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蝕まれる契約

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月29日
  • 読了時間: 6分

 北関東の郊外にある町工場「大和精工」――創業四十年、社員数わずか二十名の小さな部品メーカーだが、高い技術力を誇り、多くの大手自動車メーカーの部品加工を請け負ってきた。創業者の大和洋二は、息子の大和丈(じょう)と共に丹精こめてこの町工場を育て上げた。その誠実な仕事ぶりに信頼を寄せる企業も多く、長らく堅実に経営してきたのである。

 ところが近年、国内外の厳しい市場競争が激化し、大手メーカーのコスト削減圧力が中小企業にいっそうのしかかっていた。大和精工が主力取引先としている自動車部品メーカー「大央自動車部品」も例外ではない。新社長が就任して以来、徹底した構造改革を進めており、そのしわ寄せが下請企業をじわじわと追い込んでいた。

「親父、また大央から仕様変更だって」

 事務所の一角、書類の山に埋もれながら必死にメールをチェックしていた丈が険しい顔で言った。最近は契約後の仕様変更が当たり前のように届く。それも、納期は据え置きか、短縮されるケースばかりだ。追加コストも補償されるはずがない。

「仕様変更の理由は何だって?」 「コストダウンに向けた設計見直し……いかにもありきたりな文面さ。もちろん納期は今までどおりの厳守を要求している」

 大和洋二は苦渋の表情でうなった。長年やってきて、こんなにも度重なる無理難題を押し付けられたことはなかった。一方的な変更は下請法でも問題視されるが、相手は業界を牛耳る大央自動車部品だ。逆らって取引を切られれば、町工場は一瞬で干上がってしまう。

 翌週、大和親子は大央自動車部品の購買部門に呼び出された。応接室に入ると、新しく購買部長に就任したという男が待っていた。年の頃は四十代半ば、やや痩せた顔つきに冷徹さを宿した細い目が印象的だった。

「初めまして、大央自動車部品・購買部長の水口です。今回はわざわざお越しいただきありがとうございます」

 丁寧な口調ではあるが、その声には熱がこもらない。名刺を受け取りながら、大和親子は一抹の不安を覚えた。

「今回、弊社ではさらなるコスト削減が必要です。具体的には次の納品分から単価を一律一〇%引き下げていただきたい」

 水口は笑顔を見せずに言い放った。その声には不退転の決意がにじんでいる。

「一〇%……それはあまりにも急すぎるのではないでしょうか。下請法でも契約後の不当な減額は問題になる可能性が――」 「大和社長。我々も生き残りをかけて必死なんです。世界的なコスト競争を戦っている。ここで協力できるパートナーかどうかを見極めたい」

 水口の表情からは、一切の譲歩する気配が感じられない。大和洋二は喉がつまったように声を失い、丈は悔しそうに唇を噛んだ。

 相談に行きたくとも、公正取引委員会や中小企業庁に駆け込めば、あっという間に大央に噂が伝わるだろう。そうなれば、取引停止にされかねない。下請企業がいつも抱えている葛藤は、まさにここにあった――理不尽な要求に耐えるしかないのか、それともこのまま泣き寝入りするのか。

 しかし大和親子にとって、この町工場は先代の苦労と多くの従業員の汗で築いた大切な家族のようなものだ。大央の要求に従い、単価を下げ続ければ技術力を確保するための投資もできなくなる。人件費を削れば熟練工たちが逃げてしまう。そうなれば町工場の強みは失われ、廃業の道しか残されない。

 ある夜更け、町工場の一角で丈は一人、旋盤を眺めながら考えていた。金属を精密に削り出すこの機械こそが大和精工の象徴。職人の技能と機械の力が合わさってこそ、高品質な製品が生まれる。その技術を守り抜くことが、自分の使命であり、父の誇りでもあった。

「……やられっぱなしでいいのか」

 丈の脳裏に浮かぶのは、大央以外の取引先開拓という一手。これまで安定を優先して、大手の恩恵に甘えてきた側面もある。だが今のままでは、いつまでたっても一方的な下請けいじめは終わらない。代金減額、仕様変更、支払い遅延――下請法に触れる行為は多々あれど、どこにも訴えることができずに苦しんでいる中小企業は多いはずだ。

 丈は意を決して町の商工会議所の中小企業支援窓口へ駆け込んだ。匿名という形で相談ができると聞き、思い切って動き出したのだ。

 しばらくして、大央自動車部品の購買部に微妙な変化が起こり始めた。公正取引委員会からの「匿名通報」に関する調査が入ったのだ。もちろん大和精工だけが通報しているわけではない。大央系列の下請企業数社からも同時期に苦情が寄せられたのだろう。

 水口購買部長は即座に動揺した。下請法違反の疑いで公取から事情聴取ともなれば、会社の評判にも大きな影響が出る。彼は慌てて関連する社内文書やメールを洗い出し始めたが、一部では仕様変更の押し付けや代金減額のやり取りがはっきり残っていた。 上層部はこうした事態を重くみて、水口に対して「極力、事を荒立てるな」との命を下した。だが、水口自身はコスト削減を掲げて購買部長のポストに就いた手前、後には引けない。社内外の圧力のはざまで、激しく葛藤する日々が続いた。

 大和精工にも、公取からヒアリングの要請があった。丈は正直に、これまで大央から受けてきた仕様変更や不当な返品、支払い遅延などの事例を資料として提出した。父・洋二は「大央に知られたら取引はどうなる」と気が気ではなかったが、丈は逆に吹っ切れていた。

「もし切られたら……それはそれで仕方ないさ。どのみち今のままじゃ、うちは長くはもたない。だったら、この機会に一度、正々堂々と勝負するべきじゃないか」

 大和精工としてはリスクの高い決断だ。しかし、下請けいじめという不正をいつまでも見逃していては、真の成長は得られない。丈の覚悟は固かった。

 大央自動車部品への公取の調査は数カ月続き、下請法違反の疑いが指摘されるに至った。具体的には契約後の不当な代金減額や仕様変更、無料サービスの強要、それに類する行為が複数認められたのだ。

 やがて大央の経営陣は記者会見を開き、再発防止策を約束する。部長の水口は表舞台には立たなかった。購買部門の責任者として事実上、更迭されたという噂が流れていた。

 事件後、大和精工の経営は一時不安定になったが、丈は複数の新規取引先を開拓するため動き回った。商社や海外の企業とも商談を進め、地道に一歩ずつ営業範囲を広げていく。いつまでも大央の下請けに依存しない――小さいながらも、自社の技術を信じ、新たな戦略で勝負するのだ。

「親父、見ててくれ。俺たちの工場は、まだまだ先に進める」

 丈は旋盤を撫でながら、そうつぶやいた。 暗い雲の向こうから光が射すかのように、町工場に再び活気が戻り始める。大央からの受注は以前より減ったが、その分、大和精工の名を聞きつけた他企業からの発注が少しずつ増えているのだ。

 ここで培った職人の技術は、どの大手にも真似できない価値がある。下請法違反のような圧力に屈するだけが道ではない――そう気づいたとき、初めて本当の未来が見えるのかもしれない。

 下請いじめの闇を照らすのは、一つの小さな行動だ。それは一社だけでは変えられない。しかし、勇気を出した者たちの声が集まれば、大きなうねりとなる。大和精工の挑戦はまだ始まったばかりだ。自らの技術を武器に、どんな逆風の中でも、その刃は鈍ることはないだろう。

 ――これが、挑戦し続ける町工場の、生きる証である。

 
 
 

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