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護られた一歩

 日曜の朝、いつもより少しだけ遅く目を覚ました私は、携帯電話を手にしながら、ふと昨晩のニュースサイトに出ていた記事を思い出していた。小売店やコールセンターで働く若い女性が、執拗なクレームや無茶な要求に追い詰められ、それが「カスタマーハラスメント」――通称カスハラだというのだ。


 ちょうど私の勤め先でも、この数年で「カスハラ」という言葉を耳にする機会が増えてきた。ふわりとした響きのわりに、内容は決して軽いものではない。不当な返品要求や長時間の拘束、暴言や侮辱、さらには暴力にも及ぶ場合がある、と上司から聞かされたときは、「そこまで深刻なの?」と眉をひそめたものだった。


 私は都内の総合商社で事務をしている。直接クレームの最前線に立つわけではないが、取引先からの無理難題に困り果てた営業マンが、「もう限界、助けてくれよ」と電話をかけてくるのを何度も聞いてきた。取引相手をお客様扱いする文化は、どこも根強い。だから“限界”に達したと訴える彼らの声は、いつも疲弊の色が濃かった。


 そんな社内の空気が、本格的に変わり始めたのは今年の春先。「カスハラから従業員を守る」と銘打った新マニュアルが配布され、研修が実施された。もともと労務管理にシビアな会社とはいえ、ここまで踏み込むのは初めて。「不当な要求は拒否する」「暴言に対しては毅然と対応する」「必要に応じて警察や弁護士などの専門機関に相談する」――そんな文言が書かれている。


 初めは驚いた。けれど同時に、何かが心にストンと落ちるような安堵感もあった。――それは“当たり前”に思えて、実は誰も言葉にしてこなかったルールだった。


 なぜ、こんな簡単なことが言えなかったのか。会社と従業員を守るはずの規定も、ずっとぼんやりしたまま放置されていた。その歪みが深刻化し、辛い思いをして辞めていく人を、私も何人も見送ってきた。でも、もうそうはさせない――そんな強い意志を感じたのだ。


    ***


 研修の日、会議室に集められた私たちは、プロジェクターで映し出されるスライドを見つめていた。

 「カスハラとは――顧客からの不当な要求や暴言、暴力を指します」

 淡々と読み上げる人事部の女性に、一瞬、息苦しさを覚える。これまでずっと“理不尽に耐えるのが仕事”と見なしていた場面が、実は“違法行為や重大な人権侵害にあたる”可能性があるという。


 私の隣に座る若い営業事務の子は、手元の資料を握りしめていた。彼女は控えめにこう呟いた。

「自分なんて、偉そうに怒鳴られても“お客様だから”って我慢してました。まさか警察に相談していいなんて、思いもよらなかった……」

 彼女はまだ入社三年目。うなずく姿を見て、胸が痛んだ。自分より若い子たちは、もっと強い圧力の中で悩み苦しんでいたはずだ。


 スライドはさらに続く。

 「4.1 初期対応:理不尽な要求や暴言に対しては毅然と“対応の限度”を示す。会話内容や状況を記録する」

 「4.2 エスカレーション:上司や責任者に報告し、必要に応じて法務部・警察・弁護士など専門機関を巻き込む」

 「4.3 事後対応:記録作成、メンタルヘルスケア、再発防止策の検討」


 簡潔な文章が次々と映し出される。しかしその背後には、私たちがずっと目を逸らしてきた現実――理不尽な要求に対し、「本当は断っていいんだ」とは言えずに苦しんできた人たち――がいる。会議室に漂う張り詰めた空気は、まるで呼吸を忘れてしまったようだった。


    ***


 研修を受けた翌週。早速、人事部が社員向けのQ&A説明会を開き、そこではリアルな質問がいくつも飛び出した。

 「長年取引のある相手ほど、強く言えません。でも、“無茶な納期を絶対に飲め”と迫られて、夜中も電話が鳴り続けて……どうすれば?」

 「やはり会社の評判が落ちるのが怖いです。上司から“頼むから今だけ何とかして”と言われることもありました」


 それに対して、法務部の担当者は、「もし夜中に繰り返し電話が入るなど、通常の範囲を超えた拘束があれば記録を取り、すぐに報告を」と答える。「評価を下げられるリスクも確かにあるが、ここで社員を守らなければ、結局は会社の存続に関わるほどの人材流出につながりかねない」とも。


 ――やっと、そこまで踏み込んだ意見が出たか。私は、座ったまま小さく唇を噛んだ。もしかすると、会社にとってもこれは大きな賭けかもしれない。だが、「従業員の健康と尊厳」を守ることをないがしろにしてきたら、未来はない。人事部の担当者も、法務部も、共通の決意をにじませていた。


    ***


 それから数週間後、私のいる部署に一本の電話がかかってきた。

 「もしもし、営業の坂口です。今、お客様からかなり強い調子で“前回トラブルがあったから今回は無料でやれ”と迫られているんですが……」

 定時はとうに過ぎている。坂口くんはまだ二十代半ばの若手社員で、これまでは夜遅くまで客先に頭を下げ続けることも少なくなかったらしい。「マニュアルを使ってもいいでしょうか?」という申し訳なさそうな声が受話器から聞こえる。


 私は深呼吸をして答えた。

 「マニュアル通りにやって大丈夫。無償対応が契約外なら毅然と断って、その上で相手の言葉や状況を記録して。必要なら上司に話してね」

 さらに付け加える。

 「坂口くん一人で抱えないで。私も上司も、そして法務部もいるから」


 電話の向こうで、彼は少し安心したような声になった。

 「ありがとうございます。実は、このまま押し切られたらどうしようって、すごく怖かったんです。でも、会社が“守る”って言ってくれたから……やってみます」


 受話器を置いた後、私は静かに目を閉じた。ほんの一か月前までは、こういった相談ですら「自分のせいでクレームが悪化したら……」と怯えて、誰にも言えない社員が大勢いた。もしかすると、もう既に退職してしまった人もいるかもしれない。それを思うと、やるせなさが胸を突く。しかし、今は確実に変わり始めている。


    ***


 私自身、すぐにすべてが解決すると考えているわけではない。現実には「お客様の怒りを買いたくない」と手探りで動く上司もいるし、長年の商習慣から抜け出せない取引先もあるだろう。それでも、会社が明確な形で「従業員保護」を打ち出したことの意義は大きい。 


 ――お客様を大切にすることは当たり前。でも、“理不尽な行為”まで容認する必要はない。そこを取り違えてきたからこそ、多くの人が鬱々とした気持ちを抱え、時には体を壊し、会社を辞めていった。企業にとっても、その損失は計り知れないはずだ。


 もう一つ印象深いのは、このマニュアルが「事後対応と再発防止策」にもしっかりページを割いていること。受けた社員の心のケア、事件の分析、研修内容の見直し……。これらが継続的に行われないと、結局は絵に描いた餅で終わってしまう。

 “作ったはいいが運用せずに埃を被るマニュアル”なんて、社会にいくらでも転がっている。そうならないために、総務や人事、法務、そして現場が一丸となって取り組む必要があるのだ。


    


 梅雨が明けて、蒸し暑い日が続くようになったころ。休日の朝、私はベランダに出て、小さな紫陽花の鉢植えを眺めていた。しおれかけていた花が、少しずつ色を取り戻している。きっと水と栄養が行き渡れば、もう少し元気になるだろう。


 人間も同じ。理不尽な嵐にさらされ続けて枯れかけていた人たちだって、正しい対応やケアが行き届けば、再び笑顔を取り戻せるはずだ。まるで会社が大きな木陰のように、しっかり従業員を守り育てていくための仕組みが、今ようやく動き出したのだと思う。


 「困ったら言っていいんだよ」――たったそれだけの言葉が、どれほど人の心を救うかを、私は坂口くんとのやり取りで痛感した。言葉だけでなく、“そう言える根拠”としてのマニュアルと仕組みがあることが、どれほど大きな安心感をもたらすかも。


 もちろん、社会全体が一朝一夕で変わるわけではない。カスハラは根深く、法整備や周囲の理解もまだまだ遅れている部分がある。でも、少なくとも「おかしいことにおかしいと言える土台」が整いつつある。――それは、つい昨日までは無かった“新しいスタート地点”だろう。


 この“護られた一歩”を力に変えて、どうか誰もが自分らしく働き続けられますように。紫陽花の鉢を前に、そんな祈りを胸にそっと抱きながら、私は今日も新しい朝を迎えている。

 
 
 

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