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農地転用の罠

 その町は、地図の端で干からびているように見えた。

 名は、夕凪町。

 海から遠く、山にも近すぎる。田んぼは広いが、耕す者は年々減り、夏になっても用水路の水音より草刈り機の音の方が寂しく響く。若者は出ていき、残った老人たちは「昔はよかった」と言いながら、誰も昔へ戻れるとは思っていなかった。

 その夕凪町で、太陽光発電施設を建てる計画が持ち上がった。

 計画地は、町の北側に広がる農地二十数筆。

 かつては「日向原」と呼ばれ、米と麦がよく育つ土地だった。だが今は、半分以上が耕作放棄地になっている。背の高い雑草が風に揺れ、壊れたビニールハウスが骨のように残っていた。

 山崎行政書士事務所に相談が持ち込まれたのは、蒸し暑い六月の午前だった。

「農地転用の手続きをお願いしたいんです」

 そう言って名刺を差し出したのは、若い男だった。

 株式会社グリーンリンク地方創生 事業開発部長 霧島大吾

 三十代半ば。白いシャツに紺のジャケット。話し方は柔らかく、口元には常に笑みがある。だが、その笑みは相手を安心させるためというより、相手に考える時間を与えないためのものに見えた。

 隣には、夕凪町長の秘書だという女が座っていた。

 名は、瀬尾真理。

 薄化粧で、眼鏡の奥の目はよく動く。山崎が書類に目を落とすたび、彼女は霧島の反応を確かめていた。

「町おこしです」

 霧島は言った。

「遊休農地を活用し、再生可能エネルギーで町に新しい収入を作る。地元雇用も生まれます。町長も前向きです」

「計画地はすべて農地ですね」

「はい。地権者の同意はほぼ取れています」

「ほぼ、というと」

 霧島は一瞬だけ笑みを浅くした。

「数名、反対している方がいます。ですが、感情的な反対です。先生には、手続きを正確に進めていただきたい」

 山崎は資料を確認した。

 事業計画書。

 土地利用計画図。

 排水計画。

 地権者同意書。

 農地転用許可申請に必要な資料の案。

 どれも整っている。

 整いすぎていた。

 山崎行政書士事務所では、許認可、農地転用、契約書、内容証明、相続関係など、地域の生活と事業に関わる書類を扱う。依頼者のために手続きを進めることは仕事だ。だが、通すためだけに都合の悪い事実を見ないことは、仕事ではない。

「地元説明会の議事録がありますね」

「はい」

「反対意見がほとんど記載されていません」

 霧島はすぐに言った。

「建設的な意見のみ記載しました。怒号や中傷まで書く必要はないでしょう」

「反対理由が環境や排水、災害リスクに関わるなら、記録すべきです」

「山崎先生」

 霧島は身を乗り出した。

「この町は、何もしなければ死にます。反対派はいつもそうです。新しいことには全部反対する。農地を守れと言いながら、自分たちは耕さない」

「だからといって、手続きの記録を薄めることはできません」

 瀬尾真理が静かに言った。

「先生は、中立に見てくださると聞きました」

「中立というより、事実に沿って進めます」

 山崎は資料を閉じた。

「農地転用は、土地の使い道を変える手続きです。そこに生活してきた人の不安も、事業者の計画も、どちらも紙に残ります。都合のよい資料だけで進めることはできません」

 霧島の笑みが、ほんの少しだけ冷えた。

     *

 夕凪町の日向原へ行くと、反対派の看板が並んでいた。

 太陽光はいらない。

 農地を壊すな。

 水を汚すな。

 その中に一枚だけ、異様な看板があった。

 また埋める気か。

 山崎は、その言葉に足を止めた。

 反対派のリーダーは、仁木重蔵という七十代の農家だった。

 日に焼けた顔、曲がった背中、土の入り込んだ爪。だが、目は若者より鋭かった。

「あんたが、申請を手伝う先生か」

「山崎行政書士事務所の山崎です」

「行政書士ってのは、金をもらった会社の味方だろ」

「依頼を受けて書類を作成する立場です。ただし、虚偽や不自然な資料をそのまま出すことはできません」

 仁木は鼻で笑った。

「綺麗なことを言う」

「反対理由を聞かせてください」

「水だ」

 仁木は用水路を指さした。

「日向原の下には、昔から水脈がある。ここをいじれば、下の集落の井戸がやられる」

「排水計画では、調整池を設けるとあります」

「紙の上ではな」

「ほかには?」

 仁木の顔が強張った。

「あの土地を掘ってはいけない」

「なぜですか」

「掘れば、町が終わる」

 その言い方は、環境保護というより恐怖だった。

「具体的に何が埋まっているのですか」

 仁木は答えなかった。

 代わりに、遠くの林を見た。

「先生。あんた、書類を書くなら覚えておけ。紙に書かれた土地と、本当の土地は違う。紙には地番しかない。だが土の中には、人間の嘘が埋まっている」

     *

 反対運動は、表向きは激しかった。

 説明会では怒号が飛んだ。

「町を企業に売る気か!」

「耕してもいないくせに農地を守るなと言うな!」

「若者の仕事を邪魔するな!」

「お前らは補償金が欲しいだけだろう!」

 農家同士が罵り合い、親戚同士が口をきかなくなり、集落の葬式でも席が分かれた。

 町長の榊原修一は、説明会の壇上で穏やかに言った。

「夕凪町は、変わらなければなりません」

 白髪交じりの整った男だった。元県職員で、町では「堅実な町長」と呼ばれている。

「日向原の太陽光発電事業は、町の未来のためです。もちろん、住民の皆様の不安には誠実に対応します」

 その言葉に、仁木重蔵が立ち上がった。

「誠実?」

 会場が静まり返った。

「榊原。お前の親父も、同じことを言ったぞ」

 町長の顔が、わずかに動いた。

「仁木さん、今は昔の話をする場では」

「昔の話じゃない。土の下にある話だ」

 霧島がマイクを取った。

「根拠のない不安を煽る発言は、手続きの妨げになります」

 仁木は笑った。

「妨げ? そうか。じゃあ俺が死ねば進むな」

 その一言は、会場の空気を凍らせた。

 そして三日後。

 仁木重蔵は死んだ。

     *

 遺体は、日向原の用水路で見つかった。

 雨の翌朝だった。

 水路の底にうつ伏せで倒れていた。頭部に傷があり、警察は足を滑らせて転落した可能性が高いと見た。高齢で、夜間に田の見回りに出たのだろう、と。

 町はざわついた。

 反対派は「殺された」と叫んだ。

 推進派は「不幸な事故を利用するな」と怒った。

 町長は沈痛な顔で会見し、霧島は「手続きは予定通り進める」と言った。

 山崎は仁木の葬儀に参列した。

 焼香を終えた時、仁木の娘が声をかけてきた。

 名は、仁木美緒。四十代後半。町の小学校で給食調理員をしているという。

「父は、事故じゃありません」

「私は捜査機関ではありません」

「分かっています。でも、父は死ぬ前に、これを先生に渡せと言っていました」

 美緒は小さな茶封筒を差し出した。

 中には、古い写真が数枚入っていた。

 昭和の終わり頃と思われる写真。

 夜の農道。

 トラック。

 ドラム缶。

 若い男たちが、日向原の端に穴を掘っている。

 その一枚に、若き日の仁木重蔵が写っていた。

 そしてもう一人。

 町長、榊原修一の父である榊原義一に似た男が、現場を見下ろしていた。

 写真の裏には、震えた字でこう書かれていた。

 日向原には、米ではなく毒を埋めた。

     *

 山崎は、申請資料を最初から見直した。

 地歴調査の項目が薄い。

 「過去に工場等なし」とある。

 しかし、古い地図を見ると、日向原の隣にかつて小さな化学部品工場があった。

 名は、夕凪化成

 昭和末期に廃業。

 公害苦情の記録が数件。

 井戸水の異臭。

 皮膚炎。

 家畜の流産。

 だが、正式な公害事件として大きく扱われた記録はない。

 さらに奇妙なのは、その工場跡地が今は町有地になっていることだった。

 取得時期は、工場廃業の翌年。

 関係資料には、こう記載されていた。

 地域環境改善事業用地として取得。

 改善。

 その言葉の裏に、何かを隠した気配があった。

 山崎は、瀬尾真理に確認した。

「日向原周辺の過去の土地利用について、追加資料が必要です」

 瀬尾は沈黙した。

「町に資料はありますか」

「古い資料は散逸しています」

「散逸?」

「合併や庁舎移転で」

「夕凪町は合併していません」

 瀬尾の目が揺れた。

 山崎は続けた。

「昭和末期の夕凪化成に関する記録が必要です。住民説明会でも、地下埋設物への不安が出ています」

「それを出せば、事業は止まります」

「出さなければ、手続きが歪みます」

「先生」

 瀬尾の声が震えた。

「この町は、ずっとそうして生きてきたんです。歪んだまま、崩れないように」

     *

 霧島は苛立っていた。

「今さら昔の工場の話ですか」

「計画地の地下に産業廃棄物が埋まっている疑いがあります」

「疑いでしょう」

「その疑いを記録せずに申請はできません」

「先生、勘違いしないでください」

 霧島は低い声で言った。

「あなたは調査会社ではない。捜査機関でもない。行政書士でしょう。申請書を整えるのが仕事だ」

「はい」

「なら、整えてください」

「整えるには、欠けている事実を確認する必要があります」

「欠けているんじゃない。書かなくていいことなんです」

 山崎は黙って霧島を見た。

「反対派の老人が死んで、町は不安定になっています。ここで余計な資料を出せば、町はもっと荒れる。企業も撤退する。雇用も補助金も消える。誰のためにもならない」

「地下に有害な廃棄物があるなら、知らないまま工事する方が危険です」

「綺麗事ですね」

「手続きです」

「手続きで町を殺す気ですか」

 山崎は静かに言った。

「手続きで隠したものが、今この町を殺しているのではありませんか」

 霧島の顔から表情が消えた。

     *

 仁木美緒は、父の遺品から古い日記を見つけた。

 そこには、三十年以上前の夕凪町が記されていた。

 夕凪化成は、町に雇用をもたらした工場だった。

 農家の次男三男が働き、町は税収を得た。工場長は祭りに寄付をし、町長だった榊原義一は「産業の時代だ」と胸を張った。

 だが、排水は濁っていた。

 夜中にトラックが走った。

 田んぼの端に穴が掘られ、ドラム缶が埋められた。

 日記には、仁木重蔵の若い字でこう書かれていた。

 義一さんに頼まれた。 町のためだと言われた。 工場がなくなれば皆が困ると言われた。 俺は穴を掘った。 毒だと分かっていた。

 次の頁。

 久江が流産した。 井戸水が臭いと言っていた。 医者は関係ないと言った。 俺は何も言えなかった。

 久江は、仁木の妻だった。

 美緒の母。

 その後、久江は若くして亡くなっている。死因は肝臓の病気とされていた。

 美緒は日記を握りしめて言った。

「父は反対派のリーダーなんかじゃありません。加害者だったんです」

「美緒さん」

「父は、環境を守りたかったんじゃない。自分の罪を掘り返されたくなかった」

 彼女の声には、悲しみより怒りがあった。

「でも、だからって死んでいいわけじゃない。あの人は、最後に話そうとしていたんです」

「誰に?」

「町長に。先生に。そして、私に」

 美緒は涙をこらえた。

「私はずっと、父は正しい人だと思っていた。町のために戦っているんだと。でも違った。父は、母を殺したかもしれない土を、自分の手で埋めた人でした」

 山崎は、何も言えなかった。

 人は、被害者でありながら加害者になる。

 加害者でありながら、最後には被害者のように死ぬ。

 田んぼの泥より、人間の罪は深かった。

     *

 町長の榊原修一は、山崎を町長室に呼んだ。

 壁には、歴代町長の写真が並んでいる。

 その一番古い方に、榊原義一の写真があった。鋭い目をした男だった。

「山崎先生」

 町長は静かに言った。

「この町には、変わる機会が少ないんです。太陽光事業は、その一つです」

「過去の埋設物に関する資料の提出が必要です」

「確証はありません」

「反対派から写真と日記が出ています」

「個人の日記です」

「町に古い記録はありませんか」

 町長は窓の外を見た。

「父は、町を守った人でした」

「夕凪化成を誘致した方ですね」

「雇用を作った。道路を整備した。学校の給食室も建て替えた。誰も飢えずに済んだ。先生、あの時代にはあの時代の事情があったんです」

「毒を埋める事情ですか」

 町長の顔が赤くなった。

「言葉を選んでください」

「では、資料を選ばずに出してください」

「出せば、父の名誉が傷つく」

「住民の健康や土地の安全より、名誉が優先ですか」

 町長は机を叩いた。

「父だけではない!」

 声が部屋に響いた。

「仁木さんも、農協も、工場も、役場も、地権者も、みんな知っていた。みんな少しずつ金を受け取り、少しずつ黙った。誰か一人の罪にできると思いますか」

「だから、町全体で黙ってきた」

「黙らなければ町が壊れていた!」

「黙ったままでも、壊れていたのではありませんか」

 町長は息を荒げていた。

 やがて、力なく椅子に座った。

「あなたは正しい。だが、正しい人はいつも遅れて来る。全部終わってから、紙を持って来る」

「紙は、始まりにもなります」

「何の始まりですか」

「封印を解くための」

 町長は笑った。

「山崎先生。町は、人間の暮らしです。正義の実験場ではない」

「手続きも、人間の暮らしです」

 山崎は言った。

「だからこそ、嘘の上に進めてはいけない」

     *

 山崎は、農地転用の申請を取り下げるよう霧島に求めなかった。

 むしろ、逆だった。

「正式な申請書類に、追加資料を添付してください」

 霧島は耳を疑ったような顔をした。

「何を言っているんですか」

「計画地周辺に古い産業廃棄物埋設の疑いがあること。反対派から提出された写真と日記があること。町の過去資料が未確認であること。地元説明会で地下水汚染への懸念が出ていること。これらを資料として添付し、正式な手続きの場に出します」

「そんなものを出したら、許可が下りるわけがない」

「判断するのは行政庁です」

「先生は依頼者を裏切るんですか」

「裏切るのは、事実を隠した申請を出すことです」

 霧島は怒鳴った。

「申請が止まったら、損害が出る!」

「虚偽や重大な欠落のある申請を進めても、もっと大きな損害になります」

「あなたは何をしたいんだ!」

 山崎は答えた。

「手続きを、手続きとして成立させたいだけです」

 霧島は笑った。

 その笑いには、焦りと侮蔑が混じっていた。

「この町の人間は、みんな汚いですよ。反対派も、推進派も、町長も、農家も。私はただ、その汚い土地を買って、金に換えるだけです」

「それを町おこしと呼んだのですね」

「言葉は飾りです。先生方の書類と同じだ」

「違います」

 山崎は静かに言った。

「書類は飾りではありません。誰が何を隠したかを、後から逃がさないためのものです」

     *

 正式な意見聴取の場は、町の農業委員会の会議室で開かれた。

 出席者は、町の担当者、農業委員、事業者、地権者、反対住民、関係機関の職員。

 空気は重かった。

 机の上には、山崎が整理した資料が置かれていた。

 申請書案。

 土地利用計画。

 排水計画。

 住民説明会議事録の補正案。

 反対意見一覧。

 仁木重蔵の日記の写し。

 古い写真。

 夕凪化成に関する地歴資料。

 町有地取得資料の不備に関するメモ。

 山崎は、事実だけを読み上げた。

 誰かを犯人と決める言葉は使わない。

 誰かを断罪する言葉も使わない。

 行政書士としてできる範囲で、申請に影響し得る事実を整理し、手続きの場へ提出する。

 ただ、それだけだった。

 しかし、その「それだけ」で、会議室の温度が変わった。

 最初に声を上げたのは、老農家だった。

「俺は……金をもらった」

 誰もが彼を見た。

「夕凪化成からだ。迷惑料だと言われた。井戸水が臭くても騒がないように」

 次に、別の地権者が言った。

「うちの父もだ。ドラム缶を見たと言っていた。でも町長の親父に止められた」

 別の女が泣き出した。

「私の兄は、工場で働いてから体を壊した。母は、口に出すなと言った。仕事がなくなるからって」

 美緒が立ち上がった。

「父、仁木重蔵は、埋め立てに関わっていました」

 会議室がざわめいた。

「父は反対運動のリーダーでした。でも、本当は環境を守りたかっただけではありません。自分が埋めたものを掘り返されたくなかった。母が病気になったことも、ずっと自分のせいだと思っていた」

 美緒は資料を握りしめた。

「父は死にました。でも、父だけを悪者にしないでください。この町は、みんなで黙りました。私たちも、その沈黙の上で暮らしてきました」

 町長は、青ざめた顔で座っていた。

 霧島は目を伏せていた。

 農業委員の一人が呟いた。

「これは、農地転用の話じゃないな」

 山崎は静かに言った。

「農地転用の話です」

 全員が山崎を見た。

「土地の使い道を変えるということは、その土地の過去を問うことでもあります。日向原を農地から太陽光発電施設へ変えるなら、土の下に何があるか、誰が何を知っていたか、これから何を調べる必要があるかを避けることはできません」

 その言葉のあと、誰も反論しなかった。

     *

 計画は、その場で止まった。

 正式には、追加調査が必要とされた。

 土壌調査、地下水調査、過去資料の精査、関係機関への報告。

 農地転用許可の可否は、その先の話となった。

 霧島は会議室を出る時、山崎に低く言った。

「あなたのせいで、町は終わりますよ」

「終わるのは、隠したまま進むことです」

「綺麗ですね」

「そうでもありません」

 山崎は答えた。

「これからが一番汚い」

 その通りだった。

 町は荒れた。

 新聞が報じた。

 夕凪町の過去の産業廃棄物埋設疑惑。

 旧工場と町の癒着。

 井戸水汚染の可能性。

 反対派リーダーの死と過去の関与。

 榊原町長は記者会見で頭を下げた。

 だが、住民は許さなかった。

「今さら何を謝る」

「父親の罪を息子が隠した」

「仁木さんだけ死んで、ずるい」

「補償はどうなる」

「うちの家族の病気は関係あるのか」

 町は、封印していた罪を一気に吐き出した。

 吐き出されたものは、毒のように人間関係へ染み込んだ。

 親戚同士が争い、地権者は責任を押しつけ合い、農協の古い役員名簿まで掘り返された。

 正しい手続きは、人を仲良くさせるためのものではない。

 時には、汚れた膿を見える場所へ出すだけだ。

     *

 仁木重蔵の死について、すぐに誰かが逮捕されたわけではなかった。

 事故なのか。

 自殺なのか。

 誰かが手をかけたのか。

 山崎には分からない。

 分からないことは、分からないままだった。

 ただ、仁木が死ぬ前に町長へ電話していたことが分かった。

 録音はなかった。

 通話時間は、十二分。

 そのあと、仁木は日向原へ向かった。

 美緒は言った。

「父は、最後に土を見に行ったんだと思います」

「土を?」

「自分が埋めたものを、本当に掘り返す覚悟があるか、確かめに」

 彼女は日向原を見つめた。

「でも、覚悟なんて、死ぬ直前に作るものじゃないですね。父は遅すぎました」

 山崎は何も言わなかった。

 遅すぎる悔恨でも、何も残さないよりはましなのか。

 それとも、遅すぎるからこそ、残された者に呪いになるのか。

 答えはなかった。

     *

 数か月後、日向原の一部で試掘が行われた。

 立ち会った住民たちは、遠くから重機の動きを見守っていた。

 土が掘り返される。

 黒い水が滲む。

 腐った鉄の匂い。

 油のような膜。

 そして、古いドラム缶が出てきた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 朽ちた缶の表面には、かすかに文字が残っていた。

 夕凪化成

 誰も声を出さなかった。

 町長は膝から崩れ落ちた。

 美緒は目を閉じた。

 霧島は現場にいなかった。株式会社グリーンリンク地方創生は、すでに夕凪町での事業を白紙にしていた。町おこしを掲げた企業は、町が本当に起き上がる前に逃げた。

 だが、さらに深く掘った時、誰も予想しなかったものが出てきた。

 人骨だった。

 小さな骨ではない。

 大人のもの。

 古い作業服の布切れが絡み、錆びた名札が見つかった。

 瀬尾良一

 瀬尾真理の父だった。

     *

 瀬尾真理は、その日、山崎事務所に来た。

 顔は真っ白だった。

「父は、出稼ぎに行ったと聞かされていました」

「瀬尾さん」

「母は、父に捨てられた女として生きました。私は、逃げた父を憎んで育ちました。町長の父、榊原義一さんが母を助けてくれた。私はその恩で役場に入り、榊原町長に仕えました」

 彼女は笑った。

 壊れたような笑いだった。

「助けてくれた人の父親が、私の父を埋めていたんですね」

 山崎は黙っていた。

「父は、工場の作業員でした。日記に名前がありました。廃棄物を埋める作業を拒んだ、と。仁木さんの記録にもありました。『瀬尾が騒いだ。義一さんが連れていった』って」

 真理は震える手で、一枚の紙を出した。

 町の古い内部メモの写しだった。

 瀬尾良一については、県外転出として処理。 家族への対応は榊原が行う。

「これを、町長室の隠し棚から見つけました」

「町長は知っていたのですか」

「分かりません」

 真理は首を振った。

「でも、知らなかったことにしたかったんだと思います。私も同じです。私は町長の秘書として、今回の計画を進めました。古い資料があることを知っていた。全部ではない。でも、何かがあるとは分かっていた」

「なぜ止めなかったのですか」

「怖かったんです」

 真理は目を伏せた。

「町が壊れるのが。自分の人生が嘘だったと分かるのが。父が私たちを捨てたのではないと知るのが。先生、人間は、幸せな嘘より、慣れた嘘を選ぶんですね」

 山崎は答えられなかった。

     *

 夕凪町は、全国ニュースになった。

 太陽光発電施設のための農地転用手続きから、昭和期の産業廃棄物埋設、未解決の失踪、町ぐるみの隠蔽疑惑へ。

 榊原町長は辞職した。

 霧島の会社は「過去の事実は知らなかった」と声明を出した。

 農家たちは、自分たちの土地が汚染されている可能性に怯えた。

 反対派は勝ったのではない。

 推進派も負けただけではない。

 町全体が、自分たちの足元を見失った。

 山崎行政書士事務所には、夕凪町からの相談が相次いだ。

 土地の利用。

 相続した農地の扱い。

 契約書の確認。

 補償に関する記録整理。

 過去の同意書の存在確認。

 山崎は、できる範囲を一つずつ説明した。

「調査や紛争対応には専門家が必要です」

「裁判や賠償の判断は弁護士に相談してください」

「登記が関わる場合は司法書士へ」

「行政手続きの書類整理や申請関係であれば、こちらで支援できます」

 派手な解決はない。

 だが、壊れた町には、まず記録が必要だった。

 誰が、いつ、何を知り、何に同意し、何を隠したのか。

 責任を押しつけるためだけではない。

 二度と「知らなかった」と言えないようにするために。

     *

 冬の初め、日向原には白い防護シートが張られた。

 田んぼでも、太陽光発電施設でもない。

 封印された土を、少しずつ調べる場所になった。

 美緒は、そこへ毎週花を持っていった。

 父のためではない。

 母のためでもない。

 瀬尾良一のためでもない。

 名前の分からない、黙らされた人たちのためだと言った。

「先生」

 美緒は、防護フェンス越しに日向原を見ながら言った。

「父は、許されると思いますか」

「分かりません」

 山崎は正直に答えた。

「ですよね」

「ただ、日記を残しました」

「それで罪が消えますか」

「消えません」

「では、何の意味があるんでしょう」

 山崎は少し考えた。

「残された人が、嘘ではない場所から始められます」

 美緒は黙った。

 やがて、小さく頷いた。

「それだけでも、父にしては上出来です」

     *

 後日、山崎行政書士事務所に一通の封筒が届いた。

 差出人は、瀬尾真理。

 中には、短い手紙と、古い写真が入っていた。

 写真には、若い瀬尾良一が写っていた。

 作業着姿で、赤ん坊を抱いている。

 赤ん坊は、真理だった。

 裏には、こう書かれていた。

 この町で、初めて父の顔を見ました。 父は逃げたのではありませんでした。 それを知るために、町は壊れなければなりませんでした。 山崎先生、申請を止めなかったことを、恨みます。 でも、止めなかったから、父は見つかりました。 感謝はまだできません。 ただ、記録として残します。

 山崎は手紙を読み終え、夕凪町のファイルに収めた。

 表紙には、こう書かれている。

 日向原農地転用申請関係資料 結果:追加調査により手続停止 備考:地歴資料提出により過去公害疑惑が公的手続上に記録

 事務的な文字だった。

 だが、その文字の向こうには、何十年も黙っていた町の叫びがあった。

     *

 農地転用の罠は、企業が仕掛けたものだけではなかった。

 町長が隠したものだけでもない。

 農家が黙ったものだけでもない。

 反対派が掲げた看板の裏にも、推進派が語った未来の裏にも、町おこしという綺麗な言葉の裏にも、それぞれ罠があった。

 それは、過去を掘らずに未来だけを建てられると思う罠だった。

 山崎は、ファイルを棚に戻した。

 窓の外では、駅前の人波がいつものように流れている。

 山崎行政書士事務所の看板は、今日も静かに光っていた。

 申請書は、未来へ出す紙だ。

 だが、その紙に過去を書かない時、未来は必ず腐る。

 日向原には、まだ太陽光パネルは一枚も立っていない。

 代わりに、黒い土の下から、町が捨てた罪が掘り出された。

 町は壊れた。

 だが、初めて本当の地面の上に立った。

 そして山崎は思った。

 手続きとは、許可を取るためだけのものではない。

 誰もが黙ってきた罪を、公の場所へ引きずり出すための、最後の道でもあるのだ。

 
 
 

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