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遺言書はKey Vaultに眠る


――山崎行政書士事務所事件簿

1 金庫ではなく、秘密箱


山崎行政書士事務所の朝は、たいてい二つの音で始まる。


一つは、所長の山崎が淹れるコーヒーの、やけに渋い湯気の音。


もう一つは、古い複合機が紙詰まりを起こす、断末魔のような音。


「またですか、先生」


補助者の悠真が、相続関係説明図の罫線を引く手を止めた。


「またとは失礼だね、悠真くん。これは機械と人間の対話だよ」


「対話というより、反乱です」


デスクの向こうで、りながスマートフォンを片手に笑った。彼女はデジタル遺品の整理を得意とする、事務所きっての“現代の遺品探偵”である。


その隣では、蓮斗がノートパソコンの画面を見ながら、妙に真剣な顔をしていた。


「所長、複合機の管理画面にまだ初期パスワード使ってます?」


「えっ」


「えっ、じゃないです。これは相続より先に承継不能になります」


「複合機にも相続があるのかね」


「ありますよ。紙詰まりという負債が」


そんなやり取りの最中、事務所の引き戸が控えめに鳴った。


入ってきたのは、喪服の名残を感じさせる四人の家族だった。


先頭に立つ女性は、青野沙江子。亡くなった夫、青野朔太郎の妻だという。六十代前半、背筋は伸びているが、目元には疲労が沈んでいた。


その後ろに、長男の渡、長女の菜月、次男の奏が並んでいる。


ただし、並んでいるだけだった。


心は、どう見ても並んでいない。


長男の渡は腕を組み、唇を固く結んでいる。

長女の菜月は、何かを言いたそうに弟を見ている。

次男の奏は、軽薄な笑顔を浮かべているが、指先だけが小刻みに震えていた。


山崎が席を勧めると、沙江子は小さな封筒をテーブルに置いた。


「夫が急に亡くなりまして。心筋梗塞でした。葬儀のあと、台所の引き出しから、これが出てきたんです」


封筒の中には、一枚のメモが入っていた。


そこには、丸く几帳面な字でこう書かれていた。


遺言書は金庫ではない。

Key Vaultに眠る。

四人で開け。

MIOを疑うな。

青いマグを割った者を信用しろ。

朔太郎


沈黙が落ちた。


最初に口を開いたのは、所長の山崎だった。


「きー……ばると?」


蓮斗が眼鏡を押し上げた。


「Azure Key Vaultですね。クラウド上で、パスワードや暗号鍵、証明書などの秘密情報を安全に保管するサービスです」


山崎はうなずいた。


「つまり、金庫だね」


「雑に言えば」


「クラウドの秘密箱です」


りなが補足した。


「ただ、遺言書そのものをクラウドに置いているとは限りません。正式な遺言書の所在を示す情報とか、暗号化ファイルを開く鍵とか、そういうものが保管されている可能性があります」


渡が低い声を出した。


「父は元エンジニアでした。退職前はクラウド基盤の設計をしていました。こういう悪ふざけは、父らしいです」


「悪ふざけ、ね」


菜月が刺すように言った。


「お兄ちゃんは詳しいんでしょ、こういうの。だったら、もう中身を見たんじゃないの?」


渡の眉が動いた。


「見てない」


「本当に?」


「何が言いたい」


「お父さんが亡くなった翌朝、あなた、実家に来てたじゃない」


渡の顔が険しくなった。


「母さんに頼まれて、ルーターを見に行っただけだ」


奏が乾いた笑いを漏らした。


「相続開始一日目でルーター修理。さすがエンジニア一家」


「奏、茶化さないで」


沙江子の声が震えた。


山崎は、コーヒーカップを静かに置いた。


「まず確認しましょう。私たち行政書士ができるのは、戸籍の収集、相続人の調査、相続関係説明図や財産目録、遺産分割協議書の作成などです。争いが深刻になる場合は、弁護士さんにつなぎます。ただ、事実を整理することで、争いがほどけることもあります」


悠真が背筋を伸ばした。


「相続手続としては、まず故人の出生から死亡までの戸籍を集め、相続人を確定します。そのうえで相続関係説明図を作成し、財産目録を整理します。遺言書があれば、その内容を確認します。遺言で処理されていない財産があれば、相続人全員で遺産分割協議書を作る流れになります」


奏が小声で言った。


「……その説明、父さんが聞いたら喜びそう。フローチャートにしたがるから」


誰も笑わなかった。


蓮斗はメモを見つめていた。


「問題は、この一文です」


MIOを疑うな。


りなが首をかしげる。


「ミオさん?」


菜月が即座に顔を上げた。


「やっぱり、女の人?」


沙江子の手が膝の上で固まった。


渡が吐き捨てた。


「父がそんなことをするわけない」


「じゃあMIOって何よ」


家族の疑心暗鬼が、メモの上で火花を散らしていた。


蓮斗は、ぽつりと言った。


「MIOは、人名とは限りません」


「どういう意味?」


「Managed Identity Object。クラウド上の仕組みで使う、管理された身元情報の略称として、朔太郎さんがそう呼んでいた可能性があります」


山崎が感心したように言った。


「つまり、ミオさんは人間じゃない?」


「少なくとも、最初から愛人と決めつけるのは早いです」


奏が肩をすくめた。


「父さん、死後にまで家族をクラウドで混乱させるの、才能だな」


りながメモを見た。


「それから、青いマグを割った者を信用しろ、というのも変ですね」


沙江子が目を伏せた。


「青いマグは、夫が毎朝使っていたものです。亡くなる一週間前に割れてしまって」


「誰が割ったんですか?」


りなが尋ねると、四人は一斉に別の方向を見た。


山崎が微笑んだ。


「なるほど。今日のご相談は、相続とクラウドとマグカップですね」


「最後だけ急に小さいな」


奏がぼそりと言った。


けれど、その小さなマグカップが、事件の底に沈んでいることを、その時はまだ誰も知らなかった。


2 アクセスログは嘘をつかない、ただし人間は読み間違える


翌日、青野家の四人は、朔太郎のノートパソコン、エンディングノート、そしてクラウドサービスの請求書を持って再び事務所を訪れた。


りなは最初に釘を刺した。


「勝手にログインしたり、パスワードを破ったりはしません。ご家族の同意、利用規約、必要な証明書類を確認しながら進めます。デジタル遺品は、思い出でもあり、個人情報でもあり、財産につながることもありますから」


奏が小さく手を挙げた。


「スマホの中の父の変な写真も財産ですか?」


「精神的財産です」


「処分不能財産だ」


渡がぼそっと言い、菜月が初めて少しだけ笑った。


朔太郎のエンディングノートは、几帳面というより偏執的だった。


銀行口座、証券口座、保険、車、古い腕時計、サブスクリプション、ドメイン名、クラウドストレージ、写真の保存場所。

さらに、家族写真のフォルダには「見てもよい」「母さんに聞け」「絶対に年賀状に使うな」という謎の分類まであった。


蓮斗は、家族全員の同席のもと、残された手順書に従ってAzureの管理画面に入った。


Key Vaultの名前は、いかにも朔太郎らしかった。


kv-aono-lastwill


「そのまんまじゃん」


奏がつぶやいた。


しかし、画面に表示されたアクセスログを見た瞬間、空気が凍った。


秘密情報 yuigon-location が、朔太郎の死亡後に一度読み出されていた。


読み出した主体名は、


wataru-aono


菜月が椅子を蹴るように立ち上がった。


「やっぱり!」


沙江子が口元を押さえる。


渡は画面を凝視していた。


「違う。俺じゃない」


「名前が出てるじゃない!」


「俺は見てない!」


奏が割って入る。


「兄貴、正直に言ったほうがいいんじゃないの。父さん、遺言で何か兄貴に都合悪いこと書いてた?」


渡の目が赤くなった。


「お前に言われたくない」


奏の笑顔が消えた。


「どういう意味」


「父さんの金をあてにしてたのは、お前だろ」


「やめて!」


沙江子の声が割れた。


事務所の壁時計が、やけに大きく秒を刻んでいた。


山崎は、静かに言った。


「蓮斗くん。ログから、もう少しわかるかい」


蓮斗はキーボードを打った。


「表示名だけでは判断できません。人間のアカウントなのか、サービスの識別子なのか、オブジェクトIDを見ます。ユーザーエージェントも確認します」


「日本語で」


山崎が言った。


「名札だけで犯人を決めない、ということです」


「最初からそう言ってくれ」


りなが画面を覗き込んだ。


「このアクセス、ユーザー操作じゃない気がする。Azure Functionsのログが残ってる」


蓮斗がうなずいた。


「はい。wataru-aono は長男の渡さんのアカウントではありません。マネージドIDです。朔太郎さんが作った自動処理の身元情報です」


渡が息を止めた。


「じゃあ……」


「少なくとも、このログだけで渡さんが見たとは言えません」


菜月は唇を噛んだ。


「でも、どうして名前が渡なの」


蓮斗は少し間を置いた。


「おそらく、朔太郎さんのダジャレです」


「は?」


「秘密を家族へ“渡す”役だから、wataru」


山崎が深くうなずいた。


「いい名前だ」


「先生、今は感心する場面じゃありません」


悠真が小声で言った。


ただし、謎が解けたわけではなかった。


Key Vaultには、三つの秘密情報があった。


yuigon-location

mio

blue-mug


そして、blue-mug だけが、削除されかけた履歴を持っていた。


しかも、その削除要求は、朔太郎の死亡翌日の深夜。


実行者の表示名は、


natsuki-aono


菜月だった。


今度は、渡がゆっくり妹を見た。


菜月の顔から血の気が引いた。


「違う……私は……」


奏が椅子を引いた。


「何なんだよ、これ」


りなが静かに言った。


「まだ決めつけないでください。表示名は罠になります。でも、菜月さん」


菜月はバッグを握りしめた。


「私、帰ります」


「菜月!」


沙江子が呼び止めるより早く、菜月は事務所を飛び出した。


山崎行政書士事務所の古い引き戸が、嫌な音を立てて閉まった。


その音は、ただの戸の音ではなかった。


家族の中に、何かが閉ざされた音だった。


3 戸籍は静かに真実を出す


その午後、悠真は戸籍の請求書類を整えていた。


朔太郎の出生から死亡までの戸籍。

改製原戸籍。

除籍謄本。

本籍地の移動履歴。

相続人を確定するためには、避けて通れない道だった。


「相続は、亡くなった瞬間から始まる。でも手続は、過去を一枚ずつめくるところから始まる」


悠真はそう思っていた。


数日後、集まった戸籍を確認していた悠真の手が止まった。


青野朔太郎。

配偶者、沙江子。

長男、渡。

長女、菜月。


そして、次男、奏。


ただし、奏の欄には、養子縁組の記載があった。


悠真は息を呑んだ。


奏は、沙江子の連れ子だった。

十五年前、朔太郎と沙江子が婚姻した後、朔太郎は奏と養子縁組をしていた。


戸籍上、奏は朔太郎の子であり、相続人である。


法的には明確だ。


だが、人の心は法的記載だけでは整わない。


悠真は相続関係説明図の下書きを見つめた。


中心に、被相続人・青野朔太郎。

横に、配偶者・沙江子。

下に三人の子、渡、菜月、奏。


線は、きれいに引ける。


しかし、その一本一本が誰かの胸を裂くこともある。


山崎が隣に来た。


「見つけたか」


「はい」


「奏さんは相続人だね」


「はい。養子縁組がありますから」


「なら、図には事実を書く」


「でも、ご本人が知っているかどうか」


山崎は、窓の外の曇り空を見た。


「戸籍は、人の関係を記録する。でも、愛情の量までは記録しない。だから私たちがするのは、事実を刃物にしないことだ」


悠真はペンを置いた。


その時、りなが事務所に戻ってきた。


「菜月さんと連絡が取れました」


「どうだった?」


「泣いていました。blue-mug を消そうとしたのは自分だと認めました。でも、理由は言えないって」


蓮斗が顔を上げる。


「やっぱりアクセスしてた?」


「お父さんの古いスマホに、認証が残っていたそうです。たまたま見つけて、怖くなったって」


山崎が眉を寄せた。


「怖くなった?」


りなは、手帳を閉じた。


「“あれを見たら、奏が壊れる”と言っていました」


悠真の背中に冷たいものが走った。


青いマグ。

削除されかけた秘密情報。

奏の養子縁組。

MIO。

そして、遺言書。


パズルのピースは増えているのに、絵はまだ見えなかった。


その夜、事件はさらに妙な方向へ転がった。


山崎行政書士事務所の複合機が、誰も触っていないのに突然動き出したのである。


「うわっ!」


残業中の悠真が飛び上がった。


蓮斗が画面から顔を上げた。


「また紙詰まりですか?」


「違います! 勝手に印刷してます!」


複合機から吐き出された紙には、短い文字列が印刷されていた。


Four together.

Do not read alone.

Blue mug is not the secret.

It is the apology.

S.


悠真は真っ青になった。


「所長、故人から英語の怪文書が」


山崎は目を細めた。


「朔太郎さん、なかなか国際的な幽霊だね」


蓮斗は紙を奪うように取った。


「幽霊じゃありません。メールtoプリントの設定です。朔太郎さんの自動処理が、一定条件で事務所の複合機に印刷するようにしていたんでしょう」


りなが頭を抱えた。


「亡くなった後に複合機でメッセージ送ってくる人、初めて見た」


次の瞬間、事務所の外で物音がした。


引き戸の向こう。

夜の廊下に、人影が立っている。


蓮斗が素早くドアを開けた。


そこにいたのは、菜月だった。


傘も差さず、髪を濡らして、息を切らしていた。


「その紙、見せないで」


菜月は震える声で言った。


「奏には、見せないで」


4 青いマグを割った者


翌朝、山崎事務所には再び青野家が集まった。


菜月は目を腫らしていた。

渡は何も言わず、奏はわざと明るく振る舞うのをやめていた。

沙江子は、最初から泣きそうな顔だった。


山崎はテーブルの上に、四つの資料を並べた。


一つ目、戸籍一式。

二つ目、相続関係説明図。

三つ目、財産目録の下書き。

四つ目、Key Vaultのアクセス権限とログの整理表。


「今日は、二つの話をします。相続手続の話と、朔太郎さんが残した仕掛けの話です」


悠真が相続関係説明図を示した。


「戸籍を確認した結果、相続人は、配偶者である沙江子さん、子である渡さん、菜月さん、奏さんの四名です」


奏が小さく笑った。


「当たり前じゃん」


誰も返事をしなかった。


奏の笑みがゆっくり消える。


「え。なに」


沙江子が手を伸ばした。


「奏」


奏は母を見た。


「なに。母さん」


悠真は言葉を選んだ。


「戸籍上、奏さんは、朔太郎さんと養子縁組をされています」


奏は瞬きをした。


「養子……?」


沙江子の涙がこぼれた。


「あなたが小さい頃、お父さんと結婚して、そのあと正式に養子縁組をしたの。あなたは、朔太郎さんの子よ。ずっと」


奏は動かなかった。


渡が俯いた。


菜月が唇を噛んだ。


「私、知ってた」


奏が菜月を見た。


「姉ちゃんが?」


「高校の時に、戸籍を見たことがあって。でも、お父さんに言われたの。奏が自分で必要になった時まで、こっちから言うなって」


「なんで」


菜月の声が震えた。


「お父さんが怖がってた。相続の時、戸籍を集めたら必ずわかる。だから、その時に奏が傷つかないように、遺言書を残すって」


奏は乾いた声で笑った。


「なるほど。俺、相続イベントで出生設定が開示されるタイプのキャラだったんだ」


りなが思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。


山崎は、何も言わなかった。


蓮斗が次の資料を出した。


「Key Vaultについて説明します。まず、wataru-aono というアクセスは、渡さんではありません。朔太郎さんが作った自動処理のマネージドIDです。秘密を“渡す”役、という命名でしょう」


渡は、苦笑とも泣き笑いともつかない顔をした。


「父さん、最低のダジャレだな」


「次に、MIOですが、これも愛人ではありません」


沙江子が小さく息を吐いた。


「よかった……」


「朔太郎さんのメモでは、MIOは二重の意味を持っていました。技術的には Managed Identity Object。けれど、秘密情報 mio の中には、こう書かれていました」


蓮斗は紙を読み上げた。


MIO = My Important Ones.

私の大事な人たち。

沙江子、渡、菜月、奏。

疑うな。

疑いは鍵よりも簡単に家を壊す。


奏の喉が鳴った。


菜月が泣き出した。


渡は目元を手で覆った。


りなが、今度は blue-mug の復元結果を示した。


「菜月さんが削除しようとした blue-mug は、Key Vaultの削除保護があったため残っていました。中身は、遺言書の所在ではありません。動画ファイルを開くための鍵でした」


「動画?」


沙江子が聞いた。


りながノートパソコンを回した。


「再生してもいいですか」


四人は黙ってうなずいた。


画面に、青野朔太郎が映った。


痩せた顔。

少し照れた笑い。

背後には、台所の棚と、青いマグ。


『えー、これを見ているということは、私はたぶん手続を面倒にしたまま死んだということです。すみません。山崎先生、巻き込んでしまって申し訳ありません。コーヒーはもう少し薄くてもいいと思います』


山崎が真顔で言った。


「そこは遺言ではないね」


動画の中の朔太郎は続けた。


『まず、渡。アクセスログで疑われる名前をつけてすまん。お前なら見抜けると思ったが、家族はシステムではない。ログの表示名だけで人を疑うな。これは私の反省です』


渡が唇を噛んだ。


『菜月。お前はいつも、人の痛みに先回りする。奏を守ろうとしてくれてありがとう。でも秘密は、守るほど重くなることがある』


菜月は泣きながらうなずいた。


『奏。戸籍を見て驚くだろう。怒ってもいい。笑いに逃げてもいい。でも一つだけ、これだけは言わせてくれ。お前と養子縁組した日は、私の人生でいちばん緊張した日だった。役所で書類を出した後、お前が“じゃあ今日から父さんポイント何点?”と聞いた。私は“まだ三点くらいかな”と答えた。あの日から、満点を目指していた』


奏の肩が震えた。


『血がどうとか、戸籍がどうとか、人は言うかもしれない。だが私は、法律上だけでなく、毎朝の味噌汁の薄さでも、リモコンの取り合いでも、お前のバンドの爆音でも、お前の父親だった。いや、最後のは少しつらかった』


奏が泣きながら笑った。


『沙江子。黙っていてくれてありがとう。そして苦しませてすまない。君が私にくれた家族は、私の人生の一番大きな財産でした』


沙江子は声を出さずに泣いた。


動画の朔太郎は、最後に青いマグを手に取った。


『それから、青いマグを割った者を信用しろ、について。実は、割ったのは私です』


全員が固まった。


奏が涙声で叫んだ。


「父さんかよ!」


動画の中の朔太郎は、申し訳なさそうに頭を下げた。


『夜中にこっそりプリンを食べようとして落としました。猫のせいにしました。猫はいません。すみません』


山崎が深くうなずいた。


「罪深い」


蓮斗が小声で言った。


「先生、そこですか」


『青いマグは、誰かが割ったと思い込むと、家族は互いを疑う。だが、本当は誰でもなかったり、もう謝れない者だったりする。相続でも同じだ。疑う前に、確かめてほしい。だからこの動画を残しました』


画面の朔太郎は、少し真面目な顔になった。


『遺言書の所在は、Key Vaultの yuigon-location に入れてあります。紙の遺言書そのものは、法務局の自筆証書遺言書保管制度を利用しました。保管番号と必要な情報を、山崎先生に確認してもらってください』


そして最後に、彼はいつものような照れ笑いをした。


『私の大事な人たちへ。財産より先に、互いを失わないでください』


動画はそこで止まった。


誰もすぐには話せなかった。


古い複合機だけが、なぜか小さく唸った。


山崎がそれを軽く叩いた。


「君も泣いているのかね」


悠真が言った。


「紙詰まりです」


5 遺言書の所在


Key Vaultの yuigon-location には、正式な遺言書の保管番号と、関連書類の所在が記されていた。


蓮斗はアクセス権限を整理し、朔太郎が残したクラウド設定を一つずつ説明した。


「Key Vaultに遺言書そのものが眠っていたわけではありません。眠っていたのは、遺言書の所在を示す秘密情報と、家族への動画を開く鍵です」


りなが続けた。


「デジタル遺品としては、クラウドアカウント、写真、メール、サブスクリプション、ドメイン、パスワード管理情報を整理します。解約するもの、残すもの、相続財産に関わるものを分けましょう」


悠真は財産目録を差し出した。


「現時点で確認できた財産は、不動産、預貯金、証券口座、自動車、退職金関係、生命保険、クラウド上の有料サービス、ドメイン名などです。遺言書で指定されている財産はその内容に従い、指定のないものについては、相続人全員で協議して遺産分割協議書を作成することになります」


奏が鼻をすすりながら言った。


「父さんのプリンの隠し場所は財産目録に入りますか」


悠真は真剣に考えた。


「消費期限が切れていなければ、動産として……」


「悠真くん、そこまで厳密にしなくていい」


山崎が止めた。


渡が、奏の方を見た。


「悪かった」


奏は目をそらした。


「何が」


「金をあてにしてるとか言ったこと」


奏はしばらく黙っていた。


「まあ、実際あてにはしてたよ。バンドの機材ローン、まだあるし」


菜月が涙のまま怒った。


「そういうところ!」


奏は笑った。


「でも、父さんが俺を息子って言ってくれたから、機材は自分で払う。……たぶん」


渡が笑った。


「たぶんかよ」


沙江子が、三人の子を見た。


「お父さん、面倒な人だったでしょう」


三人は同時に言った。


「面倒だった」


その声が揃った瞬間、事務所の空気が少しだけ温かくなった。


菜月は奏に向き直った。


「ごめん。守るつもりで、隠してた」


奏は姉を見た。


「姉ちゃんは昔からそうだよ。俺が転ぶ前に絆創膏持ってくる」


「悪い?」


「いや。助かる。でも、これからは転んでからでいい」


菜月は笑って、また泣いた。


渡がぽつりと言った。


「父さん、俺が技術で何でも解決できると思ってた。でも、家族のアクセス権限は難しいな」


蓮斗が言った。


「最小権限の原則だけでは、家族は運用できませんからね」


山崎が感心したようにうなずいた。


「いいことを言った気がするが、半分わからない」


りなが笑った。


「家族には、パスワードじゃなくて会話が必要ってことです」


「それならわかる」


6 秘密箱の外


数週間後、青野家の相続手続は少しずつ進んでいった。


戸籍収集は完了。

相続関係説明図も整った。

財産目録には、朔太郎らしい細かい注釈が増えた。


たとえば、古い腕時計の欄には、


渡へ。時間を守れ。特に母さんとの約束。


工具箱の欄には、


菜月へ。何でも直そうとするな。壊れたまま一緒にいるものもある。


音楽機材用の防音材の領収書には、


奏へ。父はうるさいと言ったが、実は少し好きだった。少しだけ。


沙江子は、それらを読むたびに泣いたり笑ったりした。


遺言書の内容に従って、自宅は沙江子が取得することになった。預貯金や証券の一部は子どもたちへ。指定のない細かな動産やデジタル資産については、四人で協議し、遺産分割協議書を作ることになった。


青野家は、争わなかった。


少なくとも、財産では。


ただし、朔太郎が残した大量のケーブル類を誰が処分するかについては、三度ほど紛争になりかけた。


「これは遺品じゃなくて罠です」


渡が段ボールを抱えて事務所に来た時、りなは本気でそう言った。


山崎はその中から一本のケーブルを持ち上げた。


「これは何に使うのかね」


蓮斗が即答した。


「たぶん、誰も覚えていない何かです」


奏が言った。


「父さんの相続財産で一番多いの、思い出じゃなくて変換アダプタだったな」


菜月が笑った。


「でも、捨てる前に写真撮ろう。お父さん、怒るかもしれないから」


りなが頷いた。


「デジタル供養ですね」


悠真は協議書の文案を確認しながら言った。


「では、ケーブル類一式については、相続人全員の合意により処分、ただし一部写真データとして保存、と」


奏が目を丸くした。


「それ本当に書くの?」


「書けます」


「行政書士すごいな」


「そこに感動されるとは思いませんでした」


手続が一段落した日、沙江子は山崎事務所に青いマグを持ってきた。


割れたものではない。

同じ型を探して買い直した、新しい青いマグだった。


「夫の代わりに、お詫びです。あの人、プリンも黙って食べていましたし」


山崎はマグを受け取った。


「では、事務所で大切に使わせていただきます」


蓮斗がすかさず言った。


「所長、落とさないでくださいね」


「私はプリンを夜中に食べない」


りなが笑った。


「昼なら食べるんですね」


悠真が、新しいマグを棚に置いた。


その横には、例のメモのコピーが額に入れて飾られていた。


遺言書は金庫ではない。

Key Vaultに眠る。

四人で開け。

MIOを疑うな。

青いマグを割った者を信用しろ。


山崎はそれを眺め、しみじみと言った。


「クラウドにも、人情は眠るんだねえ」


蓮斗が即座に訂正した。


「Azureの正式機能ではありません」


りなが続けた。


「でも、請求書には載らない価値ですね」


悠真は、完成した相続関係説明図をファイルに綴じた。


線で結ばれた家族の名前。

その線の外側にあった疑い。

そして、線の内側に残ったもの。


遺言書はKey Vaultに眠っていた。


けれど本当に眠っていたのは、秘密ではなかった。


疑いに埋もれかけた、家族への言葉だった。


そして山崎行政書士事務所の複合機は、その日も最後に一枚だけ紙を詰まらせた。


山崎は青いマグを片手に、複合機へ向かって言った。


「君の相続手続も、そのうち考えないといけないね」


蓮斗がため息をついた。


「その前に、廃棄手続です」


事務所に笑い声が広がった。


外では、雨上がりの光が雲の切れ間から差し込んでいた。

 
 
 

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