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赤の広場、白い記憶

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月2日
  • 読了時間: 5分

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 モスクワの冬は長い。雪は何度となく降り積もり、街を白いヴェールで覆い尽くす。けれど、そんな白の世界にあっても、「赤の広場(Красная площадь)」という名の場所だけは常に、どこか特別な色彩を放っている。

1. 夜明け前の静寂

 冬のある朝、まだ日が昇らぬうちに、エレーナという名の女性が赤の広場の端に立っていた。空気は凍てつくように冷たい。息を吐くと白く染み、寒さで耳が痛い。それでもエレーナの胸には、ここに来るといつも感じる期待と緊張が入り混じった感情が広がる。

 石畳を踏むと、夜明け前の闇と薄雪の混じった匂いが漂ってきた。スパスカヤ塔(Спасская башня)の大時計が、遠くで一時間を告げる重い響きを放つ。まだ観光客の姿はほとんどなく、広場は街灯にほのかに照らされるだけ。歴史の重みを湛えた赤い壁と雪の白が、モノクロームの景色の中で微かなコントラストを描いていた。

2. 記憶の伝承

 赤の広場といえば、ロシアの歴史を象徴する舞台の一つである。革命の演説が行われ、パレードが練り歩き、無数の人々の声が交差してきた場所。エレーナの祖父もかつては、広場で行列を見守った一人だったという。彼が残した古い写真を見返すと、若き日の祖父が誇らしげに広場を背景に写っている。

 祖父が語った話によると、ソビエトの時代には厳粛な式典が頻繁に行われ、誰もがその行進を固唾をのんで見守ったという。そしてそれ以前、皇帝の時代にはまったく異なる景観だったそうだ。この広場はいつだって“時代”を映し出す鏡のような存在だったのだ。

 エレーナもまた、その鏡に自分を映してみようとする。いまの時代、この広場はどう見えているのか。そして、自分はここで何を感じるのか――。

3. 聖ワシリイ大聖堂の朝焼け

 ほんの少しずつ空が白みはじめ、朝焼けの薄紅色が空に滲(にじ)むころ、赤の広場の東側にはカラフルなタマネギ屋根を持つ聖ワシリイ大聖堂(Храм Василия Блаженного)が姿を現した。雪に覆われたその色彩は、冬の淡い光に照らされて神秘的な雰囲気を纏(まと)う。

 エレーナは大聖堂の前の広場に足を進め、微かに聞こえる修道僧の祈りの声に耳を澄ませる。かつては異教徒に対する勝利を記念して建てられたこの大聖堂が、今では世界中の観光客を魅了し、モスクワの象徴としてそびえ立っている。歴史の層が積み重なり、さまざまな思い出がこの場所に染み込んでいるのだろう。

4. 凍える昼下がりの賑わい

 やがて朝が明けると、広場には多くの人々が集まりはじめた。観光バスが続々と到着し、ガイドの旗に従って人波が広がる。マトリョーシカ人形を売る露店や、ホットドリンクの屋台も並び、冬の冷たい空気にかすかな活気が漂う。

 エレーナはその様子を見つめながら、露店でスイートブリン(甘いパンケーキ)を買って口にする。身体の中が温まり、雪のちらつく赤の広場がほんの少しやわらかく感じられる。「観光地」という一面と、「歴史の舞台」としての一面と――両方が同居している風景が、彼女の目にどこか愛おしく映る。

5. グム百貨店の光

 広場の一角には、豪奢(ごうしゃ)な建物が連なるグム百貨店(ГУМ)がそびえ、イルミネーションで飾られた窓が雪明かりに浮かび上がっている。かつて社会主義の時代には、物資不足に悩まされた人々が長蛇の列を作った場所でもある。しかし今では豊富なブランド品が並び、異国の観光客も多い。

 エレーナは百貨店のアーケードを歩き、吹き抜けから見下ろす。上階では大きなクリスマスツリーが飾られ、下階では子どもたちが遊んでいる。白亜の屋根越しに赤の広場を望むと、歴史の重厚感と現代の明るさが奇妙に調和して見えた。

6. 夕暮れの静寂

 日が傾き始めると、再び冷たい風が吹きはじめる。冬のモスクワは暗くなるのが早い。再び石畳が薄暗く染まり、赤の広場はオレンジや青の街灯に照らされ、異世界のような光景を作り出す。観光客の数も減り、少し物悲しい雰囲気が漂う。

 エレーナはスパスカヤ塔の下を通りかかる。尖塔(せんとう)の先端が夜空の残光に溶け込み、シルエットだけがくっきりと浮かんでいた。その足元では、高齢の路上音楽家がバラライカを奏でている。ソビエト時代の懐かしい歌なのか、あるいは古い民謡なのか、しんみりとした旋律が広場に染み込んでいく。

7. それぞれの赤

 赤の広場――その名には「美しい広場」「尊い広場」という古語の意味が含まれているとも言われる。また、革命や共産主義を象徴する「赤」を連想する人も多い。しかし、この場所は時代ごとに色を変え、その度ごとに“赤”とは違ったニュアンスを帯びながら人々の記憶に刻まれてきた。

 冬の夜、ライトに照らされるクレムリンの壁は、深紅というよりは茶褐色の影を宿し、雪は白を通り越して青みを帯びて見える。エレーナはその微妙な色合いを目に焼き付けながら、ゆっくりと広場を後にした。まるで、一枚の絵画の中を歩いているような感覚に包まれる。

8. 明日へ続く灯

 スパスカヤ塔の時計が鳴り響く。夜風がエレーナの髪を揺らし、広場から伸びる石畳の道を急がせる。どこかでホットワインを売る屋台が、甘い香りとともに残り火をぱちぱちと焚(た)いていた。

 彼女はふと立ち止まり、赤の広場を振り返る。祖父が愛したこの場所も、今は自分の時代の光で輝いている。その光は決して一色ではない。白と赤、そして人々の想いが幾重にも重なり合って、唯一無二の情景を作り出しているのだろう。

 ――いつまでも、この広場の赤は変わらない。そして、何度見ても、必ず新しい発見がある。

 そう思いながら、エレーナは火照った頬に冷たい手をあて、雪道を遠ざかっていく。振り向いた先に広がるのは、昔と今、そして未来が溶け合うモスクワの中心地。「赤の広場」という名前が示す色は、記憶と歴史、そして人々の息づかいを包み込んだ、永遠の“赤”なのかもしれない。

(了)

 
 
 

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