農地転用の罠
- 山崎行政書士事務所
- 5月10日
- 読了時間: 20分

その町は、地図の端で干からびているように見えた。
名は、夕凪町。
海から遠く、山にも近すぎる。田んぼは広いが、耕す者は年々減り、夏になっても用水路の水音より草刈り機の音の方が寂しく響く。若者は出ていき、残った老人たちは「昔はよかった」と言いながら、誰も昔へ戻れるとは思っていなかった。
その夕凪町で、太陽光発電施設を建てる計画が持ち上がった。
計画地は、町の北側に広がる農地二十数筆。
かつては「日向原」と呼ばれ、米と麦がよく育つ土地だった。だが今は、半分以上が耕作放棄地になっている。背の高い雑草が風に揺れ、壊れたビニールハウスが骨のように残っていた。
山崎行政書士事務所に相談が持ち込まれたのは、蒸し暑い六月の午前だった。
「農地転用の手続きをお願いしたいんです」
そう言って名刺を差し出したのは、若い男だった。
株式会社グリーンリンク地方創生 事業開発部長 霧島大吾
三十代半ば。白いシャツに紺のジャケット。話し方は柔らかく、口元には常に笑みがある。だが、その笑みは相手を安心させるためというより、相手に考える時間を与えないためのものに見えた。
隣には、夕凪町長の秘書だという女が座っていた。
名は、瀬尾真理。
薄化粧で、眼鏡の奥の目はよく動く。山崎が書類に目を落とすたび、彼女は霧島の反応を確かめていた。
「町おこしです」
霧島は言った。
「遊休農地を活用し、再生可能エネルギーで町に新しい収入を作る。地元雇用も生まれます。町長も前向きです」
「計画地はすべて農地ですね」
「はい。地権者の同意はほぼ取れています」
「ほぼ、というと」
霧島は一瞬だけ笑みを浅くした。
「数名、反対している方がいます。ですが、感情的な反対です。先生には、手続きを正確に進めていただきたい」
山崎は資料を確認した。
事業計画書。
土地利用計画図。
排水計画。
地権者同意書。
農地転用許可申請に必要な資料の案。
どれも整っている。
整いすぎていた。
山崎行政書士事務所では、許認可、農地転用、契約書、内容証明、相続関係など、地域の生活と事業に関わる書類を扱う。依頼者のために手続きを進めることは仕事だ。だが、通すためだけに都合の悪い事実を見ないことは、仕事ではない。
「地元説明会の議事録がありますね」
「はい」
「反対意見がほとんど記載されていません」
霧島はすぐに言った。
「建設的な意見のみ記載しました。怒号や中傷まで書く必要はないでしょう」
「反対理由が環境や排水、災害リスクに関わるなら、記録すべきです」
「山崎先生」
霧島は身を乗り出した。
「この町は、何もしなければ死にます。反対派はいつもそうです。新しいことには全部反対する。農地を守れと言いながら、自分たちは耕さない」
「だからといって、手続きの記録を薄めることはできません」
瀬尾真理が静かに言った。
「先生は、中立に見てくださると聞きました」
「中立というより、事実に沿って進めます」
山崎は資料を閉じた。
「農地転用は、土地の使い道を変える手続きです。そこに生活してきた人の不安も、事業者の計画も、どちらも紙に残ります。都合のよい資料だけで進めることはできません」
霧島の笑みが、ほんの少しだけ冷えた。
*
夕凪町の日向原へ行くと、反対派の看板が並んでいた。
太陽光はいらない。
農地を壊すな。
水を汚すな。
その中に一枚だけ、異様な看板があった。
また埋める気か。
山崎は、その言葉に足を止めた。
反対派のリーダーは、仁木重蔵という七十代の農家だった。
日に焼けた顔、曲がった背中、土の入り込んだ爪。だが、目は若者より鋭かった。
「あんたが、申請を手伝う先生か」
「山崎行政書士事務所の山崎です」
「行政書士ってのは、金をもらった会社の味方だろ」
「依頼を受けて書類を作成する立場です。ただし、虚偽や不自然な資料をそのまま出すことはできません」
仁木は鼻で笑った。
「綺麗なことを言う」
「反対理由を聞かせてください」
「水だ」
仁木は用水路を指さした。
「日向原の下には、昔から水脈がある。ここをいじれば、下の集落の井戸がやられる」
「排水計画では、調整池を設けるとあります」
「紙の上ではな」
「ほかには?」
仁木の顔が強張った。
「あの土地を掘ってはいけない」
「なぜですか」
「掘れば、町が終わる」
その言い方は、環境保護というより恐怖だった。
「具体的に何が埋まっているのですか」
仁木は答えなかった。
代わりに、遠くの林を見た。
「先生。あんた、書類を書くなら覚えておけ。紙に書かれた土地と、本当の土地は違う。紙には地番しかない。だが土の中には、人間の嘘が埋まっている」
*
反対運動は、表向きは激しかった。
説明会では怒号が飛んだ。
「町を企業に売る気か!」
「耕してもいないくせに農地を守るなと言うな!」
「若者の仕事を邪魔するな!」
「お前らは補償金が欲しいだけだろう!」
農家同士が罵り合い、親戚同士が口をきかなくなり、集落の葬式でも席が分かれた。
町長の榊原修一は、説明会の壇上で穏やかに言った。
「夕凪町は、変わらなければなりません」
白髪交じりの整った男だった。元県職員で、町では「堅実な町長」と呼ばれている。
「日向原の太陽光発電事業は、町の未来のためです。もちろん、住民の皆様の不安には誠実に対応します」
その言葉に、仁木重蔵が立ち上がった。
「誠実?」
会場が静まり返った。
「榊原。お前の親父も、同じことを言ったぞ」
町長の顔が、わずかに動いた。
「仁木さん、今は昔の話をする場では」
「昔の話じゃない。土の下にある話だ」
霧島がマイクを取った。
「根拠のない不安を煽る発言は、手続きの妨げになります」
仁木は笑った。
「妨げ? そうか。じゃあ俺が死ねば進むな」
その一言は、会場の空気を凍らせた。
そして三日後。
仁木重蔵は死んだ。
*
遺体は、日向原の用水路で見つかった。
雨の翌朝だった。
水路の底にうつ伏せで倒れていた。頭部に傷があり、警察は足を滑らせて転落した可能性が高いと見た。高齢で、夜間に田の見回りに出たのだろう、と。
町はざわついた。
反対派は「殺された」と叫んだ。
推進派は「不幸な事故を利用するな」と怒った。
町長は沈痛な顔で会見し、霧島は「手続きは予定通り進める」と言った。
山崎は仁木の葬儀に参列した。
焼香を終えた時、仁木の娘が声をかけてきた。
名は、仁木美緒。四十代後半。町の小学校で給食調理員をしているという。
「父は、事故じゃありません」
「私は捜査機関ではありません」
「分かっています。でも、父は死ぬ前に、これを先生に渡せと言っていました」
美緒は小さな茶封筒を差し出した。
中には、古い写真が数枚入っていた。
昭和の終わり頃と思われる写真。
夜の農道。
トラック。
ドラム缶。
若い男たちが、日向原の端に穴を掘っている。
その一枚に、若き日の仁木重蔵が写っていた。
そしてもう一人。
町長、榊原修一の父である榊原義一に似た男が、現場を見下ろしていた。
写真の裏には、震えた字でこう書かれていた。
日向原には、米ではなく毒を埋めた。
*
山崎は、申請資料を最初から見直した。
地歴調査の項目が薄い。
「過去に工場等なし」とある。
しかし、古い地図を見ると、日向原の隣にかつて小さな化学部品工場があった。
名は、夕凪化成。
昭和末期に廃業。
公害苦情の記録が数件。
井戸水の異臭。
皮膚炎。
家畜の流産。
だが、正式な公害事件として大きく扱われた記録はない。
さらに奇妙なのは、その工場跡地が今は町有地になっていることだった。
取得時期は、工場廃業の翌年。
関係資料には、こう記載されていた。
地域環境改善事業用地として取得。
改善。
その言葉の裏に、何かを隠した気配があった。
山崎は、瀬尾真理に確認した。
「日向原周辺の過去の土地利用について、追加資料が必要です」
瀬尾は沈黙した。
「町に資料はありますか」
「古い資料は散逸しています」
「散逸?」
「合併や庁舎移転で」
「夕凪町は合併していません」
瀬尾の目が揺れた。
山崎は続けた。
「昭和末期の夕凪化成に関する記録が必要です。住民説明会でも、地下埋設物への不安が出ています」
「それを出せば、事業は止まります」
「出さなければ、手続きが歪みます」
「先生」
瀬尾の声が震えた。
「この町は、ずっとそうして生きてきたんです。歪んだまま、崩れないように」
*
霧島は苛立っていた。
「今さら昔の工場の話ですか」
「計画地の地下に産業廃棄物が埋まっている疑いがあります」
「疑いでしょう」
「その疑いを記録せずに申請はできません」
「先生、勘違いしないでください」
霧島は低い声で言った。
「あなたは調査会社ではない。捜査機関でもない。行政書士でしょう。申請書を整えるのが仕事だ」
「はい」
「なら、整えてください」
「整えるには、欠けている事実を確認する必要があります」
「欠けているんじゃない。書かなくていいことなんです」
山崎は黙って霧島を見た。
「反対派の老人が死んで、町は不安定になっています。ここで余計な資料を出せば、町はもっと荒れる。企業も撤退する。雇用も補助金も消える。誰のためにもならない」
「地下に有害な廃棄物があるなら、知らないまま工事する方が危険です」
「綺麗事ですね」
「手続きです」
「手続きで町を殺す気ですか」
山崎は静かに言った。
「手続きで隠したものが、今この町を殺しているのではありませんか」
霧島の顔から表情が消えた。
*
仁木美緒は、父の遺品から古い日記を見つけた。
そこには、三十年以上前の夕凪町が記されていた。
夕凪化成は、町に雇用をもたらした工場だった。
農家の次男三男が働き、町は税収を得た。工場長は祭りに寄付をし、町長だった榊原義一は「産業の時代だ」と胸を張った。
だが、排水は濁っていた。
夜中にトラックが走った。
田んぼの端に穴が掘られ、ドラム缶が埋められた。
日記には、仁木重蔵の若い字でこう書かれていた。
義一さんに頼まれた。 町のためだと言われた。 工場がなくなれば皆が困ると言われた。 俺は穴を掘った。 毒だと分かっていた。
次の頁。
久江が流産した。 井戸水が臭いと言っていた。 医者は関係ないと言った。 俺は何も言えなかった。
久江は、仁木の妻だった。
美緒の母。
その後、久江は若くして亡くなっている。死因は肝臓の病気とされていた。
美緒は日記を握りしめて言った。
「父は反対派のリーダーなんかじゃありません。加害者だったんです」
「美緒さん」
「父は、環境を守りたかったんじゃない。自分の罪を掘り返されたくなかった」
彼女の声には、悲しみより怒りがあった。
「でも、だからって死んでいいわけじゃない。あの人は、最後に話そうとしていたんです」
「誰に?」
「町長に。先生に。そして、私に」
美緒は涙をこらえた。
「私はずっと、父は正しい人だと思っていた。町のために戦っているんだと。でも違った。父は、母を殺したかもしれない土を、自分の手で埋めた人でした」
山崎は、何も言えなかった。
人は、被害者でありながら加害者になる。
加害者でありながら、最後には被害者のように死ぬ。
田んぼの泥より、人間の罪は深かった。
*
町長の榊原修一は、山崎を町長室に呼んだ。
壁には、歴代町長の写真が並んでいる。
その一番古い方に、榊原義一の写真があった。鋭い目をした男だった。
「山崎先生」
町長は静かに言った。
「この町には、変わる機会が少ないんです。太陽光事業は、その一つです」
「過去の埋設物に関する資料の提出が必要です」
「確証はありません」
「反対派から写真と日記が出ています」
「個人の日記です」
「町に古い記録はありませんか」
町長は窓の外を見た。
「父は、町を守った人でした」
「夕凪化成を誘致した方ですね」
「雇用を作った。道路を整備した。学校の給食室も建て替えた。誰も飢えずに済んだ。先生、あの時代にはあの時代の事情があったんです」
「毒を埋める事情ですか」
町長の顔が赤くなった。
「言葉を選んでください」
「では、資料を選ばずに出してください」
「出せば、父の名誉が傷つく」
「住民の健康や土地の安全より、名誉が優先ですか」
町長は机を叩いた。
「父だけではない!」
声が部屋に響いた。
「仁木さんも、農協も、工場も、役場も、地権者も、みんな知っていた。みんな少しずつ金を受け取り、少しずつ黙った。誰か一人の罪にできると思いますか」
「だから、町全体で黙ってきた」
「黙らなければ町が壊れていた!」
「黙ったままでも、壊れていたのではありませんか」
町長は息を荒げていた。
やがて、力なく椅子に座った。
「あなたは正しい。だが、正しい人はいつも遅れて来る。全部終わってから、紙を持って来る」
「紙は、始まりにもなります」
「何の始まりですか」
「封印を解くための」
町長は笑った。
「山崎先生。町は、人間の暮らしです。正義の実験場ではない」
「手続きも、人間の暮らしです」
山崎は言った。
「だからこそ、嘘の上に進めてはいけない」
*
山崎は、農地転用の申請を取り下げるよう霧島に求めなかった。
むしろ、逆だった。
「正式な申請書類に、追加資料を添付してください」
霧島は耳を疑ったような顔をした。
「何を言っているんですか」
「計画地周辺に古い産業廃棄物埋設の疑いがあること。反対派から提出された写真と日記があること。町の過去資料が未確認であること。地元説明会で地下水汚染への懸念が出ていること。これらを資料として添付し、正式な手続きの場に出します」
「そんなものを出したら、許可が下りるわけがない」
「判断するのは行政庁です」
「先生は依頼者を裏切るんですか」
「裏切るのは、事実を隠した申請を出すことです」
霧島は怒鳴った。
「申請が止まったら、損害が出る!」
「虚偽や重大な欠落のある申請を進めても、もっと大きな損害になります」
「あなたは何をしたいんだ!」
山崎は答えた。
「手続きを、手続きとして成立させたいだけです」
霧島は笑った。
その笑いには、焦りと侮蔑が混じっていた。
「この町の人間は、みんな汚いですよ。反対派も、推進派も、町長も、農家も。私はただ、その汚い土地を買って、金に換えるだけです」
「それを町おこしと呼んだのですね」
「言葉は飾りです。先生方の書類と同じだ」
「違います」
山崎は静かに言った。
「書類は飾りではありません。誰が何を隠したかを、後から逃がさないためのものです」
*
正式な意見聴取の場は、町の農業委員会の会議室で開かれた。
出席者は、町の担当者、農業委員、事業者、地権者、反対住民、関係機関の職員。
空気は重かった。
机の上には、山崎が整理した資料が置かれていた。
申請書案。
土地利用計画。
排水計画。
住民説明会議事録の補正案。
反対意見一覧。
仁木重蔵の日記の写し。
古い写真。
夕凪化成に関する地歴資料。
町有地取得資料の不備に関するメモ。
山崎は、事実だけを読み上げた。
誰かを犯人と決める言葉は使わない。
誰かを断罪する言葉も使わない。
行政書士としてできる範囲で、申請に影響し得る事実を整理し、手続きの場へ提出する。
ただ、それだけだった。
しかし、その「それだけ」で、会議室の温度が変わった。
最初に声を上げたのは、老農家だった。
「俺は……金をもらった」
誰もが彼を見た。
「夕凪化成からだ。迷惑料だと言われた。井戸水が臭くても騒がないように」
次に、別の地権者が言った。
「うちの父もだ。ドラム缶を見たと言っていた。でも町長の親父に止められた」
別の女が泣き出した。
「私の兄は、工場で働いてから体を壊した。母は、口に出すなと言った。仕事がなくなるからって」
美緒が立ち上がった。
「父、仁木重蔵は、埋め立てに関わっていました」
会議室がざわめいた。
「父は反対運動のリーダーでした。でも、本当は環境を守りたかっただけではありません。自分が埋めたものを掘り返されたくなかった。母が病気になったことも、ずっと自分のせいだと思っていた」
美緒は資料を握りしめた。
「父は死にました。でも、父だけを悪者にしないでください。この町は、みんなで黙りました。私たちも、その沈黙の上で暮らしてきました」
町長は、青ざめた顔で座っていた。
霧島は目を伏せていた。
農業委員の一人が呟いた。
「これは、農地転用の話じゃないな」
山崎は静かに言った。
「農地転用の話です」
全員が山崎を見た。
「土地の使い道を変えるということは、その土地の過去を問うことでもあります。日向原を農地から太陽光発電施設へ変えるなら、土の下に何があるか、誰が何を知っていたか、これから何を調べる必要があるかを避けることはできません」
その言葉のあと、誰も反論しなかった。
*
計画は、その場で止まった。
正式には、追加調査が必要とされた。
土壌調査、地下水調査、過去資料の精査、関係機関への報告。
農地転用許可の可否は、その先の話となった。
霧島は会議室を出る時、山崎に低く言った。
「あなたのせいで、町は終わりますよ」
「終わるのは、隠したまま進むことです」
「綺麗ですね」
「そうでもありません」
山崎は答えた。
「これからが一番汚い」
その通りだった。
町は荒れた。
新聞が報じた。
夕凪町の過去の産業廃棄物埋設疑惑。
旧工場と町の癒着。
井戸水汚染の可能性。
反対派リーダーの死と過去の関与。
榊原町長は記者会見で頭を下げた。
だが、住民は許さなかった。
「今さら何を謝る」
「父親の罪を息子が隠した」
「仁木さんだけ死んで、ずるい」
「補償はどうなる」
「うちの家族の病気は関係あるのか」
町は、封印していた罪を一気に吐き出した。
吐き出されたものは、毒のように人間関係へ染み込んだ。
親戚同士が争い、地権者は責任を押しつけ合い、農協の古い役員名簿まで掘り返された。
正しい手続きは、人を仲良くさせるためのものではない。
時には、汚れた膿を見える場所へ出すだけだ。
*
仁木重蔵の死について、すぐに誰かが逮捕されたわけではなかった。
事故なのか。
自殺なのか。
誰かが手をかけたのか。
山崎には分からない。
分からないことは、分からないままだった。
ただ、仁木が死ぬ前に町長へ電話していたことが分かった。
録音はなかった。
通話時間は、十二分。
そのあと、仁木は日向原へ向かった。
美緒は言った。
「父は、最後に土を見に行ったんだと思います」
「土を?」
「自分が埋めたものを、本当に掘り返す覚悟があるか、確かめに」
彼女は日向原を見つめた。
「でも、覚悟なんて、死ぬ直前に作るものじゃないですね。父は遅すぎました」
山崎は何も言わなかった。
遅すぎる悔恨でも、何も残さないよりはましなのか。
それとも、遅すぎるからこそ、残された者に呪いになるのか。
答えはなかった。
*
数か月後、日向原の一部で試掘が行われた。
立ち会った住民たちは、遠くから重機の動きを見守っていた。
土が掘り返される。
黒い水が滲む。
腐った鉄の匂い。
油のような膜。
そして、古いドラム缶が出てきた。
一つ。
二つ。
三つ。
朽ちた缶の表面には、かすかに文字が残っていた。
夕凪化成
誰も声を出さなかった。
町長は膝から崩れ落ちた。
美緒は目を閉じた。
霧島は現場にいなかった。株式会社グリーンリンク地方創生は、すでに夕凪町での事業を白紙にしていた。町おこしを掲げた企業は、町が本当に起き上がる前に逃げた。
だが、さらに深く掘った時、誰も予想しなかったものが出てきた。
人骨だった。
小さな骨ではない。
大人のもの。
古い作業服の布切れが絡み、錆びた名札が見つかった。
瀬尾良一
瀬尾真理の父だった。
*
瀬尾真理は、その日、山崎事務所に来た。
顔は真っ白だった。
「父は、出稼ぎに行ったと聞かされていました」
「瀬尾さん」
「母は、父に捨てられた女として生きました。私は、逃げた父を憎んで育ちました。町長の父、榊原義一さんが母を助けてくれた。私はその恩で役場に入り、榊原町長に仕えました」
彼女は笑った。
壊れたような笑いだった。
「助けてくれた人の父親が、私の父を埋めていたんですね」
山崎は黙っていた。
「父は、工場の作業員でした。日記に名前がありました。廃棄物を埋める作業を拒んだ、と。仁木さんの記録にもありました。『瀬尾が騒いだ。義一さんが連れていった』って」
真理は震える手で、一枚の紙を出した。
町の古い内部メモの写しだった。
瀬尾良一については、県外転出として処理。 家族への対応は榊原が行う。
「これを、町長室の隠し棚から見つけました」
「町長は知っていたのですか」
「分かりません」
真理は首を振った。
「でも、知らなかったことにしたかったんだと思います。私も同じです。私は町長の秘書として、今回の計画を進めました。古い資料があることを知っていた。全部ではない。でも、何かがあるとは分かっていた」
「なぜ止めなかったのですか」
「怖かったんです」
真理は目を伏せた。
「町が壊れるのが。自分の人生が嘘だったと分かるのが。父が私たちを捨てたのではないと知るのが。先生、人間は、幸せな嘘より、慣れた嘘を選ぶんですね」
山崎は答えられなかった。
*
夕凪町は、全国ニュースになった。
太陽光発電施設のための農地転用手続きから、昭和期の産業廃棄物埋設、未解決の失踪、町ぐるみの隠蔽疑惑へ。
榊原町長は辞職した。
霧島の会社は「過去の事実は知らなかった」と声明を出した。
農家たちは、自分たちの土地が汚染されている可能性に怯えた。
反対派は勝ったのではない。
推進派も負けただけではない。
町全体が、自分たちの足元を見失った。
山崎行政書士事務所には、夕凪町からの相談が相次いだ。
土地の利用。
相続した農地の扱い。
契約書の確認。
補償に関する記録整理。
過去の同意書の存在確認。
山崎は、できる範囲を一つずつ説明した。
「調査や紛争対応には専門家が必要です」
「裁判や賠償の判断は弁護士に相談してください」
「登記が関わる場合は司法書士へ」
「行政手続きの書類整理や申請関係であれば、こちらで支援できます」
派手な解決はない。
だが、壊れた町には、まず記録が必要だった。
誰が、いつ、何を知り、何に同意し、何を隠したのか。
責任を押しつけるためだけではない。
二度と「知らなかった」と言えないようにするために。
*
冬の初め、日向原には白い防護シートが張られた。
田んぼでも、太陽光発電施設でもない。
封印された土を、少しずつ調べる場所になった。
美緒は、そこへ毎週花を持っていった。
父のためではない。
母のためでもない。
瀬尾良一のためでもない。
名前の分からない、黙らされた人たちのためだと言った。
「先生」
美緒は、防護フェンス越しに日向原を見ながら言った。
「父は、許されると思いますか」
「分かりません」
山崎は正直に答えた。
「ですよね」
「ただ、日記を残しました」
「それで罪が消えますか」
「消えません」
「では、何の意味があるんでしょう」
山崎は少し考えた。
「残された人が、嘘ではない場所から始められます」
美緒は黙った。
やがて、小さく頷いた。
「それだけでも、父にしては上出来です」
*
後日、山崎行政書士事務所に一通の封筒が届いた。
差出人は、瀬尾真理。
中には、短い手紙と、古い写真が入っていた。
写真には、若い瀬尾良一が写っていた。
作業着姿で、赤ん坊を抱いている。
赤ん坊は、真理だった。
裏には、こう書かれていた。
この町で、初めて父の顔を見ました。 父は逃げたのではありませんでした。 それを知るために、町は壊れなければなりませんでした。 山崎先生、申請を止めなかったことを、恨みます。 でも、止めなかったから、父は見つかりました。 感謝はまだできません。 ただ、記録として残します。
山崎は手紙を読み終え、夕凪町のファイルに収めた。
表紙には、こう書かれている。
日向原農地転用申請関係資料 結果:追加調査により手続停止 備考:地歴資料提出により過去公害疑惑が公的手続上に記録
事務的な文字だった。
だが、その文字の向こうには、何十年も黙っていた町の叫びがあった。
*
農地転用の罠は、企業が仕掛けたものだけではなかった。
町長が隠したものだけでもない。
農家が黙ったものだけでもない。
反対派が掲げた看板の裏にも、推進派が語った未来の裏にも、町おこしという綺麗な言葉の裏にも、それぞれ罠があった。
それは、過去を掘らずに未来だけを建てられると思う罠だった。
山崎は、ファイルを棚に戻した。
窓の外では、駅前の人波がいつものように流れている。
山崎行政書士事務所の看板は、今日も静かに光っていた。
申請書は、未来へ出す紙だ。
だが、その紙に過去を書かない時、未来は必ず腐る。
日向原には、まだ太陽光パネルは一枚も立っていない。
代わりに、黒い土の下から、町が捨てた罪が掘り出された。
町は壊れた。
だが、初めて本当の地面の上に立った。
そして山崎は思った。
手続きとは、許可を取るためだけのものではない。
誰もが黙ってきた罪を、公の場所へ引きずり出すための、最後の道でもあるのだ。





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