金の柱のあいだで、息をひとつ――サンクトペテルブルク・冬宮の午後
- 山崎行政書士事務所
- 9月16日
- 読了時間: 4分

ネヴァの風がまだ冷たいのに、冬宮の緑は妙に温かい色をしていた。オンラインで買っておいたチケットを入口のゲートにかざすと、ピッが鳴らない。画面が暗かったらしい。係のマダムが私のスマホを指で最大輝度にして、もう一度かざす。「Готово(できたわ)」。何でもないことだが、金色の建物に入る前に、まず心の緊張がひと段落した。
クロークでコートを預け、青い番号札をポケットへ。ところが階段を上がる途中、札がコロコロと落ちて、ピカピカの床の上を逃げた。拾おうとしても指が追いつかない。近くの監視員のバーブシュカが長い定規みたいな棒をスッと差し出し、札を端へ寄せてくれる。「Ничего страшного(たいしたことない)」。その言い方がちょうどいい温度で、館内の空気にうまく溶け込んだ。
やがて現れたのが、金の柱が果てしなく並ぶ大広間。一本一本が光を縦に引き伸ばして、床の寄木に細い線を落としている。私は思わず数え始め、途中で迷子になって笑った。隣の男の子も同じことをしていたらしく、彼のお母さんが「раз, два, три…」とロシア語で数え、私は日本語で追いかける。言葉は違っても、金の柱は同じテンポで立っている。
最初の“やらかし”は、その広間の端で。写真を撮ろうと身をかがめた瞬間、カメラのストラップの金具が緩んでぶらり。胃の位置が一段落ちるあの感覚。通りがかった若い係員が小さなキーリングを取り出し、金具に通して簡易ロックを作ってくれた。「Так безопаснее(こっちの方が安全です)」。金属の輪がチリと鳴り、金の柱の反射も少し落ち着いて見えた。
別の部屋では、私のストールの端が風でひらりと舞って展示ケースの角に噛んだ。慌てていると、バーブシュカがбулавка(安全ピン)を貸してくれ、端をひとねじりして八の字で留める。「Ветер—друг, не враг(風は敵じゃないの)」。そのひと言が妙にうれしく、胸の中のほこりまで払われた気がした。
歩き疲れてベンチで水を飲もうとしたら、キャップが緩くて一滴こぼれた。床に落ちる前に、清掃の女性がさっと布切れを当ててトントン。「Не волнуйтесь(心配いらないわ)」と笑う。私はポケットののど飴を半分に割って、彼女と隣のバーブシュカに渡す。彼女はかわりにポーチから砂糖入りの小袋をひとつ手渡してくれた。「чай用(お茶用よ)」。飴と砂糖の小さな交換で、金の部屋がほぐれていく。
さらに奥で、エルミタージュの猫の写真を見つける。地下でネズミ番をする彼らの紹介パネルだ。館内では会えないけれど、売店のポストカードに猫のスタンプを押してくれるコーナーがあり、私は迷わず一枚買って押してもらった。インクのにじみが、金の柱よりも個人的なお土産になった。
昼どき、カフェの列で前の夫婦がボルシチとピロシキを受け取る。席が足りず困っていると、向かいの席の若者が**「ここ半分どうぞ」とテーブルをスライド**。私は持っていたチョコレートを半分こでお礼に回す。見知らぬ人と向き合ってスープを啜ると、金色の空間が食卓の高さに近づいてくる。
さて、退出時。クロークで青い札を出そうとして――ない。さっき拾ってもらったはずの札が、またどこかへ消えた。ポケットをひっくり返していると、さきほどのバーブシュカが私の襟の裏から札をつまみ出した。ストールを留めてくれたピンの影に隠れていたらしい。「Нашли!(見つかった!)」と半分笑いながら、彼女はそのピンを私の手に戻し、「Оставь на память(記念に持っておきなさい)」。私は胸の前で手を合わせ、ピンを内ポケットへ。
外へ出ると、ネヴァの風がまた冷たく頬を撫でた。金の柱は建物の中に置いてきたのに、胸の内側には細い金の線がまだ残っている。今日の出来事――暗かった画面の輝度アップ、逃げた札のコロコロ、ストラップのチリ、ストールの八の字、布のトントン、猫のスタンプ、カフェの半分こ。どれも大事件じゃないのに、金箔のように薄く重なって、旅のページを明るくしてくれる。
冬宮で覚えたのは、豪華さの中での身のこなしだ。落ち着いて明るくし、ほどけそうなものは小さく結び、こぼれたら軽く叩き、迷ったら半分こ。次にまたここを訪れるときも、私はきっと入口で深呼吸をし、ポケットのピンを指で確かめる。金の柱は相変わらずまっすぐで、その合間を通る人たちは今日みたいに、やさしい手つきで互いを支えているだろう。





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