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金の柱の下で、蝶々結びを習う夜――パリ・オペラ座〈ガルニエ宮〉

オペラ通りを上っていくと、通りの先に蜂蜜色の殻が光り、近づくほどに彫刻は濃く、文字は浅く見えた。扉を開けると、空気がふわりと赤いビロードの温度になる。ロビーに並ぶ金の柱は、一本ずつがろうそくの炎のようで、天井のフレスコは今夜の幕の内側からすでに音が聞こえるようだった。ここは1861年に着工して1875年に完成した、シャルル・ガルニエ設計の劇場。何千という職人の手が重なって、この第二帝政風の過剰な美しさができている——頭ではそう分かっていても、身体は単純に「わぁ」と言うばかりだ。

最初の“やらかし”は、切符を見ながら間違った扉に吸い込まれたこと。列をさかのぼって戻ろうとオロオロしていると、黒のドレスを着たウシュレ(案内係)のマダムが、私のチケットを片手で持ち替え、もう片方の手で蝶々結びの形を作って見せた。「Aile droite, pas gauche.」——右の翼へ。指先の小さなジェスチャーひとつで、迷子の気持ちにリボンがかかる。

幕間までのあいだに、私は大階段をのぼり、吹き抜けに身体を立てかける。見上げれば、雲の厚みにも似た天井画。手すりには掌の温度が残っており、どこかから香水と古い木の匂いが混じってくる。ここでも“やらかし”はきちんと起こる。ストールの端が手すりの装飾にくるりと絡み、取れない。近くの紳士がポケットから極細のリボンを取り出し、端を八の字でひと留めして、するりと外してくれた。「Le vent est jaloux.(風が嫉妬したね)」。この建物は、結び目の解き方すら優雅を求めるらしい。

休憩のベルが鳴り、人の流れがグラン・フォワイエへ吸い込まれていく。鏡が互いに光を返し合い、まるで小さなヴェルサイユ。シャンパンの屋台に並んで、泡の入ったグラスを受け取った瞬間、一滴がプログラムにぽたり。あっと固まった私の横で、見知らぬマダムが炭酸水を含ませたナプキンを差し出し、文字の上をトントンと軽く叩く。「C’est rien.」——たいしたことないわ。紙の皺も、気持ちの皺も、少しずつ伸びていく。

客席に戻ると、隣の席の女の子がオペラグラスを握ってじっと舞台を見ている。私は自分の小さな双眼鏡を半分の時間だけ貸すことにした。譜面のページをめくる指、コール・ド・バレエの同じ高さの顎先、指揮者の肩が呼吸するところ——分け合った数分の視界は、思っていたよりずっと長い余韻を残した。終わってグラスを返すと、彼女はポケットからドラジェを二粒取り出し、一粒を半分に割って私の手のひらに乗せる。砂糖の甘さが、音の余白に溶けた。

二幕目の直前、三つめの“やらかし”。靴のストラップが緩んで、座席の縁に立ったとたんぱちんと外れた。焦る私の足もとに、さっきのウシュレが透明な細テープをさっと貼り、見えない位置でひと巻きしてくれる。「Ça tient pour la nuit.(今夜はこれで持つわ)」。オペラの裏方に渡された舞台の魔法が、客席にもひとつ落ちてくる。

カーテンコール。拍手は金の柱を上って天井へ届き、そこからマチネの光みたいに降ってきた。ふと見上げれば、シャンデリアの金具が微かに震える。頭の片隅に『オペラ座の怪人』の影がよぎり、私は自分の胸の前で、さっき教わった蝶々結びをもう一度つくる。怪人がいたのかどうかは知らない。でも、この建物の「怪」はきっと、人の手が積み重なって起きた丁寧の怪だ。

外に出ると、オペラ通りの夜は舞台の袖みたいに深く、タクシーのライトが小さなスポットになって路面に落ちていた。扉の前で、私はウシュレに礼を言い、彼女は「Bonne nuit」と肩で微笑む。

今日の小さな出来事——間違った扉を蝶々結びで正され、ストールは八の字で救出され、プログラムはトントンで息を吹き返し、双眼鏡は半分こされ、靴は見えない一巻きで支えられた。どれも大事件ではないのに、金の柱の縦の反射と同じくらい、はっきりと胸に残っている。

ガルニエ宮で覚えたのは、豪華さの中での身のこなしだった。迷ったら合図を見つけ、ほどけたら小さく結び、こぼれたらそっと叩き、良いものは分け合う。次にまたここへ来たら、私はきっと最初にBonjourを忘れず、席番を確かめ、ストールの結び目を指でなぞる。そして金の柱の間を抜けて、天井の物語の下へ。1861年から1875年にかけて作られたこの過剰に美しい箱は、きっとまた今夜のように、人の手と拍手でやさしく鳴るだろう。

 
 
 

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