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貝殻の白い欠け

 翌朝、幹夫はいつもより早く目が覚めた。起きたというより、浮かんだ。夢の底からふっと水面に出たみたいに、息が自然に入ってきて、布団の重さだけが先に現実だと教えてくる。


 家の中は薄暗かった。障子の向こうが白くなりかけていて、まだ朝の輪郭がはっきりしない。湯気の匂いもしない。味噌汁の匂いもない。ただ、昨日の芋の甘い気配が、台所のほうにうっすら残っている。


 幹夫は音を立てないように、布団の中でつま先を動かした。畳は冷たいはずなのに、まだ触れていないのに冷たさが分かる。冷たさは、指先より先に胸の奥へ来る。


 隣の部屋で、かすかな擦れる音がした。糸が布を引く音。布が布に触れて、ため息みたいに鳴る音。


 母だった。


 幹夫は寝返りを打つふりをして、障子の隙間に目を寄せた。母は膝の上に布を広げ、針を持っていた。顔は横を向いていて、唇が少しだけ噛まれている。考えているときの口だ。幹夫はその口の形を見ると、なぜか自分の喉が乾く。


 母の指先は早かった。針が布に入って、出て、また入って、出る。針穴から糸が通る瞬間だけが、いちばん静かだった。そこだけ時間が細くなって、家全体が息を止める。


 幹夫は、昨日の自分の芋を半分に割ったときのことを思い出した。湯気の弱さ。母の目が逸れたこと。母の箸が寄せただけだったこと。寄せただけなのに、胸がほどけたこと。


 母の手の中にも、そういう「寄せる」動きがあるのだと思った。糸と布を寄せて、ほころびを寄せて、裂けそうなところを寄せて、元に戻している。元に戻るわけではないのに、戻そうとする。


 幹夫は起き上がりたくなった。声をかけたくなった。けれど、声をかけたら母の時間が乱れる気がして、体が固くなった。乱れたら、針が指に刺さるかもしれない。母が痛い顔をするかもしれない。それが怖かった。


 だから、幹夫は「起きた」ことを、できるだけ小さくした。


 それでも畳は、ほんの少し鳴った。


 母の手が止まった。止まった時間が、ひと針分だけ長い。幹夫の胸がきゅっと縮む。


「……起きた?」


 母の声は低かった。怒っているわけでも、優しいわけでもない。朝の声だ。朝はいつも、人の感情がまだ固まっていない。


「うん」


 幹夫はそう言って、障子を少し開けた。母は幹夫の顔を見た。それから、幹夫の足元を見た。裸足。冷える。そう言いたいのだと、幹夫は分かった。けれど母は言わない。言葉は、必要なときに取っておく。


 母は縫い物を膝に置いたまま、手招きした。幹夫は近づいて、母の膝の横に座った。座ると、母の体温が畳を通して伝わってくる気がする。人の体温は、湯気より重い。


 母の手の中の布は、幹夫の服だった。肘のあたりが薄くなって、縫い目がほつれている。幹夫はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。服が悪いのではない。幹夫が大きくなるのが悪いのでもない。痛むのは、母がそれを直しているという事実だった。直しているということは、新しいものが来ないということだ。


 幹夫は布の端に触れた。指先でそっと。母の針がそこにあるのに、触れたいと思ってしまう。触れたくなるのは、幹夫の中の小さな警報が鳴るからだ。ほころびを見たら、指が勝手に動く。


「……手、出さんで」


 母は小さく言った。怒らないように、先に止める言い方。幹夫は指を引っ込めた。引っ込めるとき、ほんの少しだけ寂しい。


 母は針に糸を絡め直し、また縫い始めた。幹夫は黙って見ていた。見ているだけで、なにか手伝っている気がした。見ている目が、母の背中を支える棒になるみたいに。


 ふと、母が針を置いた。


「糸、引っぱって」


 母は糸の端を、幹夫のほうへ差し出した。幹夫は息を止めた。自分が役に立つ。役に立つという言葉は、食べ物みたいに胸に入ってくる。


 幹夫は両手で糸の端をつまんだ。糸は細くて、ほんの少しだけ湿っている。母の指の湿り気だ。母の生活の湿り気。


「ここ、持って。そう。……強すぎんように」


 母の声が、少しだけ柔らかくなる。柔らかい声は、幹夫の背中を軽くする。


 幹夫は糸を引いた。引くと、布が母の膝の上で少しだけ寄った。ほころびが寄って、穴が小さくなっていく。小さくなっていくものを見るのは、安心に似ていた。


 そのとき、幹夫の指先にちくりと痛みが走った。糸ではない。針の先が、幹夫の指にほんの少し当たったのだ。血が出るほどではない。でも、痛みは痛みだ。幹夫は顔をしかめて、声を出しそうになった。


 母はすぐに気づいた。母の目は、幹夫の指先の小さな赤に吸い寄せられる。


「ほら、言わんこっちゃない」


 母はそう言いながらも、責める声ではなかった。母は幹夫の指を取り、口元に持っていって、ちゅっと吸った。幹夫は驚いて固まった。指先が熱くなる。恥ずかしさと、安心と、なんとも言えない甘さが混ざって、胸がいっぱいになる。


「もういい」


 母は指を放して、また針を持った。何事もなかったように。何事もなかったようにすることが、母の優しさの形なのだと、幹夫は思った。優しさは、特別な顔をしない。


 幹夫は自分の指を見た。そこに母の唾の湿り気が残っている。汚いとは思わなかった。むしろ、その湿り気が消えてしまうのが惜しくて、しばらく指を握り込んだ。


 朝ごはんは薄い粥だった。祖母は「今日は風がええら」と言って、窓を少し開けた。潮の匂いが入ってきて、粥の匂いと混ざった。混ざると、どこか遠い気持ちになる匂いだった。


 食べ終わると、母は配給袋を畳み、祖母は鍋を洗い始めた。幹夫は自分の手が空いているのが落ち着かなかった。空いている手は、すぐに余計なことをしそうで怖い。余計なことをして、母の眉間が固くなるのを見るのが嫌だった。


「外、行ってくる」


 幹夫が言うと、母は「遠く行くな」とだけ言った。遠く、という言葉が幹夫の中でふわっと広がる。遠くは、どこからどこまでだろう。駅のほうか。海までか。山のふもとか。父のいる場所までか。


 幹夫は草履を履いて外へ出た。風が顔に触れた。春の風はまだ冷たいのに、冷たさの中に、これから暖かくなる約束みたいなものが混じっている。約束は信用できない。でも、あるだけで少し楽になる。


 旧街道を少し下ると、海のほうの道に出る。波の音が、だんだん近くなる。幹夫は波の音が好きだった。音の高さが一定で、気持ちを急がせないからだ。人の声は急ぐ。汽笛は急ぐ。波は急がない。


 浜辺には、昨夜の波が置いていったものが散らばっていた。流木。海藻。小さな貝殻。時々、どこかの町から流れてきた紙くず。紙くずは、海の匂いがしてもなお、紙の弱さを持っていた。


 幹夫はしゃがんで、貝殻を拾った。白い。内側が少し虹色に光っている。指先でなぞると、ひんやりする。ひんやりは、正直だ。熱いものは嘘をつくけれど、ひんやりはいつもひんやりだ。


 その貝殻は、欠けていた。端が三日月みたいに欠けていて、そこだけ鋭くなっている。幹夫は、その欠けが目に入った瞬間、台所の棚の欠けた茶碗を思い出した。白く光る欠け。欠けているところが、いちばん目立つ。


 幹夫は貝殻の欠けた部分を指でそっと触った。痛い。痛いのに、触ってしまう。痛いと分かっているのに、確かめてしまう。幹夫は自分の中にそういうところがあるのを知っていた。誰かの寂しさを見たとき、目を逸らせない。傷を見たとき、手が伸びる。


 幹夫は貝殻を砂の上に置き、欠けた縁を砂で少しこすった。ざらざら。ざらざら。音が小さくて、気持ちが落ち着く音。貝殻の鋭さが、ほんの少し丸くなる。丸くなったかどうかは分からない。けれど幹夫は、丸くなったと信じたかった。


 背中のほうで足音がした。振り返ると、近所の男が歩いてきた。腕が一本、少し不自然な位置で止まっている。袖が空っぽで、風に揺れる。戻ってきた人だ、と幹夫は思った。戻ってきた、という言い方は、家の中でよく聞く。戻ってきた人、戻らない人、戻る場所がない人。


 男は幹夫を見て、軽く会釈した。


「おう、幹夫んとこの」


 幹夫は胸がどきんとした。自分が「幹夫んとこの」になっている。名前があるのに、家の一部として呼ばれる。嫌ではない。むしろ安心する呼び方だ。家は、幹夫の背中の壁になるから。


「おはようございます」


 幹夫が言うと、男は目を細めた。笑っているのに、どこか痛そうな目。痛そうな目を見ると、幹夫の中の小さな警報が鳴る。


 幹夫は手の中の貝殻を見た。欠けている。欠けているのに光る。欠けているのに捨てられない。欠けているのに、海に洗われて綺麗だ。


 幹夫は、思い切って貝殻を差し出した。


「これ……」


 男は一瞬、何を渡されたのか分からない顔をした。それから、貝殻を見て、幹夫の顔を見た。幹夫は自分の胸の音が聞こえそうで、息を止めた。


「貝殻か。きれえだな」


 男はそう言って、貝殻を受け取った。受け取るとき、残った片腕のほうで、器用に。貝殻が男の手のひらの上に乗った瞬間、幹夫はなぜか泣きそうになった。貝殻は軽いのに、そこに乗ると何かが重くなる。


「欠けてるけど」


 幹夫がぽつりと言うと、男は貝殻の欠けを親指でなぞった。なぞり方が、幹夫が砂でこすったのと似ていた。


「欠けてるのが、ええ」


 男は、笑った。今度は目が少しだけ明るい。明るさが短いのが、余計に胸に刺さる。


「刺さらんように、丸くしといた」


 幹夫が言うと、男は「おう」と言って、少しだけ大げさに頷いた。


「助かる。ありがとな」


 ありがと、という言葉が幹夫の胸に落ちた。落ちるというより、ふわっと浮いた。自分がしたことが、誰かの中で「助かる」になる。助かる、という言葉は、増えるより嬉しいときがある。


 男は貝殻をポケットに入れ、海のほうを見た。海を見ている横顔は、母が遠くを見るときの顔に似ていた。幹夫は、似ていることが少し怖くて、少し安心だった。


「おまえ、ええ子だな」


 男が言った。


 幹夫は返事ができなかった。ええ子、と言われると、胸の奥がくすぐったくなる。くすぐったさは、嬉しさだけじゃない。責任みたいなものが混じる。ええ子でいなければならない、という薄い鎖が、言葉から伸びてくる気がする。


 幹夫はただ、小さく頷いた。頷いて、足元の砂を見た。砂は、誰の足跡もすぐ消してしまう。消してしまうのに、次の足跡を受け入れる。砂は、優しいというより、忙しい。


 男は「じゃあな」と言って歩いていった。袖の空っぽが風に揺れて、波の音と同じくらい静かだった。


 幹夫は、その背中を見送った。見送っているうちに、自分の中で何かがほどけるのを感じた。ほどけたのが何か、幹夫には分からない。ただ、息が少しだけ深く吸えるようになった。


 幹夫は手のひらを嗅いだ。土の匂いではなく、今度は塩の匂いがした。塩の匂いは、寂しい匂いのはずなのに、今日は少しだけ甘かった。母の指先の湿り気と、海の塩気が、どこかで似ている気がした。


 家に帰る道、幹夫は胸の中で小さく鳴っていた警報が、さっきより穏やかになっているのを感じた。鳴り止んだわけではない。鳴り止んだら、きっと幹夫は幹夫じゃなくなる。鳴り続けるから、手が伸びる。鳴り続けるから、誰かの欠けに気づいてしまう。


 蒲原には、サイレンは届かなかった。


 けれど、届くものもあるのだと幹夫は思った。

 針のちくりとした痛み。母の指の温度。砂で丸くした貝殻の縁。ありがとう、という短い言葉。


 それらは全部、ちゃんと届く。ちゃんと届いて、幹夫の中に小さな灯りを残していく。灯りは明るくない。明るくないから、消えない。


 幹夫は、家の戸を開ける前に一度だけ立ち止まった。胸の奥の音に耳を澄ます。今日の自分は、母の眉間を固くさせずに済むだろうか。祖母のため息を増やさずに済むだろうか。


 分からない。


 分からないけれど、幹夫は戸を開けた。

 分からないまま開ける、ということが、生きることにいちばん近いと、幹夫はもう知り始めていた。

 
 
 

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