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西草深の「西」のいち


 朝の西草深は、ほうじ茶の香りでできていました。路地のすじは細い針金みたいにのびて、瓦屋根の上をこぼれた光が、畑の大葉をひとつずつ撫でていきます。八歳の幹夫は、雨上がりの地面にしゃがんで、石ころの地図をならべていました。山の肩に賤機山(しずはたやま)がかぶさって、浅間さんの鳥居は、朝の空に赤い鉛筆で線をひいたみたいに立っています。

 そのときです。どこからか、紙のようで、草のような、うす緑の札がひらりと落ちてきました。拾い上げると、葉脈みたいな金いろの字で、たしかにこう書いてあります。

 — 至急 西草深町 町名管理室(草の戸籍課) 昨夜の風により、「西」の字の下の一本が脱落。 このままでは夕日の方角が迷子になります。 拾得した場合は、浅間さん石段下の町名石へ、はめ戻し願います。    (担当:子ぎつね郵便)

 幹夫は、目をぱちくりさせました。「字の一本が、なくなったの?」

「そう、なくなったのさ」

 石垣の上から、白い耳だけが先にのぞきました。つぎに、赤い小さな前掛けをした子ぎつねが、するりと降りてきます。尾はきちんと梳かれて、先っぽが風鈴みたいに光っています。

「ぼくは浅間さんの稲荷の配達係。西草深の『西』は、夕方になると毎日、日の落ちる方角へ小さくお辞儀をするんだけど、昨夜の南風でいちばん下の棒がどこかへいってしまってね。棒が一本足りないと、字は立っていられない。夕日も『どちらが西か』わからなくなる」

「西がないと、夕日はどこへ沈むの?」

「ときどき駿府のお堀のほうへ、ときどき巴川のほうへ、今日はきっと商店街のシャッターの中へ。困るだろう?」

 幹夫はうなずきました。夕焼けがシャッターの中へしまわれてしまうなんて、なんだかさびしい話です。

「棒は、どんな棒だろう」

「ただの棒じゃだめさ」 子ぎつねは、幹夫の手から札を見て、鼻でそっと押しもどしました。「『字になる棒』は音を持っていなくちゃ。言葉は音で立っているからね」

「音の棒?」

「そう。音の棒は、町じゅうの細い音を三つ束ねて作る。一本は朝の音、一本は昼の音、一本は夕方の音。三本をより合わせて、細い一本にするのさ」

 幹夫は立ちあがりました。ポケットにはお弁当、ふろしきにはてるてる坊主の紐が一本。子ぎつねは肩のところにちょこんととまり、二人はまず朝の音を探しに出ました。

   *

 朝の音は、浅間通り商店街のはずれにありました。魚屋の前、まだ氷の白い湯気が地面を這っているところで、店の人がのれんを出すと、布の端から「しゃらり」と細い音がこぼれます。幹夫はてるてる坊主の紐をほどいて、音をひとすじ、くるりと巻き取りました。

「ひとつ目」 子ぎつねはうなずいて、金色の目を細くします。「つぎは昼の音。これは坂の上だ」

 賤機山のふところへ続く石段を、ふうふう言いながらのぼっていくと、途中の石灯籠に蜂(はち)が一匹、ぶつぶつ話しかけていました。肩の花粉が重たいらしく、翅をすこし休めています。

「昼の音を少し分けてください」 幹夫が頼むと、蜂はえらそうにうなり、胸を張って言いました。「わたしの昼は、百本の花の鐘からできている。百本から一輪ぶんなら許そう」

 蜂が鼻歌をひとふし鳴らすと、灯籠の陰から、ほうじ茶の香りのする細い音が一本、のぼり空気にまじりました。幹夫はそれも紐に巻き取り、結び目をひとつ作っておきます。

「二つ目」 子ぎつねは満足そうです。「さて、夕方の音。これは少し気をつけなくちゃ。夕方は、もう西が迷子だからね」

   *

 西草深の町名石は、浅間さんの石段の下、細い草の影に寄りかかっていました。町名はくっきりと読めますが、「西」の下のいちばん下の横棒だけがすっぽり抜けて、字の底がすこし冷たそうに見えます。

「夕方の音は、ここに近い。だれかが持っている」

 日が西に傾きかけると、路地の端が金いろになって、屋根の上に細い帯のような光が走りました。その帯の上を、つばめが一本の線になって飛んでいきます。つばめは空の字を書くのが上手で、ときどきひらがなの「し」や「つ」を作って遊びます。

「つばめさん、夕方の音を知りませんか」 幹夫が手をふると、つばめは輪を描いて降りてきました。「夕方の音? この町なら、太鼓の皮の中にすこし、影の長さの中にすこし、そして……」

「そして?」

「そして、子どもの『ただいま』の口のかたちの中に、いちばんきれいなのがある」

 幹夫は胸のあたりがあたたかくなりました。家に帰るときの「ただいま」のかたち。それなら、ちゃんと言えるかもしれません。

「帰りがけでいい。いまは光の棒が沈みはじめてる。棒がないと、夕日はどこへでも落ちるから」

 つばめの言葉に、町名石の影がすこし震えました。幹夫は息を整えて、口の中で小さく「ただいま」と言ってみます。すると、声と一緒に、銀の細い線が一筋、息にまじって出てくるではありませんか。それは棒というより、糸のように細い光の音です。

「それだ」 子ぎつねがぱっと尾を震わせました。「朝の布、昼の花、夕方のただいま。三つの音をより合わせよう」

 幹夫は、てるてる坊主の紐に巻き取っていた二本と、いま出てきた一本を、指先でそっと合わせました。三本は最初、勝手な方向へ行きたがりましたが、やがて手の中で「しゅる」と鳴って、一本の細い棒になりました。棒は透明で、よく見ると、表面に布の織り目と花粉と、そして「ただいま」の口のしるしが流れています。

「はめるよ」

 幹夫は町名石の前にしゃがみ、欠けている「西」の底に、その棒をそっとあてがいました。ぴたり、というよりは、ふわり、という感触でした。棒は石の中へ吸いこまれるように入り、同時に、石の字が息をひとつ吸いました。

 その瞬間でした。町じゅうの影が、すこし背筋を伸ばしたのです。屋根の上の光の帯は、まっすぐ賤機山の肩をなで、遠くの空は、どこが西かをはっきり思い出しました。夕日は迷子をやめ、浅間さんの鳥居を赤く通りぬけて、日本平の向こうのほうへ、ゆっくりと沈んでいきます。

「できた」 幹夫は小さく言いました。子ぎつねはくるりと輪を描いて、尾で町名石をそっと撫でました。字の底が、うすい金のいろで一度だけ点滅します。

「これで、この町は今夜もちゃんと夜になれる。ありがとう、幹夫くん」

 子ぎつねは前掛けの中から、小さな切手を一枚、取り出しました。切手は透明で、草の葉のかたちをしています。中央に、ごく細い横棒が一本、光っています。

「『西』の切手だよ。迷子になりそうなとき、心の中の地図に一枚貼ると、夕方がきちんとやってくる」

   *

 帰り道、幹夫は浅間通りの角で、黒はんぺんの匂いに足を止めました。揚げたてを一枚、紙に包んでもらい、ふうふう言いながらかじります。舌の上で海が一度だけ拍手して、すぐに静かになりました。

 家の門をくぐると、幹夫は大きな声で言いました。「ただいま!」

 その「ただいま」は、さっきよりすこし太く、すこしあたたかい音になっていました。台所から「おかえり」という返事がかえってきて、鍋のふたが嬉しそうに震えます。幹夫は胸の中の地図に、子ぎつねの切手をそっと貼りました。切手はいちどだけ淡く光り、心の中の西の方角を、草の匂いで印(しる)しました。

 夜。西草深の路地は、星の粉で薄くまぶされます。浅間さんの石段の上には、風が座っていて、ゆっくりと足をぶらぶらさせています。町名石の「西」は、ちゃんと底で踏ん張り、字の中で小さく音を鳴らしていました。

 子ぎつねが障子のすきまから顔を出して、片目をつぶります。「明日の朝、もし『草』のなかばがくしゃみをしたら、こんどは草の字の曲がりを伸ばしに行こう。町というのは、ときどき、字のどこかが疲れるのさ」

 幹夫はうなずきました。眠りながら、心の地図にもう一本、細い横棒が増えていくのを感じます。棒は音でできているから、夢の中でも鳴ります。鳴るたびに、町がすこし整って、夕焼けがぴたりと肩に合うのです。

 そして朝。西草深の空はまた、ほうじ茶の香りでできていました。幹夫は路地に出て、石ころの地図を今度は少しだけ西へずらしました。賤機山の影がやさしく伸び、浅間さんの鳥居が、今日の一本目の赤い線を空へ引きました。

 町は、字と音でできています。 字の底に一本さえあれば、夕日はまちがえません。 幹夫はポケットの切手を指でなぞり、胸のなかの西が、ちゃんとそこにあることをたしかめました。

 
 
 

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