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赤いポストに眠る声

――幹夫青年の、届かなかったものたちの物語――

 幹夫(みきお)は、朝の空気がいちばん苦手だった。 まだ誰も怒っていないのに、世界がこれから一斉にせわしなくなる予感だけが先に立って、胸の奥がきゅっと縮む。

 駅前のロータリーを抜けると、パン屋の換気扇が甘い匂いを吐き、道路の向こうで新聞の束が紙の音を立てる。幹夫はその音が、なぜだか自分に叱られているみたいに聞こえてしまう。 ——今日もちゃんとやれよ。遅れるな。失敗するな。

 でも本当は、誰もそんなこと言っていない。 幹夫が勝手に、自分の心の中で言っているだけだ。

 市の臨時の仕事を始めて三週間。制服といっても薄いジャンパーを羽織って、点検表を持ち歩く程度のものだ。公園のベンチ、古い案内板、壊れかけた掲示板。 “撤去予定”の札を見つけるたびに、幹夫は小さく息を吐いた。撤去されるものが、何を見てきたのか想像してしまうからだ。

 今朝の目的地は、港へ向かうバス通りの脇にある古い郵便ポストだった。 昔はそこに小さな商店があって、子どもが走って、夕方にはラジオの音が漏れていたらしい。今は空き地と、雑草と、赤いポストだけ。

 赤は、時間の色褪せで少しくすんでいる。 だけど幹夫には、そのくすみがむしろ優しく見えた。何も言わないのに、ずっとそこに立って、誰かの“出したい気持ち”を受け止めてきた色。

 幹夫は脚立を立て、ポストの口を開けた。撤去前の最終確認。中が空であることを確かめ、錠を外し、台座のボルトを点検して——それだけの作業のはずだった。

 けれど、手袋越しに紙の感触がした。

 奥。ほんの奥の隅。 薄い封筒が一枚、角を折って挟まっている。

 幹夫は、息をするのを忘れた。 たった一枚の封筒なのに、何十枚分もの声が詰まっているように感じたからだ。

 封筒は古びていた。切手の色も褪せ、宛名の文字がところどころ滲んでいる。 でも、宛名は読めた。

 ——「静岡市◯◯町 ……幹夫様」

 幹夫は、ぱちんと瞬きをした。 “同姓同名”かもしれない。そんなはずだ。自分宛の手紙が、なぜこの赤いポストの奥に眠っている?

 胸の中に、子どもの頃の記憶が薄く立ち上がる。 父の背中。新聞の紙の音。口数の少ない夕食。 「ありがとう」も「すごいな」も、父からはあまり聞いたことがない。 怒鳴られた記憶はないのに、褒められた記憶もない。 だから幹夫は、いつも誰かの顔色を読んでしまう。読んで、先回りして、自分が傷つかないようにしてしまう。

 幹夫は封筒を、いったん胸ポケットにしまった。 “仕事中に私物を持ち歩くな” そんな決まりが頭をかすめた。でも、その決まりよりも先に、封筒が生き物みたいに体温を帯びた気がして、放っておけなかった。

 撤去作業を終え、赤いポストはトラックに乗せられた。 空き地はいつもと同じ、風だけが通り抜けている。 その風が、幹夫の胸ポケットの中を、そっと撫でた気がした。

1 「届ける」なんて、勝手だろうか

 昼休み、幹夫は事務所の裏手のベンチで、封筒を取り出した。 開ける勇気はない。 でも返すべき場所がわからない。差出人の住所は書いていない。差出人の名前は——父の字だった。

 幹夫の喉の奥が、ひゅっと狭くなる。 父は数年前に亡くなっている。病室での最期の会話も、たいした言葉じゃない。 「無理すんな」 それだけだった。 その言葉すら、幹夫は“役に立てない自分への叱責”のように受け取ってしまって、うまく返事ができなかった。

 ベンチの木目をなぞりながら、幹夫は考えた。 ——父は、何を“今さら”書いたのだろう。 ——自分が知らなかった“父の声”が、この封筒の中に眠っているのだろうか。

 怖かった。 読んでしまったら、取り返しがつかない気がする。 読まなければ、ずっと“もしかしたら優しい言葉があったかもしれない”という希望を抱えたまま生きられる。 けれど、その希望は、針のように胸の内側を刺し続ける。

 幹夫は封筒を握りしめ、指先が少し白くなるのを見て、ふっと笑った。 自分のこういうところが、ややこしい。 優しいふりをして、本当は怖がっている。 怖いのに、放っておけない。

 その日の帰り道、幹夫はあのポストがあった空き地の前を、もう一度通った。 空き地は広く、何もない分だけ、夕方の光がよく溜まっていた。 そこに赤いポストが無いことが、幹夫には妙に寂しく感じられた。

 代わりに、地面の端に小さな看板が立っている。 撤去理由。老朽化。安全確保。 正しい。理屈としては正しい。 でも幹夫は、そこに“誰かの声”が取り残されていることの方が、ずっと怖かった。

 帰宅しても、封筒は机の上に置いたまま、開けられなかった。 夕飯の味も、輪郭が曖昧だった。 湯呑みの縁に唇を当てたときだけ、現実の温度が戻ってくる。

 その夜、幹夫は夢を見た。 赤いポストが、海辺に一人立っている。 誰もいないのに、口だけが開いて、風がそこへ何通も何通も手紙を投げ込んでいく。 ポストは何も言わない。 けれど幹夫には、ポストが泣いているように見えた。

 泣く音はしない。 ただ、錆びた鉄の奥で、声になれなかった声が擦れる感じがした。

 朝、目が覚めると、幹夫は不意に確信した。 ——あの封筒だけじゃない。 ポストの奥には、まだ何か残っていたかもしれない。 ——撤去される前に、確認しきれなかった場所がある。

 幹夫は仕事の前に、整備倉庫へ寄った。撤去品が仮置きされる場所。 赤いポストは、倉庫の奥に横たわっていた。寝かされた赤が、少し恥ずかしそうに見えた。

 幹夫は係員に頭を下げた。 「すみません、昨日撤去したポスト、内部点検で…もう一度中を見ていいですか」 声が震えるのを隠そうとすると、余計に震えた。

 係員は面倒そうに眉を上げたが、幹夫の目を見て、少しだけ態度を柔らかくした。 「手早くね」

 幹夫はポストの底板を外した。 すると、出てきた。封筒が、まとめて。

 細い埃の匂い。紙の乾いた匂い。 そこには十数通の手紙があった。宛名はそれぞれ別々で、差出人もまちまち。 多くは昔の住所で、今もそこに人が住んでいるかどうかも分からない。

 幹夫は、喉の奥が熱くなるのを感じた。 ——これは“仕事”じゃない。 ——でも、放っておけない。

 手紙は、人の気持ちの形だ。 形になった時点で、たぶん、その人は救われたかったのだ。 誰かに。あるいは、自分自身に。

 幹夫は全部を箱に入れ、そっと抱えて倉庫を出た。 抱えた箱は軽いのに、胸の内側は重かった。 重いのは罪悪感と、変な使命感と、——ほんの小さな喜び。 “自分にも、できることがあるかもしれない”という、情けないくらい小さな希望。

2 届かなかった手紙たち

 幹夫は、休日を使って手紙を一通ずつ訪ねることにした。 勝手だと思った。怖かった。怒られるかもしれない。 だけど、紙の角が少し折れているのを見るたびに、あの折り目を作った人の指先が想像できた。 指先は、きっと震えていた。

 最初に訪ねたのは、町の端の古いアパートだった。 宛名の人はもう住んでいなかった。管理人に聞くと、「ずいぶん前に引っ越したよ」とだけ言われた。 幹夫は「そうですか」と頭を下げて、アパートの階段を降りた。 陽の当たらない踊り場が、冷えていた。

 次の家は、表札が変わっていた。 ピンポンを押すと、中年の女性が出てきた。 「……どちらさま?」 幹夫は手紙を見せて事情を説明した。自分でも何を言っているのか分からないくらい言葉がうまく繋がらない。

 女性は数秒黙って、手紙を受け取った。 封筒を見つめる目が、みるみるうちに遠くなる。 「これ、母の字……」 女性は小さく息を吸って、玄関の上がり框にそのまま座り込んでしまった。

 幹夫は慌てて「すみません、急に、こんなの…」と言いかけて、言葉が止まった。 謝るのは違う、と分かったからだ。 これは謝るものじゃない。 この人の中で、何かが長い間閉じていたのだ。

 女性は涙を拭いながら、かすれた声で言った。 「母、亡くなって…もう十年なんです。……手紙、出してたんだ」 それは責める声ではなかった。 むしろ“自分の知らなかった母”に会った驚きと、嬉しさと、悔しさが混じった声だった。

 幹夫はその場で何もできなかった。 ただ、玄関の冷たいタイルが、女性の膝を冷やしているのが気になって、 「…寒いので、膝、冷えますから…」とだけ言った。 変な言い方だ、と自分で思った。けれど女性は、ふっと笑った。

 「あなた、優しいね」

 その一言が、幹夫の胸にゆっくり沈んでいった。 “優しい”と言われると、幹夫はいつも怖くなる。 ——本当の自分は、そんなに立派じゃない。 ——逃げたいだけだ。嫌われたくないだけだ。 そうやって自分を否定してしまう。

 でもその日だけは、否定しなかった。 否定する余裕が無かった。 目の前で人が、手紙一枚で十年分の時間をほどいているのを見たからだ。

 帰り道、幹夫は海沿いの歩道を歩いた。 潮の匂いが、胸の奥の錆を少し洗ってくれる気がした。

3 黄金よりも眩しいもの

 何通目かの手紙を届けた日、幹夫は小さな古本屋に入った。 疲れていた。人の感情に触れると、幹夫はすぐ疲れる。 それでも、放っておくよりはいい。 放っておくと、胸の中に“届かなかったもの”が溜まって、息が詰まる。

 古本屋の奥には、古い絵本と、昔の写真集が並んでいた。 幹夫はそこに、見覚えのある文字を見つける。 父の字に似た癖。 ——似ている、じゃない。父の字だ。

 「幹夫へ」 絵本の見返しに、そう書いてあった。 幹夫は立ち尽くした。 本屋の蛍光灯の白さが、急に眩しくなって目が痛んだ。

 店主は「それ、引き取った古書の中に混じってたんだよ」と言った。 「名入れしてあるし、捨てるのも忍びなくてね。買う?」 幹夫はうまく声が出なくて、何度も頷いた。

 家に帰って、封筒の束と絵本を机に並べた。 不思議だった。 どれも紙なのに、全部ちがう重さがある。

 幹夫はようやく、自分宛の封筒を開けた。 紙が擦れる音がした瞬間、胸がちくりと痛んだ。 痛いのに、やめなかった。

 中の便箋は、短かった。 父らしい。言葉が少ない。

 ——幹夫。 ——うまく言えないが、お前がいると助かった。 ——頼ってしまって悪かった。 ——お前は優しい。だから、自分のことも面倒みろ。 ——お前のやりたいことを、やれ。 ——それで、困ったら帰ってこい。

 幹夫は、そこまで読んで、便箋を胸に押し当てた。 泣き方が分からないみたいに、息が詰まって、肩が小さく震えた。

 “優しい” 父も同じ言葉を使った。 幹夫がずっと怖がってきた言葉。 でも、その言葉は責めるためじゃなく、守るためにあったのだ。 守り方が下手だっただけで。

 幹夫は、声にならない声で「ごめん」と言った。 父に向けてなのか、自分に向けてなのか分からない。 ただ、長い間、何かが胸の奥で固まっていたのが、ゆっくり溶けていく気がした。

 窓の外で、夜の風が鳴った。 それは叱る風ではなく、薄い毛布みたいな風だった。

4 “復活”じゃなく、“循環”のために

 幹夫は、残った手紙をすべて届けきった。 届かなかったものが、届くようになると、世界は派手に変わるわけじゃない。 誰かが奇跡みたいに笑い出すわけでもない。

 でも、ほんの少しだけ、人の目の奥が柔らかくなる瞬間がある。 過去が、いまの自分の首を絞めるのではなく、背中を押すものに変わる瞬間がある。 幹夫はその瞬間を見るたび、胸の奥がじんとした。

 それは、黄金よりも眩しい。 お金じゃない。成功じゃない。 人が自分の時間を取り戻す光だ。

 ポストはもう戻らない。撤去された理由は正しい。 けれど幹夫は、別の形で“受け止める場所”を作りたくなった。

 町の公民館に相談し、簡単な箱を置いてもらった。 「こころの手紙箱」 そう名付けた。気恥ずかしい名前だと思ったが、他に思いつかなかった。 “誰かに出せない言葉”を、まず紙に書けるように。 書いた時点で、少しだけ人は救われる。幹夫はそれを知ってしまった。

 箱の横には、短い説明を書いた。 「宛先がなくてもいいです。出さなくてもいいです。  書いたら、折って入れてください。  月に一度、希望者は自分の手紙を受け取りに来られます」

 誰も来ないかもしれない。笑われるかもしれない。 それでも幹夫は、箱を拭き、鍵を確かめ、置いた。

 その夜、幹夫は自分の手紙を書いた。 宛先は「未来の幹夫」。 内容は、情けないほど普通だった。

 ——怖がってもいい。 ——優しさを疑いすぎるな。 ——誰かの声を聴ける自分を、少しだけ信じろ。 ——疲れたら休め。 ——それでもまた歩ける日が来る。

 書き終えると、紙の上に、ほんの小さな余白が残った。 幹夫はその余白に、父の手紙から借りた言葉を、そっと書き足した。

 ——困ったら帰ってこい。

 誰に向けた言葉なのか分からないまま、でも不思議と胸が温かくなった。 幹夫は手紙を折って、箱に入れた。 箱の中で紙が落ちる音が、小さく、でも確かな音で響いた。

 外へ出ると、夜風が頬を撫でた。 その風は、もう叱る風ではない。 誰かの願いを、静かに運ぶ風だった。

 幹夫は空を見上げて、ひとつだけ息を深く吸った。 息が、胸の奥までちゃんと届く。 それだけで、今日という一日が少し報われた気がした。

 そして彼は、明日もまた、ゆっくり歩くつもりだった。 届かなかったものが、どこかで誰かを苦しくしているなら。 その苦しさを、少しだけほどけるように。 自分自身のためにも。

 
 
 

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