいで、幹夫の胸の奥が少しだけ落ち着きました。

 みかんの木の下へ入ると、匂いが変わりました。葉の青い匂いと、土の湿った匂いと、その奥に、黄いろい甘さの匂い。匂いは目に見えないのに、胸の中へ真っすぐ入ってきます。入ってくると、胸の奥の空洞がいちどだけ温かくなりました。

 祖母が言いました。

「いいのからね。軸を傷めないで、くるりと回して取るんだよ」

 幹夫は一つ、手を伸ばしました。実は手のひらにころんと乗って、意外に重い。重いのに、丸くて、柔らかい重さです。丸い重さは、銀の輪の冷たい重さと違って、どこか安心の重さでした。

 くるり。 ぷつり。

 軸が切れる音が、小さくしました。

 その“ぷつり”を聞いた瞬間、幹夫の胸がひゅっと冷えました。糸電話のぷつん、藁が切れたぷつっ、灯籠の火のぷつん――切れる音は、いつも胸の底の冷たいところを叩きます。

 でも、みかんは落ちませんでした。手のひらに残って、ちゃんと温かい。

 ――切れたんじゃない。移ったんだ。

 幹夫は胸の中でそう言って、冷えたところへ、みかんの温かさをそっと当てました。

 こういちは隣で、葉の間から黄いろい実を探していました。

「葉っぱの裏、白いね」「うん。粉が光る」

 光る粉は、七夕のチョークの粉みたいで、幹夫は一瞬、教室の匂いを思い出しました。教室の匂いは紙の匂いで、紙の匂いは手紙の匂い。手紙を思い出すと、胸の中に父の声が薄く浮かびます。

 幹夫は籠にみかんを入れながら、ふと、枝の奥に一つ、少し色の薄い実を見つけました。まだ青みが残っていて、片側だけが黄色い。

 幹夫はそれに手を伸ばして、止まりました。

 ――まだ、甘くないかもしれない。 ――でも、これ、ぼくみたいだ。

 甘くなりたいのに、なりきれない日。笑いたいのに、笑うとちくりとする日。待ちたいのに、待つと息が詰まる日。そんな日が、幹夫にはまだたくさんあります。

 幹夫は、その実をそっと取って、籠のいちばん上に置きました。上に置くのは特別にするためではなく、潰したくなかったからです。潰したくないものほど、人は上に置きます。

 昼前、畑の端で少し休みました。海が見えるところで、駿河湾の光が、みかんの皮の光と重なって、黄色が二重に見えました。

 祖母が、傷のあるみかんを一つ剥いて、二人にくれました。皮を指で破ると、

 ぷち。

 小さな音がして、匂いがいっぺんに開きました。匂いは、ただ甘いだけではなく、どこか少し酸っぱくて、鼻の奥の奥まで届きます。届くと、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく“息の通る筒”になりました。

 幹夫はみかんを二つに割りました。房が並んだ断面が、白い線で放射の形を作っていて、幹夫にはそれが、ちいさな星図みたいに見えました。中心から外へ、白い道が何本も伸びている。

 ――みかんの中にも、道がある。

 幹夫の胸がこつん、と鳴りました。道があるなら、遠さはただの壁じゃない。道があるなら、通れる日がある。通れない日もあるけれど、道の形だけは消えない。

「……これ、星みたいだね」と幹夫が言うと、こういちは房を見て、うなずきました。

「ほんとだ。白い道がいっぱい。月の道みたい」「月の道」幹夫は繰り返して、海の上の月の道を思い出しました。あの道は、掬えないのに見える。見えるから、歩ける気がする。歩けないのに、息が通る。

 幹夫は房を一つ口に入れました。甘さが舌の上に広がって、喉の奥がじん、と熱くなりました。熱いのは、うまいからだけじゃありません。うまい、と言える自分が、今日は少しだけ許せたからです。

 こういちが言いました。

「父さん、みかん好き?」「……好きだった」と幹夫は言ってしまって、胸がちくりとしました。“だった”と過去にすると、父が遠くへ行ってしまう気がする。でも“好きだ”と言い切ると、今ここにいない現実が刺さる。どっちも刺さるなら、刺さり方の少し柔らかいほうを選ぶしかありません。

 祖母が、何でもないふうに言いました。

「好きだよ。今も。あの人は、甘いものに弱いんだ」

 “今も”という二文字が、幹夫の胸にふっと布をかけました。布があると、ちくりが針ではなく縫い目の痛みに変わります。痛いけれど、強くする痛み。

 家へ戻ると、台所に新聞紙が広げられて、みかんの皮が薄い帯になって並べられました。祖母が言いました。

「皮を干すよ。香りは、しまっておくと眠るけど、干すと生きる。父さんに送るなら、皮がいい」

 幹夫は、胸の奥でこつん、と鳴りました。匂いは遠くまで行ける――祖母が稲の小包のときに言った言葉が、みかんの皮に繋がりました。

 こういちが、空の蛍瓶を指さして言いました。

「それ、匂い入れられる?」幹夫は瓶を手に取りました。透明の瓶は空っぽなのに、指先を近づけると、どこか夏の名残りがありました。蛍を返した夜の“返した手触り”が、瓶の壁に薄く残っているような気がするのです。

「入れられるかも」と幹夫は言いました。

 幹夫は乾いたみかんの皮を、細くちぎって瓶に入れました。皮は軽くて、入れるとき、さら、さら、と小さな音がします。音は小さいのに、瓶の中で増えて、まるで小さな風が生まれるみたいでした。

 瓶の口を布で覆って、麻ひもで結びました。あの旅ひも――米の小包を結んで、父の手に触れて、戻ってきた麻ひもです。結び目ができると、指先に硬い瘤が当たって、幹夫の胸がこつん、と鳴りました。

 ――結び目は、道の印。

 祖母が言いました。

「それは、星袋だね」「……星袋?」「うん。匂いの星を入れる袋。夜に開けたら、胸の中で光る」

 幹夫は、瓶の中を覗きました。見えるのは乾いた皮の薄い欠片だけ。光ってはいません。けれど、見えない光がある気がしました。見えない光は、夜光虫の光に似ています。暗いから見える光。

 夕方、こういちが帰るころ、薩埵峠のほうから風がひとすじ降りてきました。

 窓辺の青い星が、からり。 銀の輪が、きん。

 そのあと、軒下で干し柿がとん、と鳴るのではなく、今日は干しているみかんの皮が新聞紙の上で、かさり、と鳴りました。紙の音は、封筒の音に似ていました。

 ――匂いの封筒。

 幹夫は胸の中でそう呼んで、星袋の瓶をそっと抱えました。抱えると、瓶は冷たく、でも冷たいのに、鼻の奥にはみかんの甘さがふっと残りました。

 夜、灯を消して布団に入る前、幹夫は瓶の布を少しだけずらしました。

 ふわっ。

 見えないのに、はっきり分かるものが出てきました。 みかんの匂いが、暗い部屋の空気を一枚だけ黄色くしました。黄色は目に見えないのに、胸の奥が温かくなるのが分かりました。

 幹夫は、胸の中で小さく言いました。

 ――父さん。 ――ここは、みかんの匂いだよ。

 返事はありません。けれど返事がなくても、匂いが胸へ届いている。届いているなら、父へも、いつか届くかもしれない。届かない日もある。届かない日は、瓶の布を閉じればいい。封筒を閉じるみたいに。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。

 幹夫は、その二つの音と、みかんの匂いを、胸の中で並べました。音は道。匂いは道。道が二本あると、遠さは少しだけ薄くなります。

 幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「みかんを とりました」 「なかが ほしみたいでした」 「かわを ほして びんに いれました」 「においの ほしぶくろ です」 「こんど おくります」 「こっちは きょう からり と きん でした」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。みかんも、すぐ甘くなるわけじゃない。青いところが残っていても、日なたと風で、ゆっくり色が深くなる。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと思いました。

 ――匂いは見えないのに、届く。 ――届くものがあるなら、待てる。 ――星袋は、閉じても、捨てない。

 窓辺で青い星が、もう一度だけ、からり。 銀の輪が、きん。

 その返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、みかんの甘い匂いと音の通る筒のままでした。

 
 
 

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