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許認可の裏切り

 雨の午後、山崎行政書士事務所のガラス扉が、遠慮がちに二度叩かれた。

 入ってきた男は、作業服の上に濃紺のジャンパーを羽織っていた。五十代半ば。日に焼けた顔、節の太い指、深く刻まれた眉間の皺。いかにも現場を知る建設会社の社長という風貌だった。

 男は名刺を差し出した。

 柏木建設株式会社 代表取締役 柏木誠司

「建設業許可の更新をお願いしたいんです」

 声は低く、丁寧だった。

「期限はいつですか」

「十九日後です」

 山崎は少しだけ眉を上げた。

「かなり差し迫っていますね」

「前に頼んでいた先生が急に入院されまして。社員も下請もいます。許可が切れたら、うちは終わりです」

 柏木の隣には、灰色のスーツを着た男が座っていた。

「専務の大槻です」

 大槻守。

 柏木より十歳ほど若い。銀縁眼鏡をかけ、笑みは柔らかいが、目だけは笑っていない。

「山崎先生のところは、建設業許可の実務に強いと聞きましてね。新規も更新も、変更届もきっちり見てくれるって。こういう時は、地元で信頼できる山崎行政書士事務所さんに頼むのが一番だと」

 持ち上げ方が妙に滑らかだった。

 山崎は軽く会釈し、渡された書類を広げた。

 許可通知書、決算変更届、工事経歴書、役員の略歴書、下請契約書、請求書、入金記録。

 ひと通り揃っている。

 揃いすぎている。

 山崎は、一枚目から違和感を覚えた。

 柏木建設は創業四十年の地元企業だった。道路補修、河川工事、学校の改修、災害復旧。町の人間なら誰でも一度はその社名を見たことがある。誠司もまた、町内会に寄付をし、祭りでは櫓を組み、雪の日には除雪車を出すことで知られていた。

 だからこそ、書類が美しすぎた。

 泥も、迷いも、現場のにおいもなかった。

「経営業務管理責任者の経歴ですが」

 山崎が言うと、柏木の肩がわずかに動いた。

「平成二十六年から現在まで、代表取締役として常勤、とありますね」

「はい」

「ところが、こちらの古い閉鎖事項証明書では、平成二十八年から二十九年の一年間、代表権が奥様に移っています」

 柏木は黙った。

 大槻がすぐに笑った。

「それは形式上のものです。税金や銀行の都合でね。実際の経営は社長がずっと見ていました」

「形式上で済むかどうかは、提出書類の中で説明が必要です」

「先生、そこはうまく整えてくださいよ」

「整えることと、事実と違うことを書くことは別です」

 大槻の笑みが薄くなった。

 山崎は次の書類を手に取った。

「こちらの下請契約書も気になります。令和元年五月の契約書に、令和三年に商号変更した会社名の角印が押されています」

 柏木が顔を上げた。

 大槻の指が膝の上で止まった。

「それから、工事経歴書にある新月川護岸工事。完成年月は令和二年十一月ですが、添付された現場写真の看板には、令和三年三月の安全週間標語が写っています」

 室内の空気が冷えた。

 柏木は唇を噛んだ。

 大槻は、初めて笑うのをやめた。

「山崎先生」

 大槻が静かに言った。

「うちには六十人の社員がいます。下請を入れれば百人以上です。細かい日付や印鑑で止まったら、生活が壊れる人間が出る」

「だからこそ、正確に出す必要があります」

「役所はそこまで見ませんよ」

「私は見ます」

 柏木が深く息を吐いた。

「先生、私は嘘をつくつもりはありません。ただ、昔の書類は雑です。古い会社ですから、埃もあります」

「埃なら払えば済みます」

 山崎は書類を閉じた。

「ですが、隠した泥は、いつか腐ります」

     *

 その三日後、山崎行政書士事務所に一通の封筒が届いた。

 差出人はない。

 中には写真が五枚入っていた。

 夜の工事現場。

 柏木建設のロゴが入ったダンプ。

 ヘルメットをかぶらず作業する男たち。

 解体された古い病院の外壁。

 粉じんを浴びたまま運び出される廃材。

 そして最後の一枚には、山中の谷に黒い土砂が流し込まれている様子が写っていた。

 写真の裏に、赤いボールペンで一文だけ書かれていた。

 この会社を通すな。

 山崎はしばらく、その文字を見つめた。

 行政書士は、依頼者の秘密を守る職責を負う。

 だが、違法の疑いがある申請を、そのまま通すための道具ではない。

 依頼者を守るとは、依頼者の嘘を守ることではない。

 山崎は写真を一枚ずつ封筒に戻し、柏木建設へ電話を入れた。

     *

 柏木建設の本社は、古い国道沿いにあった。

 事務所の壁には、創業者である柏木の父の写真が掛けられている。受付横には、地元小学校から贈られた感謝状、消防団への寄付状、災害復旧の表彰状。

 善良な会社の顔だった。

 だが、奥の会議室では怒鳴り声が響いていた。

「誰がこんなものを送った!」

 大槻が写真を机に叩きつけた。

 柏木は立ったまま、顔を青くしていた。

「山崎先生、これは何かの嫌がらせです」

「写真に写っているダンプは、御社の車両ですね」

「ロゴなんか貼ろうと思えば誰でも貼れる」

「旧榊原病院の解体現場ですか」

 その名を出した瞬間、柏木の目が揺れた。

 大槻が山崎を睨んだ。

「先生、調査ごっこはやめてもらえませんか。あなたの仕事は更新書類を作ることです」

「その書類に虚偽があれば、作れません」

「虚偽なんかない」

「では説明してください」

 大槻の口元が歪んだ。

「行政書士が正義の味方にでもなったつもりですか。守秘義務ってものがあるでしょう」

「あります」

 山崎は静かに答えた。

「だから私は、まず依頼者である柏木社長に確認しています」

 柏木は椅子に座り込んだ。

 顔から血の気が失せていた。

「社長」

 山崎が言った。

「この写真の現場に心当たりはありますか」

 柏木は答えなかった。

 代わりに、大槻が低い声で言った。

「社長は疲れている。先生、今日は帰ってください。更新の件は、予定通り進めてもらいます」

「進めるかどうかは、事実確認の後です」

「期限が切れたら、あんたのせいだからな」

 大槻の声には、もう敬語がなかった。

 山崎は立ち上がった。

「許認可は、会社の看板を守るためのものです。犯罪の目隠しに使うものではありません」

 柏木がその言葉に反応した。

 目だけが、縋るように山崎を見た。

 助けてくれ。

 そう言っているように見えた。

     *

 その夜、山崎は旧榊原病院の跡地へ向かった。

 そこは町外れの山道を上った場所にあった。十年前に閉院し、廃墟となっていた建物は、半分ほど解体されている。周囲には仮囲いがされていたが、一部は倒れていた。

 雨に濡れた地面には、重機の轍が深く残っていた。

 山崎がライトを向けると、谷側に黒い土が積まれていた。鼻を刺すような薬品臭がした。

 その時、背後で缶が転がる音がした。

「誰だ」

 暗がりから現れたのは、作業着姿の老人だった。

 白髪まじりの髭、赤い鼻。酒臭い。

「先生か。あんた、山崎行政書士事務所の人だろ」

「私をご存じですか」

「町で噂になってる。柏木の更新を引き受けた先生だってな」

「あなたは」

「安西。昔、柏木建設で現場監督をしてた」

 安西は、崩れたブロックに腰を下ろした。

「あの会社は、昔はまともだった。誠司も悪い男じゃない。悪い男じゃないから、最悪なんだ」

「どういう意味ですか」

「悪人は自分で悪いことをする。誠司は、人に悪いことをさせられて、最後に黙る」

 山崎は黙って聞いた。

「奥さんが死んだ時もそうだった」

「奥様?」

「令子さんだ。誠司の女房で、大槻の姉。会社の金の流れを調べてた。産廃、裏金、名義貸し。全部、あの女が気づいた」

「亡くなったのですか」

「現場の階段から落ちた。事故ってことになった」

 安西は笑った。

 その笑いは、ひび割れたガラスのようだった。

「でもな、あの階段は落ちる前から壊されてた。俺は見た。見たのに、黙った。誠司も黙った。会社を守るためだとさ。娘には『母さんは不注意だった』と嘘をついた」

「娘さんがいるのですね」

「澪だ。あの子は父親を憎んでる。でもな、憎んでる人間を見捨てられないってのは、地獄だよ」

 雨が強くなった。

 安西は山の奥を指さした。

「蛇ヶ谷って知ってるか」

「水源地に近い谷ですね」

「あそこに造成工事を入れる話がある。表向きは資材置き場。実際は汚染土と解体廃材の捨て場だ。柏木の許可が更新されれば、その名義で動く。失敗したら、全部誠司の責任になる」

「誰が仕組んでいるのですか」

 安西は濁った目で笑った。

「会社を食うのは、外の悪党じゃない。身内だよ」

     *

 翌朝、二通目の封筒が届いた。

 中には、銀行振込の控え、下請契約書の写し、そして一枚のメモが入っていた。

 蛇ヶ谷造成 柏木名義で許可更新後に着工 責任は柏木誠司に集約 大槻・青柳興産は表に出ない

 最後に、震えた字でこう書かれていた。

 父を止めてください。

 山崎はその文字を見て、匿名の主が誰なのかを悟った。

 その日、事務所の終業間際に、若い女が現れた。

 黒いスーツに、濡れた髪。二十代後半。目の下には眠れない夜の影が濃く落ちていた。

「柏木澪さんですね」

 山崎が言うと、女は少しだけ笑った。

「やっぱり、わかりましたか」

「二通目の字で」

「一通目は、わざと乱暴に書いたんですけど」

「乱暴な字ほど、書いた人の癖が出ます」

 澪は椅子に座った。

 手には小さな紙袋を握っていた。

「行政書士って、依頼者の味方ですか」

「味方です」

「じゃあ、父の味方ですね」

「はい」

「違法なことをしていても?」

「違法なことから遠ざけるのも、味方の仕事です」

 澪は目を閉じた。

 涙は流さなかった。

「父は弱い人です。人がいいんじゃない。弱いんです。社員が困っていると言われれば金を出す。下請が泣けば無理な契約を飲む。叔父に脅されれば黙る。母が死んだ時も、黙った」

「お母様のことを知っているのですか」

「全部ではありません。でも、母は事故ではなかったと思っています」

 澪は紙袋から古い手帳を出した。

「母の手帳です。死ぬ前日に、こう書いてありました」

 開かれたページには、細い字で記されていた。

 守に会社を渡してはいけない。 誠司は止められない。 澪だけは守る。

「守というのは、大槻専務ですね」

「母の弟です。私の叔父です」

 澪は唇を噛んだ。

「叔父は、会社を食い物にしています。父はそれを知っている。でも、見ないふりをしてきた。今回の更新もそうです。書類を綺麗に整えて、許可をつなげて、その後で蛇ヶ谷の工事を始める。父の印鑑で、父の名前で」

「なぜ警察ではなく、私に」

「警察に出しても、父は逃げる。叔父はもっと逃げる。でも、建設業許可が止まれば、蛇ヶ谷は動かない。父が大きな犯罪に巻き込まれる前に、止められる」

「父親を裏切ることになります」

 澪は山崎をまっすぐ見た。

「私は父を売りたいんじゃありません」

 声が震えた。

「父に、これ以上、自分を売ってほしくないんです」

     *

 更新申請の提出期限まで、残り五日。

 柏木建設の会議室には、関係者が集められた。

 柏木誠司。

 大槻守。

 経理担当者。

 古参の現場監督。

 そして、柏木澪。

 澪が入ってきた瞬間、柏木の顔色が変わった。

「澪……どうしてここに」

「山崎先生に呼ばれたの」

 大槻は舌打ちした。

「部外者を入れるな」

「私は取締役です」

 澪が静かに言った。

「登記上は、まだね」

 大槻の目が細くなった。

 山崎は書類を机に並べた。

「更新申請について、現時点ではこのまま提出できません」

「何だと」

 大槻が立ち上がった。

「理由は三つあります。まず、経営業務管理責任者の経歴に説明不能な空白があります。次に、工事経歴書に記載された複数の工事で、実績の裏付け資料に矛盾があります。三つ目に、下請契約書の一部が、後日作成された可能性が高い」

「可能性で会社を潰すのか!」

「会社を潰すのは、虚偽の書類です」

 大槻が机を叩いた。

「偉そうに言うな! あんたは紙を見るだけだ。現場を知らない。社員の給料日も、下請の請求も、銀行の返済も知らないだろう!」

「知りません」

 山崎は答えた。

「だからこそ、書類に嘘を書かない。現場の苦しさを言い訳にして、虚偽申請を正当化しない」

 柏木が顔を覆った。

「先生……うちは、もう後がないんです」

「後がないから、嘘を出すのですか」

「社員がいる」

「社員を守るために、社員を犯罪の現場に連れて行くのですか」

 柏木の手が震えた。

 大槻が割って入った。

「社長、黙っていてください。山崎先生、あなたには正式に依頼しています。こちらが出せと言っているんです。出してください」

「お断りします」

 その一言で、会議室が凍った。

「山崎行政書士事務所は、通る書類を作る事務所です。通してはいけない書類を、もっともらしく飾る事務所ではありません」

 大槻は笑った。

「正義感か。安っぽいな」

 澪が立ち上がった。

「叔父さん、もうやめて」

「お前は黙ってろ」

「匿名の封筒を送ったのは、私です」

 柏木が顔を上げた。

「澪……」

「違法工事現場の写真も、蛇ヶ谷のメモも、私が送りました」

 柏木の声が掠れた。

「お前が……俺を売ったのか」

 澪の表情が崩れた。

「売ったんじゃない!」

 初めて、彼女の声が裂けた。

「お父さんを止めたかったの! また叔父さんの言いなりになって、また誰かが死んで、また『会社のためだ』って黙る前に!」

「澪、私は……」

「お母さんの時もそうだった!」

 柏木は言葉を失った。

 澪は震える手で、母の手帳を机に置いた。

「お母さんは、叔父さんの裏金を調べていた。産廃の不法投棄も、名義貸しも、全部知っていた。死ぬ前の日、お母さんは私に言ったの。『お父さんは優しすぎるから、最後に悪い人の味方をしてしまう』って」

 柏木の目に涙が浮かんだ。

「令子は……そんなことを」

「お父さんは、何も知らなかったふりをした。事故だって言った。私に嘘をついた」

「お前を守るためだった」

「違う。自分が壊れないためでしょう!」

 その言葉は、刃物のように柏木を刺した。

 大槻が乾いた拍手をした。

「感動的だな。親子劇場は終わりか?」

 澪は叔父を睨んだ。

「蛇ヶ谷の契約書を出して」

「何の話だ」

「父の実印を使って、もう仮契約しているでしょう。青柳興産と」

 大槻の顔から表情が消えた。

 山崎は一枚のコピーを出した。

「こちらです」

 大槻がコピーを奪おうとしたが、山崎は手を引いた。

「柏木建設名義で、蛇ヶ谷造成工事を請け負う内容になっています。締結日は来週。つまり、更新申請が通ることを前提にしています」

「偽物だ」

「そう言うと思いました」

 山崎は録音機を置いた。

 流れたのは、大槻の声だった。

 ――更新さえ通れば、あとは誠司の名前で押せる。

 ――汚染土は蛇ヶ谷へ入れろ。

 ――問題が出たら、社長判断にすればいい。

 ――あいつは昔から黙る。姉貴の時もそうだった。

 柏木がゆっくり大槻を見た。

「守……令子の時も、とは何だ」

 大槻は口を閉ざした。

「答えろ!」

 柏木が叫んだ。

 大槻は鼻で笑った。

「今さら夫面か。姉さんは会社を壊そうとした。お前は止められなかった。だから俺が止めた。それだけだ」

 澪が息を呑んだ。

 柏木の顔が死人のようになった。

「お前が……令子を」

「落ちたんだよ。勝手にな」

「お前が、階段を壊したのか」

 大槻は笑った。

「証拠があるのか」

 その瞬間、会議室の扉が開いた。

 安西が立っていた。

 後ろには、二人の警察官がいた。

「証拠はある」

 安西は震える手で古い携帯電話を掲げた。

「十二年前、俺は録音してた。怖くて出せなかった。誠司、すまねえ。俺もあんたと同じだ。会社のためって言い訳して、人ひとり見殺しにした」

 大槻が椅子を蹴った。

「ふざけるな!」

 彼は澪に掴みかかろうとした。

 柏木が間に入った。

 大槻の拳が柏木の頬を打った。

 柏木は倒れなかった。

 何十年も曲げ続けてきた背中を、その時初めて伸ばした。

「守」

 柏木は血の滲んだ唇で言った。

「もう会社のためとは言わない」

 大槻は警察官に取り押さえられた。

 暴れながら叫んだ。

「お前ら、全員終わりだ! 許可が切れるぞ! 会社も社員も下請も全部潰れる! それで満足か!」

 澪は泣いていた。

 柏木は彼女を見た。

「澪」

「何」

「すまなかった」

 たった一言だった。

 だが、その一言が出るまでに十二年かかった。

     *

 柏木建設の更新申請は、提出されなかった。

 山崎は虚偽の疑いがある書類を破棄せず、事実関係を整理したうえで、柏木に自ら関係機関へ相談するよう助言した。

 柏木は逃げなかった。

 大槻に従っていた過去の不正、名義貸しの疑い、産業廃棄物処理の問題、旧榊原病院の解体現場、そして妻・令子の死について、知っていることをすべて話した。

 会社は業務停止に追い込まれた。

 取引先は離れた。

 銀行は態度を変えた。

 社員の中には柏木を罵る者もいた。

「社長を信じていたのに」

「家のローンがあるんです」

「正義で飯が食えるんですか」

 その言葉を、柏木は黙って受けた。

 山崎はその横顔を見ながら思った。

 正しいことは、人を救うとは限らない。

 だが、間違ったことを続ければ、救えるはずだった人間まで底へ沈む。

     *

 数日後、蛇ヶ谷の造成予定地が捜索された。

 澪も山崎も現場にいた。

 警察、行政、作業員、報道陣。

 山の空気は冷たく、谷底には重い霧が溜まっていた。

 重機が黒い土を掘り返すたび、鼻を刺す臭いが立ち上がった。

 汚染土。

 廃材。

 割れた医療器具。

 腐ったブルーシート。

 そして、コンクリート片の下から、古いヘルメットが出てきた。

 白いヘルメット。

 側面に、黒い油性ペンで名前が書かれていた。

 佐伯亮

 澪が膝から崩れ落ちた。

 佐伯亮。

 柏木建設の若い現場監督で、澪の婚約者だった男。

 半年前、会社の金を持ち逃げしたと噂され、突然姿を消していた。

 澪はずっと信じていなかった。

 父は「忘れろ」と言った。

 大槻は「男を見る目がなかったな」と笑った。

 だが亮は逃げたのではなかった。

 殺され、捨てられていた。

 彼もまた、不正を止めようとしていたのだ。

 柏木はヘルメットを見たまま、声を出せなかった。

 澪は土に手をつき、嗚咽した。

「お父さん……私、父を止めたかっただけじゃない」

 柏木は娘を見た。

「亮を、嘘つきのままにしたくなかった」

 柏木の顔が崩れた。

 初めて、人前で泣いた。

 社長としてではない。

 父としてでもない。

 自分の弱さで妻を失い、娘の恋人を失い、会社を地獄へ渡しかけた、一人の男として。

     *

 半年後。

 柏木建設の看板は外された。

 会社は再建手続きに入り、違法に関与した部門は解体された。大槻は逮捕され、青柳興産との関係も明るみに出た。

 柏木誠司は代表を退いた。

 澪は会社を継がなかった。

 代わりに、残った社員数名とともに、小さな修繕会社を始めた。公共工事ではなく、町の家の雨漏り、壊れた塀、古い倉庫の補修。派手な仕事ではない。だが、契約書も、見積書も、作業報告書も、一枚ずつ正直に作った。

 最初の相談先は、山崎行政書士事務所だった。

「また先生に頼ることになります」

 澪は少し恥ずかしそうに言った。

「今度は、通していい書類ですね」

 山崎が言うと、澪は小さく笑った。

「はい。通していい会社にします」

 事務所の窓の外では、夕方の光がビルの壁に滲んでいた。

 山崎は新しい申請書の表紙を開いた。

 会社名は、澪工房

 代表者欄には、柏木澪の名前があった。

「お父様は」

「現場には出ません。でも、毎朝、倉庫を掃除しています。母の写真と、亮のヘルメットを置いて」

「そうですか」

「先生」

「はい」

「私は、父を裏切ったんでしょうか」

 山崎はしばらく考えた。

「裏切りとは、相手を地獄へ突き落とすことです」

 澪は顔を上げた。

「あなたは、お父様が自分の足で地獄へ入る前に、扉を閉めた」

 澪の目に涙が浮かんだ。

 しかし今度は、こぼれなかった。

     *

 それからも、山崎行政書士事務所には、建設業許可の相談が持ち込まれた。

 新規申請。

 更新。

 業種追加。

 変更届。

 経営業務管理責任者の確認。

 専任技術者の証明。

 工事経歴書の整理。

 多くの依頼者は「通してください」と言う。

 山崎はそのたびに、同じことを伝える。

「書類は、会社を守るためにあります。嘘で許可を取れば、その嘘が会社を食い破ります」

 ある日、事務所の郵便受けに、小さな封筒が入っていた。

 差出人は、柏木誠司。

 中には、たった一枚の紙が入っていた。

 そこには、震えた字でこう書かれていた。

 山崎先生へ。 あの時、更新を通していたら、私は社長ではなく、犯人になっていました。 娘は私を裏切ったのではありません。 私を、人間に戻してくれました。

 山崎はその手紙を、建設業許可の資料棚の奥にしまった。

 紙は、ときに人を追い詰める。

 紙は、ときに人を救う。

 そして許認可とは、ただの役所手続きではない。

 その会社が、誰の人生を背負って進むのかを問う、最後の門なのだ。

 
 
 

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