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迎えの汽笛

 その朝、祖母は握り飯を二つだけ作った。 いつもより小さく、いつもより固く。固く握ると崩れない。崩れないようにする握り方は、言葉を少なくするのと似ている。

「清水まで行くで、腹ぁ減るら」

 祖母がそう言って、布に包んだ。布を結ぶ指が、今日はやけに丁寧だった。丁寧な結び目は、ほどけないようにする結び目だ。

 母は戸口で上着の襟を整え、幹夫の帽子を深くかぶせた。 深くかぶせると、世界が少し暗くなる。暗くなると、見なくていいものが減る。減るのに、胸の中の音は減らない。

「離れるなよ」

 母はいつもと同じように言った。 でも今日は、その言葉が少し違って聞こえた。いつもの縄より、少しだけ太い縄。切れないように、握り目を増やした縄。

 戸口の外で、あの空っぽの袖の男が待っていた。 帽子を手に持って、笑おうとして、笑いきれない顔をしている。笑いきれない顔は、今日も幹夫の胸の奥をそっと撫でた。

「悪いな。……一人だと、間違えるで」

 男はそう言った。 紙切れを握っている指が、少し固い。固い指は、紙より先に痛い。

 幹夫は内ポケットの帳面に触れた。 白い綴じ糸の結び目。 結び目があると、胸の中の警報が少しだけ丸く鳴る。ほどけないでいられる気がするからだ。

 清水へ向かう汽車は、蒲原の匂いを少しずつ置いていった。 海の匂いは濃くなるのに、家の匂いは薄まる。家の匂いが薄まると、幹夫は心細くなる。心細いのに、窓の外の海が青いと、それだけで少し救われる。青は命令しない色だ。

 車内には同じ方向へ行く人が多かった。 荷物は少ないのに、顔だけが重い。 重い顔は、誰かを迎えに行く顔だと幹夫は思った。迎える顔は、嬉しさと怖さを同じ袋に入れて持っている。

 男は窓の外を見ながら、何度も紙切れを確かめた。 確かめるたび、空っぽの袖が揺れる。揺れる布が、今日は少しだけ風に負けていないように見えた。 負けないでいる布を見て、幹夫は自分の帳面を抱えた。抱えると、紙が胸の体温を吸って少し丸くなる。

 清水に近づくと、空気が変わった。 潮の匂いに、油の匂いが混ざる。煤の匂い、縄の匂い、濡れた木の匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。人の声、足音、荷車の軋み。音が混ざると、胸の中の警報もどこに合わせて鳴けばいいか迷って、いったん静かになる。

 駅を降りると、人の流れが一つの方向へ向いていた。 流れは海へ向かう流れだ。 海に向かう人の背中は、みんな少し前のめりで、少し固い。固いのは、倒れないためだ。

 母は幹夫の手を握り直した。 握り直しが、返し縫いみたいだった。一回戻って、また進む握り直し。

「ここは、人多いでな」

 母が言った。 その声は低い。低いのに、今日は倒れない低さだった。倒れない低さは、港の匂いに負けない声だ。

 港の手前で、どん、と遠い音がした。 最初、幹夫は何の音か分からなかった。 汽笛でもない。鍋のふたでもない。消印の「どん」とも違う。

 次の瞬間、もう一度――

 ぼおぉ……。

 低い音が腹の底まで届いた。 空気が鳴る音。空が鳴る音。 波の音よりずっと太い。太いのに、怒っていない。 それは、船の汽笛だった。

 幹夫は思わず足を止めた。 蒲原では、サイレンが届かなかった。 でもここでは、こんな太い音が届く。届いて、胸の内側をゆっくり揺らす。

 男がぽつりと言った。

「……来たか」

 その言い方に、嬉しさだけじゃないものが混じっていた。 来た、の中には、来ない、がいつも一緒にいる。港の来たは、そういう来ただ。

 人が集まっていた。 柵の向こうに海。海の向こうに、黒っぽい船影が見える。 船影が近づくにつれ、ひとの肩が上がる。肩が上がるのは、息が浅くなるからだ。

 母は輪の中に入らなかった。 入らないまま、少し離れた場所に立った。 離れた場所に立つのは、逃げじゃない。崩れない場所を探す立ち方だ。

 幹夫は母の横に立って、帳面を胸に抱えた。 胸に抱えると、帳面が盾になる。盾は怖さを全部止めてくれないけれど、角だけを丸くしてくれる。

 船が着くと、ロープが投げられ、港の人がそれを取った。 縄が伸びて、引かれて、結ばれる。 綴じ糸と似ていた。 紙と紙をつなぐ白い糸と、船を岸につなぐ太い縄。太さは違うのに、「ほどけないようにする」という気持ちは同じに見えた。

 そこから先は、声の時間だった。 呼び声、確認の声、泣き声、笑い声。 声が入り混じって、空がざらつく。ざらつく空気は、触ると手が汚れそうなのに、触らずにいられない。

 拡声器のようなものが鳴って、名前が呼ばれ始めた。 名前は、紙の上にいるときより、ずっと速く動く。 呼ばれると、ひとの体が先に動いて、声があとから追いかける。

「……○○、○○……」

 幹夫は読めないのに、耳だけはよく働いた。 働いてしまうのが、少し怖い。 音で聞き取ってしまうと、期待が勝手に走る。走る期待は、止めるのが難しい。

 母の手が、幹夫の手を少しだけ強く握った。 強くなるとき、母は何かを堪えている。 堪えているものを、幹夫は当てたくなかった。 当てたら、それが言葉になってしまうからだ。

 男が帳面を指で軽く叩いた。

「……書けるか」

 幹夫は頷いた。 頷くと、胸の中の警報が「今だ」と言う。

 幹夫は帳面を開き、白い紙の上に、聞こえた音を小さくひらがなで置いた。 置く。置けば残る。残れば控えになる。 字が上手いか下手かより、残るかどうかが大事だと、幹夫はもう知っている。

 呼ばれた名前の音を、幹夫は一つ、二つ書いた。 男はそれを見て、目を細めた。細めた目は、よく見ようとする目なのに、泣きそうな目にも見えた。

「……そうか」

 男はそれだけ言って、帽子を握り直した。 握り直しの指が白い。白い指は、血を引っ込めている指だ。

 しばらくして、群れの向こうで歓声が上がった。 誰かが誰かに抱きつき、誰かが膝をつき、誰かが笑って泣いている。 笑って泣く顔は、昨日の「ただいま」と同じ匂いがした。嬉しいのに、怖い。怖いのに、手が離せない。

 幹夫は、その輪を見てしまう。 見てしまうと、胸が熱くなる。 熱くなるのに、そこに入ることはできない。入ったら、母の場所がなくなる気がしたからだ。

 母は輪の外で、ただ、音だけを受け取っていた。 歓声が上がるたび、母のまぶたがほんの少し強くなる。強くなるのに、泣かない。泣かない目は、崩れないための目だ。

 幹夫は、母の横顔を見た。 横顔はいつもより少し固い。固いのに、固いまま割れない。 その割れなさが、幹夫には痛かった。割れないのは強さじゃなく、割れたら戻せないことを知っているからだ。

 また、拡声器が鳴った。 名前。名前。名前。

 幹夫の耳が、一度だけ跳ねた。 似た音。 父の名の音に、似ている気がした。

 心臓が大きく鳴って、幹夫はその音で耳が塞がれそうになった。 それでも幹夫は、帳面にその音を書いた。 書いて、母を見上げた。

 母の目が、一瞬だけ大きくなった。 大きくなって、すぐ小さくなった。 小さくなるとき、母は息をひとつ飲み込んだ。飲み込む音が見えるくらいの喉の動き。

「……違う」

 母が、ほとんど口の中だけで言った。 違う、の中に、ほっとしたい気持ちと、ほっとしてはいけない気持ちが一緒に入っていた。

 幹夫は帳面に書いた音を指でなぞった。 なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指に移る。 黒い粉は汚れじゃない。 でも今日は、その黒が少し冷たく感じた。

 男が幹夫の帳面を覗き込んで、首を小さく振った。 その首振りは「違う」の首振りだった。 違う首振りが増えるほど、港の空気は薄くなる。薄くなるのに、声だけは濃くなる。

 昼を過ぎるころ、男は静かに言った。

「……戻ろか」

 戻ろ、という言葉は、諦めの言葉にも聞こえる。 でも幹夫には、戻ろは「ほどけないために戻る」言葉にも聞こえた。返し縫いの戻り。控えの戻り。戻りながら進むための戻り。

 母は頷いた。 頷いたあと、港のほうへ一度だけ頭を下げた。 誰に下げたのか、幹夫には分からない。分からないのに、その下げ方が丁寧で、胸がきゅっとした。

 帰り道、汽笛がもう一度鳴った。 ぼおぉ……。 低い音は、来た音じゃなく、離れる音に聞こえた。離れる音は、胸の中に長く残る。

 汽車の中で、男は黙っていた。 黙り方が、さっきより重い。 重いのに、押しつぶされない重さだった。重さを、帽子の中に少しずつしまっているみたいだった。

 母は窓の外を見ていた。 海の匂いがまた遠ざかる。 蒲原の匂いが、少しずつ戻ってくる。 戻ってくる匂いは安心なのに、今日はその安心が少しだけ痛い。安心は「ここ」に父がいないことも一緒に連れてくる。

 幹夫は帳面を開き、今日のページの上に小さく書いた。

 > きてき

 そして、その下に、母に教わったばかりの字を、震えながら置いた。

 迎

 「迎え」の字は難しかった。 でも、辶がついている。歩くところがある。 歩くところがある字は、じっとしていない字だ。 じっとしていない字は、希望に似ている。

 幹夫は字の横に、丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。受付の丸でもない。 ただ「今日がここにある」という丸。

 蒲原に戻ると、祖母が戸口で待っていた。

「どうだった」

 祖母の声は淡々としている。淡々としているのは、泣く人の分まで淡々としている声だ。

 母は短く言った。

「……分からん」

 分からん。 不明。 でも今日は、幹夫はその言葉の中に「明」を思い出せた。小さくても、入っている明。

 夜、幹夫は帳面を縫い箱の下へ差し込もうとして、やめた。 今日は胸に入れておきたかった。 港の汽笛の低さを、紙の間に挟んでおきたかった。

 布団に入ると、耳の奥でまだ汽笛が鳴っていた。 届く音。届くのに、答えじゃない音。 幹夫はその音に、そっと返事をした。

 ――うん。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、迎えに行くための汽笛は届いた。 届いた音を、幹夫は今日も綴じ糸みたいに胸の奥へ結んで、ほどけないように眠りへ運んだ。

 
 
 

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