譲り葉の門
- 2月8日
- 読了時間: 7分

十二月の入口の蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本すうっと通ります。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。
幹夫は八つ。朝の縁側で手ぬぐいを膝に置いたまま、窓辺の並びを一つずつ見ました。
青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪――輪の紐のそばには、松葉が一本、小さく結ばれていて、風が通ると、ひゅう、と言う。
机の上の本には、父から来た匂いのしおりが挟まっていました。みかんの匂いに、焦げの冬がちょっとだけ足されたしおり。鼻の先に近づけると、弱いのに、胸の奥へまっすぐ入ってくる匂いです。
外の風が、縁側の柱を撫でました。
青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 松葉が、ひゅう。
短い会話。 幹夫の胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通る筒になる、あの瞬間。
けれど、今日はその筒の奥に、少しだけ硬いものが残っていました。数日前の、電報の字。 ――ショウガツ カエレズ。 短い言葉は、削られて冷たく見えるのに、白い余白のほうが長くて、長いぶんだけ胸に残ります。
台所から祖母の声がしました。
「幹。今日はしめ縄を綯(な)うよ。年の門を作るんだ」
門。 その言葉が、幹夫の胸をちょん、と叩きました。門は通るもの。通るとき、今までの年とこれからの年の間に、いちど立つ。立つと、胸の中の“足りないもの”も、いっしょに立ってしまう。
「父さん……正月、帰れないんだよね」 幹夫は、言ってしまいました。 言うと胸が痛くなるのに、言わないともっと絡まる気がしたのです。
祖母は、包丁を置く手を止めずに言いました。
「帰れないね。でも、門は作る。作った門は、帰れる日にちゃんと開く。門はね、閉めるためじゃない。待つためだよ」
待つため。 その言い方が、幹夫の胸の固いところに、ふっと布をかけました。
「しめ縄には、譲り葉(ゆずりは)を付けよう。あれはね、いい葉だよ」「ゆずり……は」
ゆずる、という言葉が、幹夫の胸の奥で小さく鳴りました。譲る。譲る、は、手放すみたいで怖い。手放すと、父の匂いが減る気がする。思い出が薄くなる気がする。
祖母は、幹夫の顔を見て、急がない声で言いました。
「譲り葉はね、古い葉っぱが、すぐ落ちないんだよ。新しい葉が出るまで、ずっと残って、枝を守ってる。新しい葉がちゃんと育ったころに、やっと古いのが落ちる。だから“譲り葉”。譲るってのは、忘れることじゃない。次が育つまで、守ってから渡すことだ」
幹夫の胸の中で、硬かった電報の字が、少しだけ丸くなりました。守ってから渡す。なら、父がいないことも、ただの“切れた”ではなく、“どこかで守っている途中”かもしれない。
「こういちも呼んでおいで」 祖母は言いました。「縄はね、一人だとよじれる。二人だと、まっすぐになる」
こういちはすぐ来ました。袖をまくった手首が赤く、でも目はいつもどおり慎重で、踏みこみすぎない目でした。
「しめ縄?」とこういちが言いました。「うん。譲り葉、取りに行く」
二人と祖母は、薩埵峠のふもとの小さな社の裏手へ行きました。冬の山の土は、湿っているのに冷たく、踏むと、くく、と小さく鳴ります。そこに、艶のある濃い緑の葉がありました。葉は厚くて、指で撫でると、ぬめりではなく“硬い光”が手の腹に残りました。
「これが譲り葉」と祖母が言いました。「見てごらん。古い葉っぱが、枝の下のほうで残ってるだろ」
ほんとうに、枝の先には小さな新しい芽があって、その少し下に、大きい葉が何枚も残っていました。古い葉は疲れているように見えない。むしろ、よく踏ん張って、枝を支えているように見えました。
幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。
――父さんも、いま、どこかで踏ん張ってるんだ。
踏ん張ってる、と分かると、いないことの痛みが消えるわけではありません。けれど痛みの形が、針から縫い目へ変わります。縫い目は痛いけれど、ほどけないための痛みです。
「幹夫、葉っぱ、つよいね」とこういちが言いました。「うん……落ちない」「落ちないの、偉い。……でも、落ちるときは、落ちていいんだね」
落ちるときは落ちていい。 その言葉が、幹夫の胸を少しだけ軽くしました。落ちるのは負けじゃない。譲るための落ち方がある。
祖母が言いました。
「折るときは、“ありがとう”だよ」
幹夫は小さく言いました。
「ありがとう」
譲り葉は、ぱち、と硬い音を立てて折れました。ぱち、は、切れる音なのに怖くありませんでした。怖くないのは、折った先に“飾る”という役目が見えているからです。役目があると、切れる音は、終わりの音じゃなくなります。
家に戻ると、土間に藁が広げられました。稲刈りのときの藁。手に刺さって痒い藁。けれど今日は、その痒さが少しだけ優しく感じました。藁は今年の田んぼの匂いを持っている。匂いは、家の匂いです。
祖母は藁を揃え、二筋に分け、両手でねじり始めました。
ぎゅ、ぎゅ。 ぎゅ、ぎゅ。
藁が、一本の太い息になっていく音。
「幹、ここは“押さえる”んじゃなくて“添える”んだよ」 祖母が言いました。「添えると、縄は自分で道を探す」
添える。 幹夫は藁に手を添えました。握りしめると、藁はぷつっと切れる。切れる音を知っているから、幹夫の指は最初、固くなりました。
こういちが横から、いつもの二文字を言いました。
「幹夫、息して」
幹夫は息を吸って、吐きました。藁の匂いと、土の匂いと、冬の乾いた風の匂いが混ざって肺に入り、胸の中の熱い石が少し丸くなりました。丸くなると、指も丸くなる。
幹夫は、藁を“添える”ようにねじりました。すると、藁が藁を呼んで、きれいに一本になっていきました。一本になると、縄は急に“門の線”になります。線ができると、胸の中にも線ができます。線があると、迷子が減ります。
縄の輪ができたところで、祖母が譲り葉と裏白を差し込みました。裏白は葉の裏が白く、冬の光を受けると、ひそひそと光りました。
「ほら、門の羽だ」 祖母が言いました。「新しい年が来ても、古い年がちゃんと支えてるって印だよ」
幹夫は、譲り葉の厚い緑を見つめました。緑は冬でも緑。冬でも残る色。残る色を見ると、父のいない冬も、全部が灰色ではない気がしました。
こういちが言いました。
「これ、鳥みたい。家の入口に鳥が止まってるみたい」「……父さん、鳥の下、くぐれないかな」 幹夫は、声に出してしまいました。
言った瞬間、胸がちくりとしました。くぐれないかもしれない、が一緒に来るからです。でも、祖母はすぐに言いました。
「くぐれるさ。いつか。今日じゃないだけだ」
“今日じゃないだけ” その言い方は、凪の日の「鳴らないだけ」と似ていました。鳴らないのは消えたのではない。今日じゃないのは、来ないと決まったのではない。
しめ縄が出来上がると、祖母は玄関の上に掛けました。縄は丸く、譲り葉が翼みたいに広がりました。門が、家の前に生まれました。
そのとき、薩埵峠のほうから風がひとすじ降りてきました。 譲り葉が、さわさわ。 裏白が、さらり。 窓辺の青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 松葉が、ひゅう。
音が多いのに、騒がしくありませんでした。音が多いのは、家が息をしている証拠みたいでした。
幹夫の胸の奥の空洞は、今、冷たい穴ではなく、いろいろな返事が通っていく筒でした。筒は、一本だけじゃなくてもいい。道はいくつあってもいい。
夜、こういちが帰ったあと、幹夫は机に向かいました。電報の短い字がまだ胸のどこかに固く残っている。でも今日は、その固さの横に、譲り葉の艶が置かれていました。艶は、固さを少しだけ柔らかくします。
幹夫は、譲り葉を一枚、小さな紙に挟んで押し、簡単なしおりを作りました。父からもらった匂いのしおりのように、今度は自分が“緑のしおり”を送ってみたくなったのです。
封筒に、しおりを入れて、短い手紙を書きました。
「とうさん」 「きょう しめなわを つくりました」 「ゆずりは を つけました」 「ふるい はが あたらしい はが でるまで のこるって ばあちゃんが いいました」 「だから まつ って まもる ことかもしれません」 「ゆずりは の しおりを いれます」 「ほんに はさんでください」 「こっちは からり と きん と ひゅう と さわさわ でした」
“早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。けれど今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。譲り葉は、急いで落ちない。新しい葉がちゃんと出るまで、守っている。なら、幹夫の胸も、守りながら待っていい。
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。風がしめ縄を揺らして、さわさわ、と小さく言いました。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 松葉が、ひゅう。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――譲るって、捨てることじゃない。 ――守ってから、渡すこと。 ――だから、今日はまだ、落ちなくていい。
しめ縄の譲り葉が、夜の暗さの中で、艶を失わずにそこにいました。 その艶は、幹夫の胸の筒を、今夜も冷たくしませんでした。





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