金色の女神を目印に――オペラ・ガルニエ前で起きた小さな事件簿
- 山崎行政書士事務所
- 9月16日
- 読了時間: 3分

オペラ通りをまっすぐ歩くと、視界の正面にピスタチオ色のドームと、両脇で炎みたいに光る金色の女神が現れた。ファサードは白いクリームを重ねたケーキのようで、列柱の影が路面に鍵盤みたいな縞を落としている。車のブレーキのきゅうという音、観光バスのアナウンス、パン屋から流れてくる焦がしバターの匂い。ここはパリの心臓、オペラ・ガルニエの正面だ。
最初の“やらかし”は、完璧な正面写真を撮ろうと道路のセンターへ一歩出た瞬間。ポケットから取り出したメトロの回数券が指をすり抜け、石畳をコロコロ。慌てる私より先に、黄色い観光バスの行列に並んでいた少年がつま先でそっとストップしてくれた。私が「メルシー」と頭を下げると、お母さんがバッグからキャラメル(Carambar)を出し、「半分こ?」。私はポケットののど飴を半分に割って返す。砂糖同士の小さな交換で、騒がしい大通りが急にやわらいだ場所に変わる。
階段をのぼってファサードの彫刻を見上げる。金は日差しでじんわり熱を持ち、大理石は驚くほど冷たい。風が抜け、私のストールの端が手すりの飾りにくるりと噛んだ。二度目の“やらかし”。近くの警備員さんが胸ポケットから安全ピンを出し、端をひとねじりして八の字で留め、するりと外してくれた。「風はここでは働き者です」と冗談を言う。なるほど、黄金の女神は風に羽根をあおがれて、いっそう輝いて見える。
のどが渇いて、向かいのカフェでエスプレッソをテイクアウト。受け取った瞬間、紙カップの縁からぽたりと一滴がシャツに落ちた。三度目の“やらかし”。店員のお兄さんが炭酸水で湿らせた紙ナプキンを渡し、文字どおりトントンと軽く叩く手つきをしてみせる。言われた通りにやると、シミも焦りも薄くなる。お礼にクロワッサンを買って、階段に座ってひと口。粉砂糖がまたはらりと飛んで、思わず笑う。
午後の館内見学の時間。入口でQRコードをかざすが、今度は画面が暗い。四度目の“やらかし”。係のマダムが無言で私のスマホを最大輝度にして「Bonne visite」。あっという間に通過できた。豪華なホールを一巡して外に出る頃には、通りの光が少し蜂蜜色に変わり、金の女神は夕方用のきらめきに衣替えしていた。
階段の片隅では、新婚カップルが写真撮影の真っ最中。風でベールがふわりと舞ってカメラマンが困る。私はさっき教わったばかりの要領で、鞄に付けていた細い紐を外し、端を八の字でひと留め。おばさま方が「パーフェクト!」と親指を立てる。たぶん結婚生活も、こういう小さな結び目の積み重ねで安定するのだろう。
夕方の渋滞が始まると、横断歩道の音がせわしなくなる。私は石畳に腰を下ろして、絵はがきを書き始めた。さっきのキャラメルをくれた親子に遭遇し、今度は男の子がミネラルウォーターを差し出す。「半分こ」。ひと口飲むと、今日の失敗がすべて喉の奥で丸くなる。封を閉じる糊がわりに、カフェのレシートを折って差し込む小技も覚えた。
帰り際、ファサードをもう一度だけ見上げる。金、緑青、白の三重奏。豪奢そのものなのに、ここでいちばん心に残ったのは、・転がりかけた回数券をつま先でストップしてくれたこと。・風とは八の字で和解できること。・シミは炭酸水でトントンが効くこと。・困ったら最大輝度と「メルシー」。・甘いものは半分こにすると一層甘いこと。
大きな建物を前にして、人を救うのはたいてい小さな手当てだ。次にまたこの通りに立つときも、私はきっと最初にストールの結び目を確かめ、スマホの輝度を上げ、何かを半分こする準備をする。そうすればオペラ・ガルニエは、今日と同じように、金色の女神と風と人のやさしさで、私をやわらかく迎え入れてくれるはずだ。





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